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抱卵の旋風  作者: 小山彰
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赤茶けた青春

 隣町の実家まで車で一時間足らず。海岸線を走る国道をひたすら行けばいい。眠たいぐらい単調な一本道。高速道のように飛ばすドライバーが多く、けっこう事故が多かった。

 孫の顔を見て母は喜んだ。三カ月ぶりに会う母の髪がやけに白くなっていた。几帳面に毛染めを欠かさない母にしてはめずらしい。

「髪、最近染めていないの」

「なんだか近頃面倒になってね」

「今夜、わたしが染めてあげるよ」

「そう、それじゃお願いしようかしら」

 母は摩耶を仏壇の前につれていき、ロウソクと線香に火をつけると、自分の右手を孫娘の手に添えてリンをうった。異様に明るい音がした。顔を見合わせた二人はそろって手を合わせた。仏壇の上に飾ってある父の遺影が笑っていた。

 父はわたしの結婚を見届けることなく急逝した。享年六十五歳。今思えば早すぎる死だった。観光バスの運転手をしていた父は、乗客をホテルに降ろした後、バスを駐車場へ回送している時に倒れた。バックの誘導をするために車を降りたガイドさんが警笛を鳴らしたが、バスが動かないのを不思議に思い再び車に戻ると、父はハンドルにうつ伏せに気を失っていたらしい。病名は脳梗塞。運転中だったら大惨事になるところだった。

 一人娘のわたしが嫁いで以来、母は一人暮らしである。学生時代、舞台俳優を目指していた母は、子どものわたしが近よりがたいほどの美形だった。一重瞼で能面のように冷めた顔を持つわたしが、本当にこの母の子であるのか疑ったこともある。七十を過ぎた母に対して、いまだわたしはそのコンプレックスから解放されてはいない。 

 成績も優秀だった母は両親の説得であっさりと演劇の道をあきらめ、大学を卒業するとその年に外務省に入省し、通訳の仕事をしていた。海外を飛び回る日が長く、婚期が遅れたと母方の祖母から聞かされたことがある。当時のいわばバリバリのOGオフィス・ガールだったのだろう。その母が入省して五年目に突然仕事を辞め、官僚御用達の専属ドライバーとして省庁へ出入りしていた父と結婚した。将来を嘱望されていた母が、なぜ仕事を辞め、父と結婚したのか、そのことについては両親ともに語ることはなかった。

「好いた方なら結婚しなさい。わたしの心配はしなくていい。わたしはひとりがいいの」 

 母はそういってわたしに結婚を勧めた。そんな母の髪がまだらに白くなっている。苦労をかけ続ける自分が申し訳なく思えた。

「しかし驚いたわね。血筋からいうと千佳子はあなたの義理の姉よ。今回ばかりはだめね。どうしようもない人だわ。千佳子もなにを考えているのでしょうね。お父さんが生きているうちでなくてよかった。いろいろ考えてみたけど、今回のことは、はっきりさせておいたほうがいいかもしれない」

 いつもは私をなだめすかす母が、浮気相手が千佳子であると聞いて、ついに主人の弁護を放棄した。千佳子は父と先妻との間にできた子どもだった。結婚して三ヶ月足らずで別れた後、子どもができているのがわかり、産むと言い張った先妻におれて、父は千佳子を認知したらしい。千佳子は大きくなってわが家に行き来するようになった。おそらく寛大な母が親子の対面を許したのだろう。しかしそれが仇になったわけだ。

「お母さん、準備はいいの」

 わたしは仏壇の前に端座する二人の背に向かって言った。

「いいわよ」

 母は摩耶の頭を撫でながらこたえた。背を丸めた母が小さく見えた。

「それじゃ、神頼みとまいりますか」

 そういって立ち上がったわたしを母がとがめた。

「なんてことをいうの、あなた、七五三祝いが神頼みだと思っているの」

「これからもすくすく育つように神様にお願いするのでしょ。初詣も一緒じゃないの。それに宮参りも。正直なところよくわからないわよ」

「三歳のお参りは、『かみおき』といってね、今まで産髪を切ってきたのを、この年から伸ばし始めます、という儀式なの。だからお参りは、無事にその年まで育つことができたことを神様に感謝するためのものです。頼むほうが先じゃなくて、お礼するほうが先でしょ」

「はい、はい。五歳は知っていますよ。女の子はお参りしないのよ。後家さんになるから」

「そんなことだけは知っているのね。あんたって人は」

 母は悲しそうに微笑んだ。わたしは素直に『ごめんなさい』と言えなかった。

お参りを済ませ、家の近くのファミレスで遅い昼食をとり、実家へ戻ったのは午後四時を過ぎていた。

 毛染めクリームと夕飯の買出しを頼まれたわたしは、摩耶の子守を母に任せ、誰も乗る人がなく長い間庭に放置されていたほこりまみれの自転車を、固く絞った雑巾で簡単に拭きあげ、座席には自分のハンカチを敷いて出かける準備をした。この変速付き新型ママチャリは結婚した頃に母が買ってくれた。里帰りした時に摩耶を乗せて走れるようにとハンドルの手前に子ども用の座席がついていた。免許を持っているわたしが子どもを乗せて走ると思ったのだろうか。親切はありがたくお受けしたが、以来、一度も摩耶を乗せて走ったことなどない。それどころかわたしが乗ったのも数えるほどしかなかった。忘れられた自転車は錆だらけ、赤茶けた車輪は雑巾で磨いたくらいではどうにもならなかった。ふと、錆びついたわたしの青春が奇妙に重なり合い、しばらくその車輪を眺めていた。

「美津子、それ着替えたの。しかし、あなたはいつも黒い服ね。まだ若いのだからもう少し明るい色にしたらどうなの。あなたが留守番してなさい。わたしが行ってくるから」

 黒のパンツスーツを着ているわたしを見て、摩耶を抱いた母が言った。

「あなた、お氣の毒です、いつも親切にして下すつて。けれどもどうすることも出來ません。もうあなたを愛してはいないのですから」

 わたしはペダルに足をかけながら手をひろげ、母に向かって言った。

「なに馬鹿をいってるの。それって、もしかしてノラ(イプセン「人形の家」主人公)のつもりなの。相変わらずね。まるでそれじゃ本当のお人形じゃない。そんな覚悟で家を出ることはできないわよ」

 母の呆れたようなため息声がした。

「やっぱりダメ出しか、まあいいか。出て行ったのはノラじゃなくヘルマーだもの」

 振り返ってわたしはそういうと、錆びついたチェーンをギシギシと軋ませながら実家を飛び出した。

 深まる秋の夕暮れ、身体にぶつかる風が冷たく感じた。これから寒くなるのだろう。町が日に焼けた気だるい茶色から物憂げな灰色に変わろうとしている。冬がそこまで来ているような気がした。

 川沿いのサイクリングロードを走りながら、わたしはかつての恋人宮部義人を思った。

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