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抱卵の旋風  作者: 小山彰
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はぐれ道

 つきぬけるような秋空に、ベージュ色をした飛行船型のアドバルーンが、仲良く三つ横にならんで玩具デパートの最上階からあがっていた。

『こども感謝フェスタ』

 その壮大な姿は、横断幕を吊り下げていなければ、雲と見間違えるほど大きい。アドバルーンを除いて空には一片の雲もない。

 デパート手前の信号から車は大渋滞で駐車場入口に立つ警備員はやけに殺気立っていた。いつもの笑顔はなく、やかましく警笛を吹くことが多かった。

 主人が家を出たことを実家の母に告げると、「まあそれはそれで、すぐに結論を出さなくたってよく考えてみたらどうなの。それよりもせっかく摩耶の着物を用意してあげたのに。私も出て行くから明日お参りに行きましょう。旦那なんていなくていいから」と驚いた様子もなく、七五三の宮参りに行くようにいわれた。

 わたしは娘の手を引き、三階の屋上駐車場からエレベーターに乗って入店した。娘はわたしの顔を見上げ、時々スカートの裾をめくるような仕草をした。

「摩耶ね、ママだ~い好き」

 何も知らない娘は、車を降りて入店するまでに同じ言葉を三度口にした。

 わたしは一階の玩具売場ではなく二階のキッズスタジオに娘をつれて入った。受付は七五三の記念写真の前撮りで玩具売場以上に混雑していた。受付カウンターを覗き込むと年配の小柄な係員が現れた。 

「恐れ入りますがこちらにお名前と住所、それに電話番号をご記入願えますでしょうか。貸衣装も必要でしたら、その種類もお願いします。順番が参りましたら放送でご案内いたします」

 鼈甲で出来たような黄色に茶の混ざったメガネがやけに立派である。

「予約していた馬場です。着付けと写真をお願いしているはずですが」

「それでしたらお名前だけでけっこうです」

 わたしはカウンターの上にあるバインダーで留められた予約帳にいわれたとおり娘の名前を記入した。

「七五三ですね」

 入れ替わりにいかにも人の良さそうなまん丸に肥えた胸の大きな若い係員が顔をくしゃくしゃにほころばせて奥から出てきた。その笑顔はどこかで見たような懐かしさをわたしに感じさせた。

「写真のあと、お参りですか」

「そうです」

「お子さまの名前はなんとおっしゃいますか」

「摩耶です」

「マヤちゃんですね。写真の前に衣装を拝見させていただきますのでこちらへどうぞ。はい、マヤちゃん、おばちゃんと一緒に行きましょうね。マヤちゃんはいくつかな」

「みっちゅ」

 摩耶は教えたとおりに指を三本立てて係員のお姉さんにかざした。

「三歳ね。マヤちゃんはお利巧ね」

 幼児を扱いなれた係員が娘の手をひいた。

「摩耶ね、ママだ~い好き」

 娘はやっぱり同じことを言った。

「そうなの。ママが大好きなの。マヤちゃん、今日はママと一緒でよかったね」

 わたしは、無邪気に子どもと語らえるこの係員が、ずいぶんと羨ましかった。

 主人が家に帰らなくなってからは、ずっと子どもとの二人暮らし。夫と冷戦当初は子どもが戦友でもあるかのように心強く感じたが、最近は正直なところ子どもの無神経なあどけなさを少々うとましく感じ始めていた。係員はそんなわたしの憂鬱な思いには頓着なく、晴れ着をテーブルまで運んできて娘の横に広げて見せた。

「ぴったり。仕立て直しされたようですね。絵柄も美しく、よくお似合いです。小物はそれですね」

 彼女はわたしの手から荷物を受け取ると風呂敷をほどいて紙箱に入った小物を確認した。

年季の入った扇子や手鏡、それに子供下駄を見て彼女は微笑んだ。

「お母さんがお使いになった品ですか」

 わたしは、正直、店員の問いに答えるのが面倒だった。

「ええ、わたしの母からです」

「けっこうなことです。こんなことをいうと叱られますが、昔の品は最近の物よりずっと品が良くて丈夫にできていますからね。大切にとっておいてあげてください。着付けの順番がきましたら、放送でお呼び出しいたしますので、それまではおもちゃ売場をごらんになっていただいてけっこうです」

「よろしくおねがいします」

 わたしは娘の手を引いて彼女からいわれたとおり玩具コーナーに向かった。いたるところで祖父母や両親が、あれやこれやと子どもの玩具を手にとってはその選別に知恵を絞っている。家族連れの多いところに来ると、尚更、一人身を実感する。

 いつかはこんな日が訪れるような気がしていた。わたしは結婚してまもなく、張り合いのない退屈な暮らしに飽きてしまった。知らず知らずのうちにそんな生活を強いる主人を責めるようになっていた。やがて結婚六年目になってようやく待望の子どもができると、あれほどわたしを求めていた主人が指一本触れなくなった。どうしてか知らないが、主人は女から母親になったわたしを嫌悪しはじめていた。それにわが子を直視することもなく、まるで会うことを避けているかのように帰宅時間は深夜になった。そこに家族への愛情がないことは十分すぎるほどわかっていた。

 どこの家庭もそうなのだろうか、という疑問を持ち続けて三年、ついに主人はこのわたしを棄てた。現実に直面してもそれほど憤りを感じなかった。どうであれ夫婦を続けなければいけないものだと半ばあきらめていたわたしにとって、経済的なこと以外で主人に頼る部分はまるでなかったし、唯一、愛されているという事実だけが心の支えだったのに、それも今無くなったとわかれば、こちらからサヨナラしてもよさそうなものである。未練など丸きりなく、むしろ主人と結婚したという後悔で自分が情けなかった。

 愛することより愛されることが女として幸せに違いないと信じて、わたしは今の主人を選んだ。なにより家庭の幸福は経済的安定が必要不可欠であるというのは周知の事実。両親に結婚すると報告したときも、親戚を含めて誰一人反対するものはなかった。

「あんな立派な会社に勤めていて、ご両親もこの町じゃちょっとした名士じゃない。そろそろその気になったところだったし、渡りに船、それも次期社長とくれば玉の輿よ。まあそりゃ、色々あった昔の恋を捨てちゃうのはもったいないけど、胸の奥にそっとしまっておけばいいのよ。たまに出し入れすれば心の中でアバンチュールできるのだから」

 高校の同窓会で幼馴染の智美にそういわれて、わたしの気持ちは吹っ切れ、学生時代からつきあっていた義人と別れ、お茶汲みとコピーに辟易していたOL生活にも見切りをつけ、見合いの後、なにか物足りなさを感じつつ、今の主人と結婚した。

 不幸なことに、こうなった今も、どうこうして主人とよりを戻そうなんて気持ちは全く起きなかった。時代劇じゃあるまいし、そんな昔の女のように我慢することなどできはしない。子どもをつれてさっさと退散するよりしかたがない。

「ママ、じゅーちゅが飲みたい」

 ぼんやりしていると子どもが現実に引き戻す。これが子育てなのか。

「はいはい」

『はい』は一度でいいと子どもを叱っていながら、自分は平気である。身勝手は子どもでなくて自分なのだ。わたしは自動販売機で摩耶の好きなオレンジジュースを買い、休憩用のベンチに座らせ、自分もその横に腰をおろした。

 それにしてもわたしの義理の姉である千佳子と主人ができていたとは思いもよらなかった。女癖は結婚前から何かとあった人みたいなので、女ができたことは別段驚くほどのことではなかったけれど、千佳子とだったらもう取り返しはつかないだろう。子どももおいて出て行った以上、きっと主人は本気に違いない。年下の甘えん坊。だらしない性格は嫌というほどわかっている。男に寄りかかり生きることになれている千佳子に主人がやさしくしたのもわからなくはない。ただそんな男に棄てられたと思うと、悲しいほど胸がムカムカする。

「ママにも少しちょうだい」

「いいよ」

 わたしは娘のジュースを取り上げゴクリと一口飲んだ。

「馬場摩耶さま、馬場摩耶さま」

 館内放送が娘の名を呼んでいた。

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