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抱卵の旋風  作者: 小山彰
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夢の在処

 実家に戻ると、わたしの顔を見るなり、母が叱るように言った。

「遅かったわね。雨が降っていたでしょ。早く着替えなさい。風邪をひいたらどうするの」

 いくつになっても母から見ればわたしは子ども。なにがどうあれ、いつまでも子どもでいられる実家はやっぱり心地よい。

 摩耶は母のベッドで眠っていた。一日窮屈な着物で歩き回ったので疲れたのだろう。枕元に着物や小物がきれいに片付けられている。わたしとは似ても似つかぬ手早い母の仕事である。

 スーパーで仕入れてきた食材を使ってわたしが料理を始めると、母もじっとしていられないようで、漬物樽から胡瓜とニンジンそれに白菜を引っぱり出し、水道できれいに洗い流すと、父がお気に入りだった小鹿田焼の和皿に盛り付けた。わたしはプレッシャーを感じながら、ひたすら野菜を刻み続けた。

 おそらく母が料理に要する時間の二倍はかかっただろう。寝ていたはずの摩耶が起きだしてうつろにわたしの後姿を見つめている。母は何度も急須に湯をさしてお茶を飲んでいた。テーブルの中央においてある漬物が異様に輝いて見える。

「おまたせ」

 タコと胡瓜の酢物に母が好きないわしの煮付け、子供用のハンバーグと焼きソバ、それに温野菜のサラダ。味はともあれ、わたしとしては普段以上の力作を並べたつもりである。母を意識して少しばかり力みすぎたようだが。

 ほっとして席に着くと、母が「よくできてるじゃないの」とねぎらいの言葉をくれた。照れくさかったが、うれしかった。

「粗末にあつかえば周りの人のご恩に背き、不足に思えば徳を失います。ありがたく命の糧をいただき、身と心を養いましょう」

 母の食前の言葉の後、三人、顔を見合わせて合掌した。

 無意識のうちに自分の箸が母の漬物に伸びていた。母のぬか漬けは絶品なのだ。

「ママ、おいちいよ」

 摩耶がレトルトパックのベビーハンバーグを頬張っている。

「おいしいでしょ。いっぱい食べなさいよ。いっぱい食べなきゃ大きくなれないからね」

 わたしは娘の口の周りについたソースをティッシュでぬぐいながらいつもと同じことを口にした。

「子供の食事はいつもべつにつくるの」

 母が、隣に座る摩耶の口に焼きソバを添えながら言った。

「今はどこもそうよ」

「同じものを食べさせたらいいじゃないの」

「だって煮物や魚なんてまるでダメなのよ。食べたくないものを無理やり食べさすのもどうかと思って」

「こんな歳から好き嫌いをさせてどうするつもりなの。なんでも食べさせるようにするのが親の努めでしょうに。あきれるわね」

 母は箸をおいた。

「たしかに洋食中心で油ものが多いのが心配だけど。お友だちがスパゲッティーやハンバーグを食べているのに、この子だけが目刺しや納豆というわけにもいかないでしょ」

「洋食が悪くて和食がいいといっているのじゃないの。好き嫌いのことをいっているの」

「はいはい」

 せっかくの食事の時間が気まずくなってしまった。

 夕食が終わって摩耶を風呂に入れ、家から持ってきたアニメのビデオを見せながら寝かせつけると、わたしは母の髪を買ってきた毛染め液で染めた。

母の背中が小さくなっていた。老いは着実に母の肉体を衰えさせている。だけどかつては舞台俳優を目指し、転じては外交官として海外を飛び回っていたこのスーパーウーマンの精神は、今なお矍鑠としてますます盛んである。孤独に打ちひしがれることも、生きることへの迷いも、愚痴ひとつこぼさない母からは微塵も感じられない。情けのない話だが、年齢を除いて、わたしが母に勝るものはなにもない。

「母さんのほんとうの夢は何だったの」

 染め粉がついた櫛で母の髪をすかしながら、わたしは以前から不思議に思っていたことを訊いてみようと思った。

「どうしたの、急に」

「母さん、ほんとうは女優になりたかったんでしょ。それなのにあっさりあきらめて就職して。それに順調だった仕事も結婚で棒に振ってしまったでしょ。叶いかけた夢を次から次に捨ててしまっているようで、もったいない気がするんだけどなぁ。今の時代なら好きな道を駆け抜けることができたはずよ。わたしなんか今まで生きてきて何ひとつ夢らしきものを見つけることができなかった。これからどうするかもまだ決めてはいないし、なにか、こう張り合いがもてるようなことを見つけなくちゃいけないとは思ってはいるけど、他人ばかりが立派に見えて落ち込んでしまいそうなの」

 話すのが長くなればなるほど愚痴があふれ出てくる。

「べつに私はあなたがいうように夢を捨ててきたわけじゃないわ。それに自分が思い描く夢なんていくらでもあるじゃないの」

 母は振り向こうとはせず前を見据えたまま首をひねった。

「いくらでも」

「そうよ」

 母はそういって今度はうなずいた。

「わたしにはわからない」

「なにがわからないの」

「お母さんのいっていることが」

「こんなにかわいい子がいるじゃない。この子とこれから生きていけるのよ。これ以上のしあわせがどこにあるというの」

「しあわせのことをいっているのじゃないの。夢よ。夢。家事や子育てじゃなくて、生きがいみたいなもの。今の女性はなにかをしなきゃダメなのよ」

 何かにつけて子どもを引き合いに出す母が憎らしくなってきた。それがわかっているのか母も少しムキになった。

「なにかって、なにをするの」

「わからないから聞いているの」

「なんでもかんでも与えられて生きてきたものだから、夢まで人に与えてもらおうなんて虫が良すぎるわ」

 母の表情が険しくなった。

「女だけが家事を押しつけられ、社会へ出ても肩身の狭い思いをするのって、どう考えても不公平でしょ。もっともっと女にも働く権利と活躍できる場があってもいいはずよ。子どもを産まず、家事を分担する現代人の夫婦生活は当然の帰結なの。おかあさんがいっていることは古臭いの」

 わたしは毛染め櫛を、広げた新聞紙の上に置いた。

「あなたの考えていることのほうがさっぱりわからないわ。子育てや家庭のことがどうして二の次になるのかしら。どうしてあなたがいうような夢のために家庭が犠牲になる必要があるの。生活が苦しいわけでもないのにそんなに無理してまで訳のわからない事と両立させる必要ないでしょ。そんなことを考えているから家庭がうまくいかなくなるのよ。キャリアかなんかしらないけど、仕事がいきがいです、なんて格好のいいこといっても、仕事なんて誰にでもできることなのよ。代わりはいくらでもいるの。でも自分の子どもを自分で育てるというのは一生に一度しかないのよ。わたしはお父さんが好きだったから結婚した。あなたを育てたかったから仕事を辞めた。ただそれだけ。たったの一度も後悔したことはありません。それぞれに生きがいを感じていたわ。芸術家気取りでひとつの夢を追い続けるなんて、そんなことが許されるほど人生は甘くない。女の権利というのは、子を産もうが、仕事をしようが、子を育てようが、いずれの道も選択できるということ。むかしは、選べる権利は女性にはなかった。女は男社会の添え物のようなあつかいだった。そんな時代を乗り越えてきたからこそ、今、その自由が手に入るところまできたのよ。家庭という仕事を課せられた昔の女性も立派に生きてきたことを忘れないで。男の真似事をすることが女の自立じゃありません。子育てと仕事、どっちが大切かじゃなくて、今を精いっぱいに生きること。精いっぱい生きてもいない人間が、最初から自分の子を他人に預けるなんてことを考えるものじゃないの。あなたのように中途半端な気持ちでいたら、子どもにそのしわ寄せがいくことになるの。そのうえ、恋愛でもしたものなら、今、テレビで大騒ぎしているような不幸な事件が起きてしまうわよ!」

 眉を吊り上げた母を初めて見た。

 完敗だった。母に太刀打ちできない悔しさで、わたしは言葉がなく胸がつまった。

「断っておくけど、子どもをそばにおいておきたくても、生活を支えるためにどうしようもなく子どもを預けて、それでも働かなきゃいけない女性も世の中にはたくさんいるの。世界には鉛筆一本も与えてもらえない女性もいる。そのこともけっして忘れないで!」

 わたしはこぼれ落ちた涙を母に悟られないように袖でぬぐった。

「母さんはどうして父さんを好きになったの?」

 わたしはあまりの苦しさに話題を変えた。

「今度は、なにをいいだすのよ」

 驚いたように母は目を丸くした。

「前から聞きたかったこと」

「働くわたしの姿が美しいといってくれたからよ。男も女も誰もが白い目で見てる中で、父さんだけが私を認めてくれたの」

「そうなんだ」

「あなた、それ、どうしたの」

 振り返った母が口元をおさえて笑った。ジャングルに住む原住民が顔にするペイントのような黒い縞模様が、わたしの目の下にできていた。

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