人みなシメールを負えり
目の前にこの町一番の大きな橋が見える。下を流れる一級河川は緩やかにうねりながら所々でもみ合うたびに白い波飛沫をキラキラさせながら大海へと流れ込んで行く。この橋の向こうに二人が初めて愛しあったアパートがある。わたしはスーパーマーケットへの進路を変更し、思い出の部屋を訪ねてみようと思った。
橋を渡り始めると小雨が降りだしてきた。傘を差すほどではないが肌寒さが冷たさに変わっていた。過去への郷愁はあったが、義人への未練ではなかった。できればあの頃の自分と出会いたかった。
橋を渡り終え一つ目の細い路地を入ってわたしは愕然とした。小さなアパートや商店が並んでいた一角がすべて更地になり、区画されて新しい住宅地になっている。週末にいつも二人で通った小さな洋食屋もなくなっていた。しばらく来ないうちに青春時代の面影は吹き飛んでいた。もうなくなってしまったのではないのかという不安でなぜか胸がドキドキした。今も変わらない自冶会長の立派な一戸建ての白壁が途切れ、そこを右に曲がると、真っ白な二階建ての建物がポツリと姿を現した。周囲を駐車場に囲まれたその中央に、思い出のアパートは白く色を塗り替えられ、ひとり宿題を忘れた学童のように寂しげに立っていた。築四十年近くなるボロ屋なのにお色直しをした姿はそれほど古さを感じさせなかった。
わたしは自転車をおりて突然の雨に入れ忘れた洗濯物が吊るされているアパートのベランダを眺めていた。一階の一番左端が義人の部屋だった。今は若い女性が借りているのだろう。一見して気づかれぬよう下着がバスタオルの裏側に隠れるように干してある。
義人の部屋は、玄関に流しがついた六畳一間。ビニールでできた洋服ダンスとダンボールの箱の上には十四インチのカラーテレビが置いてあった。今考えると恥ずかしくなるくらいわたしたちは顔を見るたび激しく求めあった。その頃のわたしは、義人を受け入れる感動で胸がいっぱいだった。
日曜日には二人で大川の河川敷に出かけ、「本は声に出して読むのが訓練になるんだ」という義人につき合って、古典の名作を二人でよく演じた。
母に憧れていたわたしは高校時代演劇部に所属していた。とはいえ、仕事のほとんどは雑用係。もちろん舞台の正面に立ったことなど一度もない。しかし義人と一緒ならノラもオフェリアも堂々と演じることができた。
わたしはそんな感傷にふけりながら、しばらくアパートの前で立ち尽くしていた。雨がわたしの上着にしみこんでいく。置き去りにしてきたあの頃の思い出が、わたしの今の空疎な胸をよぎった。
「結婚して一緒に暮らしたい」といったら、音もなく積み木が崩れた。
別れの理由。今もわからない。
自転車を手で押しながら、わたしは来た道を戻った。気のせいか来る時よりも足が重たくなっていた。めまぐるしく過去が頭の中を駆け巡ったので少し疲れたようだ。美しくなった過去を回想すればするほど喩えようもない虚しさがわたしを包んだ。
スーパーで買い物を済ませて表に出ると雨はあがっていた。入口においてあった自転車数台が転倒している。わたしの自転車も他の自転車にサンドイッチにされ苦しそうに挟まっていた。
「やれやれ」
ため息をついて自転車を起こそうとしたら、自動扉の開く音が聞こえ、背後からわたしを呼ぶ声がした。
「馬場さんじゃないですか」
振り向くとだぶだぶのトレーナーにジャージ姿のよく肥えた若い女性の丸めがねがわたしを見つめていた。
「そうですが」
とっさに誰だか思い浮かばなかった。彼女はめがねを外すと、「先ほどはどうも」といってわたしに顔を向けながら頭を下げた。
「あっ! もしかして写真館の、お世話になりました。とってもよくしていただいて」
よく見ると、午前中に摩耶の記念写真を撮ってもらったキッズスタジオの受付のお姉さんである。
「どういたしまして。そうじゃなくて、覚えていませんか、わたしのこと」
彼女は意味深なことを言った。そういわれても目の前の人物に関する記憶は今朝の写真館のひとコマだけである。それ以外はさっぱり思い当たる節はない。
「美津子さんですよね、藤井美津子さん、宮部先輩の彼女だった」
彼女はわたしの旧姓と義人の名を言った。大きな飴玉を飲み込んだようなほっぺが林檎のように赤くなっている。
「?」
依然、わたしの記憶回路はフリーズしていた。
「矢野めぐみです。こんなになっちゃったから、思い出してもらえないでしょうけど。あの頃はずいぶんお世話になりました」
「エッ、めぐみ! あのめぐみちゃんなの。 でもずいぶん……」
言葉を失った。記憶の中の彼女はモデルのように痩身で豊かな胸が周囲にいる者を射すくめるほど鮮烈だった。わたしも年下の彼女に嫉妬したこともあった。それがたとえようもなく変貌していた。
「ずいぶん肥えちゃいました。元に戻りそうもありません。あの頃の友達に会ってもわからないくらい。さっきは恥ずかしかったので」
「ほんと、正直いって驚いたわ。ごめんなさいね。それにしてもひさしぶり。めぐみはたしか子どもがいたよね」
「信男ですか」
「そうそう信男くん。いくつになったの」
「もう中学生です」
「うそ、あの赤ん坊が」
「あれから十三年ですよ。みんな変わっちゃいました」
「そうね、信男くんを保育所に預けて一人で頑張ってたものね。再婚しなかったの」
「ええ、ひとりでやってきました」
「まだ若いのに」
「このとおり、もう完璧なおばさんですよ。結婚は考えていません。でも信男が家を出る歳になったら寂しくなるかも。それより、あたし美津子さんは宮部先輩と結婚するものだとばかり思っていましたよ。美津子さんが違う人と結婚したと聞いてショックでした」
彼女はそういうと手に提げた荷物をその場に置き、倒れたわたしの自転車をほかの車ごと抱え起こしてくれた。ひ弱な十八歳の少女だった彼女は、貫禄十分の母親に変貌していた。
「ショック?」
「ええ。あたし、ふたりにあこがれていました。とってもお似合いだったから」
「そうかしら。ありがとう」
輝いていた頃が自分にもあったのだと思い素直に嬉しかった。
「こんなところじゃゆっくり話せないからあたしの部屋に寄ってください。あの頃、よくふたりでお土産持って来てくれましたよね」
「そうだったわね。ところで、めぐみ、家はどこなの」
「いやだな、美津子さん。忘れたのですか。このスーパーの裏ですよ。引越しするほどお金はたまりません」
高校を中退して結婚、半年足らずで離婚して母子家庭となっためぐみは、義人と同じ警備会社に勤めていた。道路で交通誘導をする女性警備員である。雨の日も風の日も、彼女は泣き言ひとついわずにハードな仕事をこなしていた。義人もそんな彼女をずいぶんと可愛がっていた。
不意の帰省の数時間で、ぼやけた記憶が徐々によみがえっていく。しかしまだすべてが鮮明になるまでには少しばかり時を要する気がした。
スーパーの裏手に隣接して十階建ての色褪せた赤レンガ色のマンションが建っていた。よく義人と通ったはずなのに、記憶棚のどこにしまっていたのだろうか、めぐみに連れられてこの目で確かめるまでその実感が浮かばなかった。というよりもめぐみの変貌に翻弄されて記憶をひも解く余裕を失っていたのだろう。
1DKの部屋はきれいに片付けられていた。窓際に置かれた勉強机が中央にせり出していて実際よりかなり狭く感じる。でもその窮屈さがなんとも微笑ましい。そういえば以前は同じところにベビーベッドが置かれていた。今も子ども中心の生活に変化はないのだろう。わたしの部屋にはない暖かさをしみじみと感じた。身体を寄せ合うことのない部屋はたとえ裕福だろうと冷たく寂しいものなのだ。
「結婚生活はどうですか」
めぐみの当然のような質問にわたしはとまどった。
「まあまあってところかな」
笑顔を振りまく年下の旧友を前にして本当のことをいえなかった。
「そうですよね。美津子さんはしっかりしているし、あたしのようなママゴト遊びのために結婚したんじゃないですものね。でも子どもさんが小さいのには驚いたな」
「できたのが遅かったのよ。もう四十になるもの。めぐみちゃんがおばさんならわたしはもうおばあさんよ。やっぱりあの頃がよかったわ」
「そんなことないですよ。美津子さんは所帯やつれなんて全然していないし、子供を産んでも相変わらずスリムだし。黒のそのパンツスーツもよく似合ってますよ」
「今日はたまたま昔の服を引っぱり出して着てみただけよ」
「今日は実家ですか。なにかあったんですか」
「なにもないわよ。たまたま。いつもはTシャツにGパンのどこにでもいるようなオバサンよ」
「それはどうかな。そう、お茶入れなくちゃ」
めぐみはわたしにお茶を入れるために台所に立つと、電気ポットを再沸騰させ、アニメのコミック本がぎっしりと詰まった書棚から時代を感じさせる重厚な装丁の分厚い本を取り出し、わたしの前に置いた。
『ボードレール詩集』
聞き覚えのあるその名は、義人が敬愛するフランスの詩人だった。
「これ、あたしが警備会社をやめるときに宮部先輩がくれた本です」
「そうなの、義人がね。あの人らしいわ」
わたしは、押し花でできた栞が挟まったページを開き、『人みなシメールを負えり』と題された作品に目をおとした。
内容は、荒涼とした砂漠を旅する群衆の話だった。その人々はそれぞれの首にシメールという噴火獣を背負っていた。悪魔のような獣は鋭い爪で人々の首をワシ掴みにしていた。その一群の人々は、誰から何を聞かれても答えず、決して歩みを止めようとしなかった。要約すれば夢を負う過酷な宿命を冷徹に描いた物語だった。
「あたし、正直いうとその詩の意味がよくわからないの」
めぐみに声をかけられて、わたしは慌てて本を閉じた。
「そうね、難しい話よね。簡単に言うと、夢を背負って生きるのは厳しいぞ、という意味じゃないかしら」
わたしは夢を背負うどころか、いつからか夢そのものを見つけることもなく惰性で生きてきた。
「そんな、意味ですか。あたしには理解不能」
めぐみはお茶を入れながら、わかったような、わからないような曖昧な笑顔を作った。
「別れてから宮部先輩と会いましたか」
「ないわよ」
「会いたくなったんじゃないですか」
「いまさら会ってもしようがないしね。今どうしているのかも知らないし」
「宮部先輩、去年、有名な文学賞の候補に選ばれたんですよ。残念なことに最終選考で落選でしたけど、今もがんばってますよ。きっと近い将来、夢が叶うと思うなぁ」
「彼、まだ夢を追っかけているんだ」
「昔とちっともかわりません」
「ところで義人の伯父さん、警備会社の社長をしていた大山さんは元気なのかしら」
「二年前に肺がんで亡くなりました」
「エッ」
わたしのいないところで時は流れていた。
突然、玄関扉が激しく開く音がした。振り向くと詰襟を着た大きな中学生がわたしをにらみつけていた。
「大きくなったでしょ」
めぐみが言った。
「ひょっとして信男くんなの」
「そうです。あたし、この子を大学まで行かせたいの。だから写真館の仕事を辞めて、もう一度ガードマンをするつもりです。実をいうとあそこの給料とんでもなく安いから」
めぐみは大きくなった息子を見つめながらペロっと舌を出して笑った。