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地下都市  作者: 帳要
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休日の地下都市 side長

 今日も良い天気だ。

 窓から見える雲ひとつない青空を見て思った。


 おそらく、世間一般の多くの人が窓から空を見上げる時よりも、私はもっと低いところで見ていると思う。多分。

 なぜなら、ここが地下都市だからだ。


********


 三十年前、突如としてある都市の郊外に出現した大きな窪み。いや、窪みというには少し深く、そして広すぎるかもしれない。とにかく、その窪みが唐突に現れた。

 地盤沈下だなんだと騒ぐ人もいたが、元々そこにあった森は跡形もなく消えていた。


 そんな超常的な現象が起きて、政府は手を焼いていた。

 何しろ、窪みと地上の高低差が、東西どこの端を測っても、ちょっとの狂いも無く二百メートルあったのだ。


 わかりやすく言えば、名古屋駅のJPゲートタワーの高さだ。ガンダムを縦に11体並べても少し余分にあるぐらい。体力測定で走らされる五十メートル走の四倍の距離。あいにく、通天閣には行ったことがないが、行ったことのある博多ポートタワーの二倍と同じ高さである。


 その高さの何に問題があるかといえば、転落事故が起きる可能性、そして雨水の除去方法について。その二つだった。


 仮に、その窪みの中にビルを建てるなら、窪みの近くから簡単にビルの屋上に足を踏み入れることができる。建物を建てるにしても、地盤は大丈夫なのかが心配だ。など、政府はこのいろいろな問題を抱えた窪みをなんとかしなければいけない状況に追い込まれていた。


 側から傍観するだけなら、多くの人はこう思うかもしれない。


 そんなもの、政府がさっさと動けば良いだろう、と。

 なんなら、企業と協力してでも問題解決のために動け、と。


 もちろん政府も分かっていた。

 だが、ただでさえオリンピックの準備のためにお金を使っていて、その上で、この窪みのために使うお金など微々たるものしかなかった。


 その後、いろいろな経緯を孕んで、大企業の一つとして有名なある会社が資金援助、技術提供、その他諸々を惜しみなく注ぎ込んだ。


 それと同時に地下都市として、数多ある一般的な地上都市と同じ行政権を得、行政とは別に、トラブル発生時の指揮者としておさという存在が独立して建てられた。


その長はこの地下都市に全ても注ぎ込んだ大企業の令嬢であり、その企業との連絡役でもあった。


 そして現在、できたばかりの当初の都市よりも更なる発展を遂げて、国内ナンバー4にまで経済力を上げた。


 これが、ここ、地下都市の歴史だった。


********


「ご主人様、本日もお出かけになられますか」

「ああ、支度を頼む。そうだな。今朝はポーチドエッグの気分だ。付け合わせはマッシュドポテトといったところだろうか」

「御意に」


 そう言って私の専属執事は部屋を出て行った。


 こんなに良い天気なのだから、今日は散歩に行こう。

 そもそも、私の仕事は長としての仕事だけで、問題さえ起こらなければ暇だ。

 散歩と称しておきながら、実際には見回りも兼ねている。言い換えれば治安維持なのだから、散歩も仕事のうちだと言える。


 私は飽きの来ない、この地下都市を存分に眺めていた。

 しばらくすると、執事が戻ってきた。


「ご主人様、朝食の用意が整いました。冷める前に食堂へいらしてください」

「分かった」


 一階分降りて食堂へ行く。


 曲がりなりにも大企業の御令嬢が住む邸宅。一般家庭のようにドアを開けてすぐに食事にありつけるわけではない。


 席について、早速一口食べる。


「相変わらず、早い、うまい、変態的なまでに私の好みを知っているの三拍子だな」

「お褒めに預かり、光栄でございます」

「お前の私への忠誠は信用しているが、こうも私の好みを知っていると逆に怖いな。前にも聞いた気がするが、私の体をいじくり回したりはしていないよな?」


 慌てずに、一口一口、口に運びながら執事へと聞く。


「まさか、そのようなことはございません」


 長は「それもそうか」と納得した。実年齢は知らないが、少なくとも自身と共に学生時代を過ごし、ずっとそばに控えている彼ならば、私の好みを正確に知っていても不思議ではないと。


*******


 一方、執事は笑顔を貼り付けたまま、頭では別のことを考えていた。


 お嬢の好みを完全に把握していないことがあるだろうか? この俺がだぞ。何年お嬢の側にいると思っているんだ。やはり、このお嬢は相当の箱入り娘だ。


 いや、それを全身全霊、この身を滅ぼそうともサポートするのが俺の役目だろうが。


 ああ、また俺の作った料理を食べている。自分では気づいていないようだけど、美味しいと感じるものを口にするたびに嬉しそうにしている。その表情を見れるだけで生きている価値がある。この身はお嬢のため、お嬢が喜ぶのならば俺のことなどどうなっても良い。


 しかし、怒った時の顔を久しくお目にかかっていない。そろそろ見ておきたいところだがどうしようか。

 そういえば、さっきの「変態」と言う時の声色がなんとも好きだ。いっそのこと、乱雑に扱われたい。そして、蔑まれたい。


 執事はかなりのドMであった。そして、色々と拗らせていた。


********


「それでは行ってくる」

「行ってらっしゃいませ、ご主人様」


 私は屋上から、近くを走るモノレールの線路目掛けて飛んだ。

 正確には、線路の横にある作業員用の通路だ。

 割と日常的に登っているせいか、地下都市の人々には驚かれない。驚いているのは地下都市以外から来た観光客か、地下都市の新入りかのどちらかだった。


 コツコツと音を立てながら通路を歩く。

 時折、横を電車が通る時は立ち止まり、それ以外は気ままに歩く。


 地下都市の交通は主に二つ。歩くか電車に乗るか。


 一応自転車という手もあるけれど、ごちゃごちゃとしているここでは自転車に乗れる場所が少ない。バイクについても同様。警察は体力のある人たちばかりだし、わざわざ自転車を使ったりはしない。

 だから、自転車を見かけるのは小学校の自転車講習会ぐらいだった。


 地下都市の電車は地下鉄や新幹線などの普通鉄道と、一本の線路にぶら下がって走るモノレールの二種類。

 普通鉄道は外の都市とも繋がっている大規模なものだから、必然的に地下都市内には二駅程度しかない。


 対して、地下都市の中だけで完結しているモノレールは比較的駅が多い。

 だから、市民の足となるのはモノレールで、地下都市内外の人は普通鉄道を使うのだった。

 

 今私がいるのは地下都市の中でも真ん中の方。この辺りはどちらも止まる大きな駅があるせいか、普通電車の下にモノレールが走っているという状況だ。そして、地下都市中央駅は地下都市で最も大きく、どちらの路線も止まるから、当然のように駅舎も大きい。


「……さて、登るか」


 毎回、ここにくるとかなり高い駅舎の壁を見上げてはやめようかと思う時がある。準備体操のつもりでぴょんぴょんと跳び、それから、力を足に集中させて跳び上がった。すぐに屋根の上についた。


 さて、今日もいるかな。


 探しているのはある少女と老人。決して親子じゃない二人だけど、何故かいつも一緒にいる。

 散歩は気ままに歩くだけでも楽しいけれど、やっぱり、いつも見かける物や人だとついつい探してしまう。


 しばらくホームを探していると、駅構内のキオスクの近くのベンチに座っている二人を見つけた。一応、老人に向かってお辞儀をしておく。別に今は偉いわけじゃないけど、こういうのは気持ちの問題だ。


 何を話しているのかはさっぱり聞こえないけれど、人間観察の一環でなんとなく観察する。立っているのは疲れるからと、屋根上にハンカチを敷いて、そこに座る。


 白装束を着ていると、どうしても汚れは目立ってしまう。これが側面ならまだしも、お尻の辺りに付いているのは恥ずかしい。


 さて、いつも観察していて思うけれど、この少女は朝から晩までただ人を待ち続けていることに飽きないのだろうか。

 もちろん、老人もそんな彼女を見かねて、散歩のついでと称して見守っているわけだから、多少の話はするだろう。

 けれど、話が持つのはせいぜい五分。私なら早々に飽きている。


 その時、ふと別のベンチに座る親子が視界に入った。母親と四、五才ぐらいの男の子だった。


 男の子は手に飛行機のおもちゃを持っていた。その飛行機を手で持ちながら、おそらく、ブーンブーンという効果音をつけてぐるぐると“飛ばして”いる。しかも、同じような航路を何回も何回も周回させている。


 なんら不思議もない光景だけれど、これを見て思った。


 この少年は飽きもせず同じようなことをしている。側から見たら、特に赤の他人の大人から見たら、何が面白いのかわからないだろう。


 だが、子どもは何かしらの想像力と、体の割にはかなり大きな心の器を持っていると考えたらどうだろうか。


 少女も何かしらの想像力を持って、例えば、あの看板の裏には大きな蜘蛛がいるんだとか、そういったことを考えているのかもしれない。

 そうでなくとも、大人たちが持ち合わせていない、時間に縛られない心のゆとりがあるのかもしれない。


 駅のホームで電車を待つちょっとの時間。そのちょっとの時間にゲームをする、いそいそとスマホの色々なアプリを見て回る。そんな大人や若者たちを見ると、この少女や少年は彼らが持たない大きな器でもって、時間を過ごしているのかもしれない。


 だから、飽きると言う概念がないのかもしれない。そう思った。


 飽きると言うことは、興味をなくすこと、それはもしかしたら器が小さいために、つまらなさやなんかを器から取り出すことなのかもしれない。

 そんなことを考えたら、自分も何もない時間を楽しんでみようかと思った。


 試しに空をボケーっと眺めてみる。

 ああ、あの雲はソフトクリームだな。

 あっちはりんごだな⁉︎

 こっちはケシの実だな。こう、集合体らしくまとまっているのに、所々空いている隙間が粒らしさを感じさせてくれる。(以下省略)


 …………


 いや。やっぱり飽きるな。

 私にはそこまで大きな器はないのか!


 まあ、そろそろお尻が痛くなってきたところだし、次に行こう。

 さっとハンカチを畳み、屋根を渡ってまた通路に降りる。シュタッという風を切る音と、やけに大きなガシャンという着地音に、向こうのホームにいる人が驚いている。

 しかし、おそらく下では騒ぎになっていないだろう。

 なぜなら、私の散歩は、彼らの日常の一つで、興味を持っていないから。


********

 

  次に立ち止まったのは、地下都市で唯一緑がある丘だった。

 丘とは言っても、地上都市の高さに近い所に作られた広場の一部だ。


 元々は外の土地の延長として丘を設計するつもりらしかったけど、結局、日光浴用の広場、子どもの情操教育のための広場として作り、その大半を芝生で埋めることで落ち着いた。


 だから、土はそこまで多くない。子供がスコップで穴を掘ったら、すぐにアスファルトにぶち当たるほどだ。


 そして、地下都市が広いとは言っても、全体的にはそこまで広くないから、どうしても近くを電車が通る。


 だが、今時の電車がキーキーとうるさい音を立てるわけではないから、これといった問題にはなっていない。

 この技術がなかったら地下都市には電車が通っていなかったのだから、鉄道関係の開発部門には感謝しかない。


 さて、なぜ立ち止まったかといえば、ポケーと空を眺めている、見知った少年を見つけたからだった。


 少年は高校生で、小説家としても活動している。確かデビューしたのが新聞社のちょっとしたコンテストで、受賞祝いに役所で市長と教育委員会の会長、新聞社の社長、そして私と少年の五人で写真を撮ったのだ。


 彼とはそれからの付き合いで、散歩中に会えば立ち話もするし、彼の方から相談があれば屋敷の方で話を聞く。友達とまでは呼べないだろうけれど、良好な関係は築けている。


 これは私にとっても彼にとっても嬉しいことだ。


 私は地下都市市民の声を直に聞けるから、問題発見が早められる。それに、役所の方から報告された情報と市民の目線から見た情報を見比べることもできる。

 二つ以上の視点から見れば物事は解決しやすくなるものだ。


 彼にとっては、私とのパイプができたという安心感はあるだろう。過去にも、私との繋がりが生きたことがあるのだから、メリットのはずだ。

 その、はずなんだ……。


 なぜだか、自分にしかメリットがないのではなかろうかと思ってしまったが、邪念は無視するとしよう。


 ともかく、少年を見つけてしまった。


 普通に街角で顔を合わせたなら話すが、あまりにもぼーっと空を見ているから観察材料として面白いなと思ってしまった。


 本当に気まぐれだ。


 観察するのなら、対象に気付かれない方が良い。そう思ってさっと通路の下に組まれた鉄骨に移動する。うん。陽も当たらず、適度に涼しいから潜伏箇所に最適だ。


 少年はいつも静かにしているイメージがあったが、ここまで静かだと、性格を通り越して、一種の貫禄さえ感じてしまう。


 そんなことを思っていると、彼の指の隙間から青い光が出てきた。その光が彼の目の前で画面として形を定めた。

 そこまで見えて、ああ、これがあの執筆支援ツールか、と、光の正体に気づいた。


 私は実際のものを見たことこそないけど、彼からどんなものかは聞いている。

 言って仕舞えば、SF小説に出てくるような、画面とキーボードが空中にあり、しかも実物を持っていないという代物。

 彼が使っているのは指輪タイプで、指輪の黒い石がはまっているところから光が出てくるらしい。


 なかなかカッコ良いけれど、慣れるまでは使いづらかったらしいから、他人にお勧めすることはないと彼は言っていた。


 作家支援ツールと言っているだけあって、使うのは専ら作家の人たち。それも、ここ十年のうちに活動を始めた人が多いのだとか。


 そんなわけで、製造数もそこまで多くなく、単価も割と高い。

 だから、元々の使用者数が少ないのにあまり増えることもなく、むしろ、初めのうちに挫折した人も多いから使用者は減り続けているらしい。販売会社もわかっているのか、店先にはなく、全てネット注文だけになっている。


 のんびりしているだけのように見えたから、彼が何を書こうとしているのか気になった。

  長くなるなと思った私はお昼用にと執事から渡された弁当を食べることにした。


 今日は照り焼きだった。執事の作る照り焼きは実に美味かった。醤油のしょっぱさが口の中に広がりながらも、肉の油がジュワッと広がる。

 かと言って、くどくどとしている訳ではない。パンに挟まれたレタスがシャキシャキと音を立てる。そして、極め付けは特製の粒マスタードだった。ただの粒マスタードではなく、幾らかは砕いてあり、そして、和がらしのようにすり潰したものと混ぜている。蜂蜜も入れているのか、ほのかな甘味とピリッと締まる感覚がやみつきになるのだ。


 そうして一つ二つ、三つと食べていると、すぐに無くなってしまった。

 空の弁当箱を広げたままにすることほど虚しいことはないと知っている私は、さっさと仕舞って、亜空間に放り投げた。


 ちなみに、さっき取り出したのも亜空間からだ。妖術の一種で、こうなってからは愛用している術だ。しかも、常時発動したままにすれば、いちいち発動のために手続きする手間も省ける。一石二鳥は堅いだろう。


 そうして私は、少年の観察に戻ることにした。


********


 結論から言おう、彼は結局、何一つ書かなかった。


 その代わり、ずっと空を見ていた。


 最初の三十分ぐらいは私も耐えたけれど、途中から近くで遊ぶ子供を見たりしていた。子供がいなくなるほど、日も暮れてきたら、彼の今の姿勢を一言で何というかと考えていた。


 いや、無理だとは思っているけど、暇だったのだから仕方がない。


 あれだ、草原で寝っ転がる姿勢と言えば良いのか、後頭部で手を組んで、寝っ転がっているあの姿勢。


 体育座りとか、お姉さん座りとか、座り方に名前がついているなら、寝っ転がり方に名前がついていてもおかしくないと思うのだが。


 まあ、そんなことを考えていると、あっという間に時は過ぎる。

 すると、寝っ転がっている彼に一人の女性が寄ってきた。


 見ない顔だった。


 全ての地下都市市民の顔を把握しているとは言わないけれど、彼のようにパイプのある人間の周りはざっと把握しているはずだ。


 何やら親しげに話していると思ったら、女性の方が私の方を見て指をさしてきた。

 彼は私を一瞥して会釈した後、その女性に何かを説明していた。まあ、大方、外から来た知り合いが割と危険なところにいる謎の狐面に驚いているのだろう。


 説明が終わったのか、彼は私に大きく手を振って見せた。それに対して私も手を振りかえす。なかなか照れくさいなと少し耳が熱くなるのを感じた。


 そして、二人して帰っていった。

 観察対象がいなくなっては仕方がない。私も帰ることにした。


********


 だいぶ日も暮れ、気がつけば夜になろうとしていた。空には夕日どころか、夕焼けも見えない。見えるのは何もないように見える空と、孤独に輝く月だけだった。


 歩いていると、荒々しい声が聞こえてきた。


 私は喧嘩を好まない。だが、喧嘩をして収まる程度なら傍観して危うくなる前に収めたいとは思っている。急いで喧嘩の現場に向かう。


 そこはあまり人の来ない路地裏だった。ちょうどオフィス街のビルとビルの間だった。


 そこには四人の男がいた。魔の悪いことに、月の光が雲で遮られていて見えない。そうかといって、近づきすぎるのは良くない。かえって彼らを刺激するだろう。


「おい、テメエ。ここらは俺たちの縄張りだ。変にでしゃばるなって何度言えば分かるんだ!」

「いやいや、この辺りはそれぞれの地主の持ち物でしょ。それをいうなら、この辺りは政府の持ち物になる。それに、開拓された土地に、後から乗り込んできて縄張りを主張しているだけでしょ。せめて、仮に、この辺りに君達の拠点があったとしよう。果たして、その拠点を手に入れるのにいくら使った? 勝手に店の端を使っているだなんて笑わせるようなことは言うなよ。縄張りだ何だというなら、せめて拠点の一つを立派に堂々と構えてから言えよな!」


  会話を聞く限り、一人は頭の回る一匹狼。もう一人はグループのリーダーといった所だろうか。一匹狼が何か言う間も、残る二人がヤジを飛ばしていたが、この二人は発言からしてそこまで強くないから無視だ。


  その時、次第にあたりに月の光が差し始めた。


  おいおい。こんな時に限って、お天道様は。これじゃあまるで、ゲームスタートを告げるゴングじゃないか。


  そう思うと同時に、路地裏にも月の光が差し込んできた。


  固唾を飲んで見守る。いや、さっきから何度も唾を飲みこむ度にゴクン、ゴクンと音がなる。


 それが彼らにも聞こえてしまうんじゃないかと思うほど、あたりは静かだった。


  月の光でようやく確認できたのは、この喧嘩がゴツい三人組とすらっとした一人の少年との間で起こっていたこと。そして、その少年は小説家の少年と同じ高校に通っているようだったことだ。


 私のいる東側の建物まで光が届いたとき、少年が言った。


「ゲームスタートだ」


  先に襲いかかっていったのは、脇役の二人。見た目通りというか、予想通りというか、ゴツい体に任せた重量級の直線的な攻撃。


  少年はある程度まで二人を近づかせ、一気に間を通り抜ける。抜いてすぐに背中に肘鉄を入れる。


 殺せなかった勢いと、不意の攻撃に対応できない二人はそのまま転倒した。


 それでも、片方は頭を使えたのか、壁まで勢いを殺しながら進み、タックルするように横から壁に当たった。


 少年はそれを横目で確認しつつ、勢いをつけて壁の壁面を走る。


 そして、十分勢いをつけたのか、リーダーの男に襲いかかる。


 腐ってもリーダーだけはある。リーダー男は懐からナイフを出して構える。


 流石に危ないと肝を冷やしたが、それも杞憂に終わった。


 あのアメコミヒーローのように、少年は壁と自身の体を糸で繋いでいた。


 よくもそんな装置を持っていたなと感心しつつ、どうやって交わすのかと思っていたら、少年も制服のブレザーからナイフを取り出した。しかも、左右の懐から一本ずつ。二本の刃で男のナイフに当たりに行った。


 そして、ちょうど刃が重なっているところに足を乗せ、勢いを殺さずにまた壁に戻る。


 壁に当たった方の男は回復したのか、リーダー男の側に寄る。もう一人はそのまま伸びていた。


 そこでまた睨み合いが始まる。


  どうするんだ、少年。


  ここで出ていけば、お互い引いてくれるだろうか。そんなことを考える。


  首筋を汗がツー、と伝っていく。


 すると、ことはあっけなく終わった。

 

 一瞬だった。


 少年がリーダー男にナイフを投げ、それと共に近づく。


 男は真横にナイフを振る。

 

 男は少年が追加で投げた四本のナイフも捌いた。

 右斜め上から一振り、左斜め上から一振り。


 手癖なのか、男はナイフを真上に振り上げた。


 少年はニヤリと笑っていた。


 手に持つ何かにナイフを通し、真横に折る。


 すかさず、前から足を男の首に絡ませしめる。

 

 脇役の男が駆け寄ろうとするも、ギラリと光るナイフの刃先がリーダー男の額を向いているのに気づき、動きを止めた。


「今日のところはこれで終わりにしないか。人を殺したいとは思わないけど、必要なら殺すことができるように鍛えられた。流石に分かるよね?」


 背筋がゾクリとする声色。

 あの歳で一体、どこから声を出しているのか不思議になった。


 本能から逆らうのを躊躇する冷ややかな声。先程の、流れるような見事の技術。

 喧嘩に使うにしてはどこか方向性が違っているように思えた。喧嘩が相手を打ち負かすためのものだとしたら、彼のそれは、そう、それこそ相手を殺すためのものだ。


  リーダー男は降参するとでもいうように、右手に持つナイフの持ち手を下に落とした。脇役男は伸びた仲間を肩でも貸すように担いだ。


  それを見て、少年は男にキスをした。


  面食らったのは事実だ。だが、それよりも驚いたのは、十秒ほどで唇を離すと男は意識が混濁していることだった。


  少年はさっと足を離して壁まで戻る。

  男はふらついていた。脇役男の介助で何とか歩けるのか、彼らは逃げるように立ち去っていった。


  少年はそれを見送ると、私に手を振ってきた。


  私が下に降りると、少年も降りてきた。敵意がないと言いたいのか、両手を上にあげ、ヒラヒラ振っている。


「えーっと、長さんだよね? 初めまして、地下都市立第一高校の久我崎弥くがさきわたるです。古谷ふるやから話を聞いているのですぐに分かりました」

「ほう。淳と知り合いだったか」


  古谷淳とは件の高校生作家の本名だ。


「さて、これでも長として聞いておきたいことがあるのだか、構わないか?」

「ええ。まあ、長さんになら話してもよいでしょうし、それに、流石に口は堅いですよね」


  妙に最後の一言だけ寒気がした。どこか表情も暗い。


「もちろんだ。何か警察事件に発展したわけではなく、あくまで私の独断だ。パーソナルな話も含むだろうしな。だから、その威圧するような声色は使うな。あくまで私は、市民と友好な関係を作りたいと思っておる」


  スーッと息を吸うと、少年は話し始めた時の飄々とした表情に戻っていた。


「分かりました。それで、僕は何を話せば良いんです? あいにく、どこで技術を身につけたのかは答えられないんですけど」

「心配するな。どうせ、どこかの組織か施設で鍛えられて、日本に戻ってきたのだろう。それぐらいの予測はつく。私が聞きたいのは三つだ」


 そう言うと、少年は「長くなりそうなら、どこかカフェで話しませんか」と言った。


********


 少年の知る近くのカフェに入り、コーヒーが来たところで話を始めることにした。


 私の姿は広く知られているようで、そのカフェのマスターもわざわざカウンターの中から出てきて挨拶してきた。私と少年の組み合わせからか、奥の個室スペースに案内された。

 頼んだオリジナルブレンドのコーヒーが出てきたところで本題に入る。


「さて、私が聞きたいのは三つだ。一つ目はあの男に使ったのは何だということ。二つ目は淳や他の一般市民には攻撃を仕掛けないかということ。三つ目は私と定期的に情報を交換してくれないかということだ」


それを聴いた少年はなるほど、とでもいうかのような余裕を見せ、コーヒーを一口。


「先に言っておきますが、僕は組織の手先です。なので、組織から命令があれば誰であろうと攻撃を仕掛けます。ですが、僕も高校生の気分を味わいたいし、この都市は狭いからすぐ情報は伝わります。不良と噂されるまではともかく、人を殺したなんて噂されるような真似はしませんよ。何より、任務の難度も上がりますし。淳にだけは迷惑かけたくないですし」

「つまり、命令以外では、一般市民に攻撃を仕掛けないということで良いな?」


  少年は首を縦に振った。これが聞けただけでも安心だ。


「次はあの男に使った薬ですね。と言っても、組織ご自慢の特殊な薬品。詳しくは言えないですけど、唾液と混ぜ合わせて十秒もすれば大抵の人は視覚を混濁させる薬です。二、三日酔ったようになるだけなので、麻薬のような幻覚作用はありません」


  アルコールの類かと思ったが、違った。視神経を惑わすような薬か何かだろう。


「最後が情報交換でしたね。流石の僕も、組織の情報を横流しするリスクは負いたくありませんよ」

「そっちは期待していない。私が欲しいのは、この地下都市の治安についてだ。ギャングや裏組織の話は、それに関わっている人から直接聞いた方が正確だからな」

「なるほど。それなら構わないですよ。どうせ、その手の人がいる道を毎日歩いていれば自然と耳に入るものばかりですし」


 あっさりと了承してくれた。


「私の方からは以上だが、何か聞いておきたいことはあるか?」

「特にないですけど、長さんって何か訓練でも受けていました? というか、肉体調整されていませんか?」

「その質問には答えない」


  彼にも秘密があるように、私にも秘密はある。そもそも、世の女性の大半は秘密の一つや二つぐらい持っているものだ。


「まあ、そうですよね。そこは尋ねなかったことにします」


  特に喋ることもなくなり、何となく店内を見回す。よく見ると、結構おしゃれなカフェだった。天井は木の梁でうまく隠れている。それに、ゆっくりと回るファンのような羽も味を出していた。マスターはカウンターの中でゆっくりと仕事をしている。今度この辺りに来た時は寄ろうと心から思った。


 ふと、先程の少年の行動が気になった。気になったが、聞くのは少し憚られる。というよりも、聞く側が恥ずかしい。


「何か気になることでもありました?」

「いや、大したことではないのだが、なぜさっき、その……、アレなんだが」


 思ったよりもひどく言葉に詰まってしどろもどろしていると、少年は何を言いたいのか察したようだった。


「もしかして、さっき男にしたキスしたことですか?」


  勢いよく首を縦に振る。その様子がおかしかったのか、少年はクスッと笑った。クツクツと笑った後、半笑いの状態で、「すみません。別に、長さんの行動がおかしいとか、可愛らしいとか思って笑ったわけじゃないんです」と弁明していた。


 どうやら私の予測は外れていたようだ。


「やり方は僕のいる組織の訓練施設で学んだんですけどね、筋肉量とかが足りない僕でも使える、相手に例の薬を守る方法はあらかじめ食事に仕込むか、さっきみたいに不意打ちのキスで飲ませるしかなかったんですよ。それに慣れちゃったのか、他のどの方法を試してもうまくいかなくて」


  口にしている内容こそ一般人の話すことではないが、口調や仕草は十分子供のそれだった。


 しかし、暗殺者のようなことをしているからだろうか、少年は察しが良すぎる。狐面で目元を隠しているから表情から読み取れることはほとんどない。唯一露出している口元からでも読み取れるだろうが、それにしても大した推理力と洞察力だ。


「さて、それじゃあ僕は帰らせてもらいますね。あまり遅いと明日遅刻しちゃいそうですし」


  そうだ。この少年は学生だ。長く引き止めるのは申し訳ない。


「分かった。しかし、この時間だと補導されないか?」

「安心してください。抜け道やら警察程度の連中を撒く方法を知っているのもあるんですけど、うちが結構近いんで。そんなに心配しなくても良いですよ」

「そうか。ここの支払いは私がしておく。先に帰ってくれ」

「はい、そうします。それじゃあ、また今度」


  私も席を立って代金を払った。

 彼が出て、ドアが閉まると、取り付けられた鈴が小さくチリンチリンと音を立てた。


「マスター、また利用させてもらうよ」

「ええ、またのご来店をお待ちしております」


  コーヒーといえば、味は執事の彼が淹れてくれたのと同じような味わいだった。甘くナッツのような香りの後にほろ苦いチョコレートの風味がする不思議なブレンドだった。またぜひ味わってみたいものだ。


  近くの線路の作業用通路を通って屋敷に戻る。歩いていると、自然と足元が目に入る。

 

 この地下都市は夜もたくさんの光で満ち溢れている。この光が消えるのは皆が寝静まる時間。それまでこの都市は灯りに包まれたままだろう。俗に、一万ドルの夜景と言われているのは、このモノレールの中から見下ろす街の明かりだった。


 地下という非日常さも多少あるのだろう、普通の建物も多いが、同じくらいファンタジー小説に出てきそうな家もある。特に、今私がいる辺りから中央駅にかけての線路沿いは観光客の多句が立ち寄る目抜き通りになっている。だから、どうしてもファンタジックな建物が多いのだ。


 企業が整備したとはいえ、建築は土地の所有者に任せた箇所も多い。おまけに、高さがあるだけに、崖上になっているところにも家が建てられている。


 某有名アニメ映画の湯屋のようなものから、ひっそりと暮らす賢者の家のような佇まいのもの。口で説明するよりも、古今東西のファンタジー小説に出てくる建物といった方が分かりやすい。


 それこそ、「考えるな、感じろ(想像しろ)」の世界だ。


********


 屋敷に着くと、執事がすぐに出迎えてきた。一体いつ私が屋敷に近づいたのを感じ取ったのだろうか。それとも、単純にずっと玄関で待っていたのか。


「お帰りなさいませ、ご主人様。夜分遅くのお戻りでお疲れでしょうが、お夕食はどうなされますか」


  白装束の袖から腕時計を出す。見ると、すでに八時を過ぎていた。だが、九時前だから食べてもセーフだと思う。


「時間も時間だから、早めに食べ終わりたい。どのくらいで用意ができる」

「十分ほどもらえれば用意が整います」

「そうか。相変わらず用意が早いな。ああ、忘れるところだった」


  白装束の袖の中から取り出したという程で、亜空間からサンドイッチの入っていた弁当箱を取り出す。


「うまかったぞ。さすが私の専属執事なだけある」

「ありがたきお言葉。一度お部屋にお戻りになってお待ちください」


 実に迷いどころだ。


 確かに、主人が全てを任せて部屋でくつろいでいるのは何も問題がないとは思う。いつもなら迷わず部屋に行っていたが、今日は少し気分が違う。


「いや、私もすぐ食べたいしな。邪魔じゃなければ、食堂の端ででも待っていよう」

「私は構いませんが、本当によろしいのですか」

「お前が良いならよかった。さあ、早く準備をしてもらおう。あまり長居しても遅くなるだけだからな」

「はい!」


  執事にエスコートされながら食堂についた。執事はすぐに厨房に行ったが、同じくらいすぐに戻ってきた。どうやら先にテーブルクロスのセットをするらしい。鮮やかな手つきで一回で終わらせてしまう。もちろん、雑なところなどなく、いつも通りきっちりとしていた。


「ご主人様、先に座っていただいて構いませんよ」

「うん。それじゃあ先に座らせてもらうとしよう」


  正直、執事に椅子を引いてもらって座るというのも鬱陶しくて仕方がない。これぐらいの動作は自分一人でできて然るべきだろうと常々思う。


 そうは言っても、礼儀作法にうるさい環境で育ったせいか、自分と同じようにそれなりの財力を持っている人ならば、こうした行為も当たり前なのだろうと、うっすら思っている。


  私が席に座り終わると、執事はまた厨房に戻っていった。

  暇つぶしに今日会ったことを思い出そうと天井をぼんやり見つめる。


  まずは老人と少女の組合せに会い、次に小説家の少年を長々と観察していた。


 ああ、そういえばあの女性は誰だったのだろうか。弥少年に聞いてみてもよかったかもしれない。まあ、そっちはおいおい調べるとしよう。


 そして最後にあったのが弥少年か。


 今日はそれなりに濃い一日を過ごしたなと感心する。まあ、その濃さのほとんどは弥少年がらみのことだが。


 あの一撃一撃が凄まじくよかった。頭の中で弥少年と男三人組の攻防を思い出していると、いつの間にか執事が戻ってきていた。


「本日は焼きそばのオムレツ添えとさせていただきます」


  そう言って出てきたのは、字面通りの焼きそばとオムレツだった。強いていうなら、今回のオムレツはチキンライスの上に薄焼き卵を乗せた方ではなく、フレンチのオムレツ、オムレットといった方が馴染み深い方だった。


「オムレツの方からお召し上がりください。中の具と焼きそばを絡めながら食べていただくとより美味しいと思います」


 作った張本人が言うのだから間違い無いのだろう。「いただきます」と言ってから早速オムレツにナイフを入れる。

 

 すると、中から半熟の卵と細かく刻んだにんじんにグリンピース、角切りのベーコンが出て来た。


 一思いに一切れ口に含むと、卵の軽い食感と具材本来の素材の味が口の中で融合していった。ベーコンのパンチのある旨味、そして、黄身のまとわりつくような濃厚さ。その二つを取り持っているのは甘さの滲み出たにんじんと、ほのかな青い味わいを持つグリンピースだった。この二つの食材のおかげか、飲み込んで残るのは黄身の貼り付くような感覚ではなく、程よい旨味だった。


 次に、焼きそば単体で食べてみる。


 見た目は普通の焼きそば。料理漫画やなんかでは、無駄に強い旨味や見た目から想像できない味わいだが、どうなのだろうか。


 一口食べると、口の中にソースの濃い味わい、麺のもちもち感、豚バラ肉の脂身とキャベツとピーマンの食感が次々とやってくる。しかし、さっきほどの驚きはない。


 とはいえ、執事は言っていた。

 焼きそばと中の具を絡めるとより美味しいと。


 つまり、ここでの焼きそばは主役ではない。オムレツの具と絡めて初めて主役になれる器。


  早速絡めて食べると、さっきまではなかったソースの甘辛い味が君で柔らげられ、それでもなお主張し続けるソースとベーコンの旨味が調和していた。実にうまい。


  そう思いながら食べる手をすすめる。


 すると、あっという間に食べ終わってしまった。量は普通だったが、思った以上の満足感があった。


「ごちそうさま。文句なしにうまかったぞって、なんだ! 今のどこに泣く要素があったのだ」


  執事の方を見ると、目尻に涙を滲ませていた。


「いえ、ただ、短時間に二回もご主人様に褒められたことが嬉しくて、つい」

「そ、そうか。何かしたほうが良いか」

「では、『私のために身を粉にするとはよほどの阿呆よな。せいぜい頑張るのだな』と言ってください」


  自分の耳を疑ったが、たとえ聞こえたことが嘘だとしたら、私の頭がどうにかなってしまったと言うことだ。この執事は私のために頑張ってくれているのだから、貶すようなことはしたくない。だが、それが望みだと言うのなら仕方がない。


「本当に良いのだな?」

「はい」

「行くぞ。私のために身を粉にするとはよほどの阿呆よな。せいぜい頑張るのだな」


  腹は括ったけれど、元々、こんなことを言うような性格ではないので、自分で聞いていて似合わないなと思ってしまった。


「ありがとうございます、ご主人様」


  結果として、当の本人である執事が喜んでいるのなら良いことだろう。


 だから、嬉し泣きなのか感銘を受けているのかわからないが、その涙を早くしまってはくれないか。

 

 そう思ったことは執事に内緒だ。


「私は風呂にでも入るとする。その状態では何もできないだろう。執事、お前は早く立ち直れ」

「御意に」


  私は自分で席を立って、自分でお風呂のお湯を張ることにした。私と執事の二人しかいない邸宅で常時お風呂の湯を張っているのはお金の無駄遣いだから、と私と執事の彼の意見が一致した。だから、いつもなら夕食後に十分ほど準備の時間を置いてお風呂に入っていた。


 とはいえ、私でもお風呂の湯張りぐらいはできる。


 自分が金持ちだからと言うのではなく、一人の人間として、自分でも最低限のことはできるようにしておきたいと言うのが私の意見だった。


「さて、どれだったかな」


  お風呂に栓がしてあるのを確認した私は、うっすらとした記憶を遡ってみる。


 偶然思い出したのは、いつかやったジャグジー風呂のことだった。執事から、この機能で遊ぶことはしないでください、と言われたのを思い出してクスッと笑う。


 確か、湯張り、ジャグジー、泡多めのボタンで操作したはず。となると、私がやるのは湯張り、普通(のような意味合いのボタン)の二種類だ。


「基本、湯少なめ、ミスト、ジャグジーか。この中なら基本だろうな」


  そう判断してボタンを押す。思わず不安になって浴槽の中をしばらく覗き込む。


  しばらくすると、お湯だけが出てきた。ひとまず安心だ。自分の部屋に戻って寝間着でも持ってくるとしよう。


  寝間着を取って戻って来たときには湯張りが終わっていた。ここと自室を往復するだけでもそれなりの時間がかかるのだから、特段驚くこともなかった。


  服を脱ぎ、着けていた玉の緒の首飾りを台の上に置く。浴室に入ってドアを閉める。


  まずはひとしきり髪と体を洗う。お湯で流したら湯船に浸かる。いつもと同じことを繰り返すだけ。

 大体、物事は決まった通りにしか動かない。


 多少の違いはあれど、結局は同じことの繰り返し。人間の行動なんて、起きて、食べて、食べて、食べて、お風呂に入って、寝る。このサイクルの繰り返しでしかないのだから。


  今日だけ特別何か別のことをしてみようと思っても、直後にやること以外は大体忘れてそのままになる。

 

 そうならないためにも、今日は今日という特別な日であるためにも、湯船に浸かったまま右足だけ上げて高く伸ばしてみようと思う。


  まず懸命に脚を伸ばす。


 痛い痛い。ストレッチはしているつもりでも、足を上げるときの筋肉が違うのか、全然足が上がらない。ちょっと我慢してキープする。


 次に、お湯をかけながら、脚に手を滑らせる。


 お湯をかけて気持ち良いのはわかるけど、この体勢つらい。


 脚を下ろして、今度はもう一方の足も同じようにする。

 

 あ、ちょっと待ってギブ。これ明日腰か脚の筋肉が痛くなるやつだよ。


 脚を下ろして、浴槽の縁でセルフ腕枕する。ふーっと一息吐く。


 あれだ、これはやらないでおこう。いつか本当にエグいことになる。でも多分、三ヶ月後とかにはころっと忘れてやっているんだろうなと思う自分がいた。


 のぼせる前にお風呂を出て部屋に戻る。程なくして、執事がやってきた。


「ご主人様、お客様がお見えになりましたがいかがいたしましょう」

「この時間に来るのは百合江博士か」

「そうです」

「応接室に通しておいてくれ」

「わかりました」


  執事が部屋から出ていったのを確認して、衣装棚からガウンを取り出す。この時間に来る客人が悪いのだ。正装じゃないからと言って怒られる謂れはない。

 それに、来たのは気心知れた相手、しかも同性だから良いだろう。


  食堂と反対側にある応接室に行くと、いつも通りのポーズで座っていた。


「こんばんは、百合江博士。相変わらずそのポーズなんだな」

「うん。そうそう。やっぱりここに来るなら何回でもやっておきたいよね。この女を侍らせている太った富豪のポーズ」


  本人曰く、このポーズは女性を侍らせているおじさんのポーズらしい。


 よくアメリカ映画やなんかで出てくる悪の組織の上玉と言えばわかりやすいだろうか。葉巻を口に咥えながらワイングラスを揺すっている姿が面白いらしい。


 正直に言うと、あれをやっているのはお金があればなんでもやれると思っている脳内お花畑か、苦労もせずに成り上がったお坊ちゃんだけだ。


 本来、人の上に立つと言うことは、それなりの苦労が伴う。まともな精神の持ち主なら、苦労をわかってあげるほうが自然だ。


「で、今日はどんな用件で?」

「決まっているじゃない、長ちゃん。この一週間の研究報告とあなたの健康状態を見るためよ。まあ、あとは雑談をしに来たって感じかな」

「七割型雑談をしに来たんですね」

「そうとも言う」


  百合江博士と二十年の付き合いだ。

 地下都市ができた当初からいろいろな調査を頼んでいる。元々は『わたし』であり、私の父が経営している会社の技術開発部でチーフをしていた。若くしてチーフまで上り詰めた実力は折り紙付きで、幅広い知識と応用力を買われて、今では地下都市の技術担当をしている。


「さて、これが今週の研究報告。ようやく建物老朽化の際の工事方法と迂回路の確保について結論が出そうってことが書かれてるから読み込んでおいてね」

「わかった」


  百合江博士がそう言いながら渡して来たのは分厚い紙束だった。一センチは必ずあるだろうそれをさっと見ただけでも、いくつもの可能性を検証して、欠点を洗い出しているのがわかる。


  地下都市はその構造から、一度建物を建てると建て替えや取り壊しはなかなか難しい。そもそも、車がなかなか通れない。仮に通れたとしても、長時間通路を塞ぐことになってしまう。

 

 最初のうちは通路を塞がない方法を模索したが、現実味のない話にしかならなかった。次に考えるのは通路を塞ぐとして、迂回路の確保は可能なのかと言う問題だった。


  ここで説明しておかなきゃいけないのは、地下都市は出現から十年の歳月をかけて急ピッチで建設が行われた建物ばかりだと言うことと、当初から長持ちする家を建てようとする人はほとんどいなかったと言うこと。


 だから、必要と思われる箇所の修繕を行わなければならない。少なくとも、大規模な耐震性の確認をしなければならないと言うことが挙がっていた。


  話を戻すと、ここで迂回路が必要な理由は一定区画ごとに二、三日の作業をするほうが効率良いと分かったからだ。作業中はその区画を封鎖しなければならないから、迂回路を用意する必要があった。。だから、区画分けをどうすれば迂回路を確保しつつ、影響を最小限にできるかを考えてもらっていた。


「わかった。詳しいことは明日読み直します」

「ああ、それで構わない。さて、ここからは君の健康チェックだね」


  百合江博士の目が若干変態じみたものに変わっている気がするが、いつものことなので気にしないでおこう。


  百合江博士はカバンから眼鏡を取り出してかけた。なんでも、見ている人の心拍数やいろいろな健康状態を把握できるらしい。とは言っても、眼鏡だけでできることは何もない。彼女はカバンから四角い装置を取り出して、私に渡した。


 この装置は指先にはめて使うもので、血圧、脈拍、体温などなど、諸々を測る装置だ。この装置の情報が眼鏡に移ると言うことらしい。


「はーい、それじゃあお腹出してね」


  測定中に別の項目を進めてしまうつもりらしい。


「長ちゃん、診察中はつまらないし、何か面白い話をしてくれない?」

「唐突ですね」

「まあまあ。最近私は頭を使ってばかりいたので、糖分を摂取したいんですよ。でも、ぶっちゃけ恋バナとか論外だし、直に砂糖食べても老化物質が体内に溜まるとか言われたら食べにくいじゃん。私も四十過ぎたおばさんな訳だし」


  体のことをもっと労らないと、などと呟いている。見た目は確かに三十代四十代と言われて納得がいく。しかし、テンションというかノリが若いので歳の話をされてもあまりピンとこない。

  それはともかく、何か話題はないかと記憶を遡ってみる。


「百合江博士、話題というより、情報を調べてほしいのだが、良いか?」

「いいわよ。私も気晴らしがあったほうが、仕事は捗るしね」

「それじゃあ、前に話した高校生小説家の淳を覚えているか」

「もちろん。確か、家族構成とかも調べてたよね」

「で、今日、たまたま彼を見かけたのだが、見知らぬ女性と一緒にいた。地下都市であまり見ない顔だなと思ったからの素性を調べてほしい」

「オッケー。じゃあ、後で場所と時間を教えてね。にしても、淳のことになると妙に肩入れするよね……。好きなの?」

「ち、違う!」


  断じて違う。彼のことはそんな対象として見ているんじゃなくて、純粋に人間として面白いと思っているだけなんだよ。


「本当にー?」


  疑いの目が向けられているが、違うものは違うんだ。多分、今一気に心拍数上がったと思うけど、違う。必死にそれをアピールしようとして、私は首を縦に振った。


「まあ、その辺りはいいか。でも実際、なんで肩入れしちゃうのよ」

「強いて言うなら、自分の周りにいる人には危険が及んでほしくないからだな。摘める芽は摘める時に摘んでおきたいし、問題があれば注意ぐらいしておきたい、から?」

「なぜに疑問形? まあ、事情はわかったから。理由はどうであれ、下心丸出しの以外なら喜んで調べるよっと。はい。健康チェックは終わりだよ」

「ありがとうございます」


  そういえば、百合江博士に対してタメ口を使っているのに、彼女のノリは若いと思っている自分がいることに少し面白さを見出してしまった。抗えない年の差、しかし、それよりも前に来る関係性による違和感。


「それじゃあ、後で場所と時間を送ってね。忘れないでよ」


  そう言って百合江博士はさっさと出ていった。

  入れ替わりに執事が入ってきた。


「ご主人様、白湯でございます」

「ありがとう」


  壁にかかっている時計を見ると、夜の十一時になろうとしていた。


「私も寝るから、もう休んでいいぞ」

「ありがとうございます」


  白湯の入った湯呑みを持ったまま、自室に戻る。ベッドに直行吸うのではなく、デスク前の椅子に座った。


  首元から玉の緒の首飾りを取り出す。それを陣の描かれた紙の上に置く。そこに手をかざすだけで良い。あとは術がやってくれる。そもそも、元々のこの体は私のものではない。


【認証完了】

【アクセス、妖術展開】

【術式 変型固有魔法 玉の緒 一】


  頭の中に音声が流れると、術が手を伝って身体中を巡る。


 しばらくすると、巡りが遅くなっていくのが分かった。正確には、体内のマナを必要な限り取り、重くなっているのだが。


 次第にマナを絡め取った術が指先の方へと流れていく。


 そして、指先からじんわりと出て玉の緒に落ちた。鍾乳洞の水滴に近いと言ったら良いのか。


【術式終了】


  その音声が流れると、どっと疲れが押し寄せてくる。とにかく早急に横になりたくてベットへと急ぐ。どしっと上半身を預けてから、ズルズルと這い上がる。


  そもそも、こんなことはやらなくとも私は生きていける。


 だけど、『わたし』は生きていけない。


  今でも、迷うことがある。


 あの日、幼かったこの体の本当の持ち主の最後の願いを聞くために、肉体に乗り移って、今日まで生きてしまったことが、本当に良かったのかと。


 そこで視界がブラックアウトした。


*******


 始まりは小さな祠だった。


 何百年も前に祀られた山神として、現世に居座り続けたが、ここ二百年は誰も来なかった。


 そんなある日、私の元に彼女がきた。どうやら迷ってしまったらしい。近くの小鳥に言って案内させてやろうかと思った時、ふと、彼女と目が合った気がした。


 その日は小鳥を遣わして送ってやった。


 次の日、彼女はまたやって来た。


 その次の日も、その次の日も。彼女は来ると決まって、『おいなりさん』と言った。私は妖術こそ使えるけれど、決して妖狐の類ではない。ただの蛍の妖だった。


 しかし、呼び名などどうだってよかった。人が来るという事実が嬉しかった。


 ある日、彼女はいつも綺麗な格好をしていた。ドレスというらしい格好で、その場でくるりと回って見せてくれた。


『おいなりさん、わたしね、今日誕生日なの。誕生日っていうのは生まれた日を祝うことができる日なんだよ!』


 知っている。


『でも、毎日おいなりさんの話し相手になってあげているのに、今日だけ来ないのはまずいかなって思って。だから、こっそり抜け出してきたんだ』


 そうなのか。しかし、お前の話は聞こえても、私の話など聞こえぬからつまらないだろうに。


『わあ。どうしよう。もう帰らないと怒られちゃう』


 そうなのか。早いものよな。もうそんな時間か。時が進むことなど、私には長すぎる。そもそも、人の時間など当に忘れてしまった。


『それじゃあ、また明日』


「また明日。楽しみにしているよ」


 そう呟いてみた。彼女に聞こえたかは分からない。


 次の日、彼女は来なかった。

 一日ぐらい来なくとも大したことあるまいと思ったが、なぜか胸の内がざわざわしてやまない。

 

 私は彼女の様子を見に行こうと、彼女の匂いを頼りにした。森にはない、人の作り出した奇妙で、良い香り。それは微量ながらもしっかりと残っていた。よほど毎日、同じ道ばかり通るのだろう。


 たどった先には大きな屋敷があった。入り口から入り、一部屋づつ尋ねてみた。彼女は二階の一番西の部屋にいた。


 眠っているのかと思ったが、どうも部屋が鉄臭かった。


 近づいて分かったことは二つ。

 彼女は腕を怪我していた。

 そして、死にかけていた。


 私には何もわからないが、彼女が死に瀕していることぐらいは分かった。


「死ぬのか」


 思わず口から出た言葉だった。

 それは悲しさゆえだ。ようやく飽きさせてくれない人が来たと思ったらすぐに死んでしまう。そんなことが許されてたまるかと思った。そんな世界を作ったとしたら、神とやらも、むごいことをする、酷いやつだと思った。


 悲しんでばかりはいられない。私は急いで山に戻って、それから長らく使っていなかった常世への扉を開けた。


 何か無いかと探った。


 日に一度は現世に戻って彼女の様子を見に行った。


 それから三年の時が流れた。


 時折聞く話では、彼女は目を覚さないのだそうだ。怪我は治ったというのに、いったいどこが悪いのか。不思議でならなかった。


 もちろん、常世のありとあらゆる医者やその手の書物を探し回った。


 だが、彼女を救えそうな術も薬もなかった。


 珍しく、現世に戻って来たのが夜になってしまった日。私が彼女の元へ向かうと、蛍が当たりをうろうろとしていた。


「綺麗よな。お主と一緒に眺めたいのう。一緒に眺めなくとも、お前の話をもっと聞きたい。なあ、お主。もしこの言葉が届くのなら、お主の望みを聞かせて欲しい。私は大した妖怪では無い。だが、その願いくらいは叶えて見せようと思う」


  自分から呟いておいて、聴こえるわけもないかとため息をつく。窓の外を見ながら彼女の髪を撫でる。


『おいなりさん?』


 その声にはっとした。

 見ると、彼女は目を瞬かせながらこっちを見ていた。


「お主、見えるのか!」


『見えるよ。おいなりさん』


 力ない笑顔で笑う彼女を見ると、どうも涙が出そうになって、裾を目に当てた。


『おいなりさん、わたしの願い、聞いてくれる?』


「ああ、勿論だ。お主の願い、叶えて見せよう」


『わたし、もう長く無いんだ。さっき、神様に言われちゃった。お前は生きる気力が無くなっているって。だけど、お父さんよ母さんを悲しませたく無い。だから、わたしの代わりに私になって』


 どうしようもなくて、胸が張り裂けそうだった。

 私の、蛍の光よりも弱いというのか。


「願いは聞き届けた。私が代わりを務めよう」


  『ありがとう。おいなりさん』


  私は三年で調べた知識を総動員して、彼女の体に私を移す方法を試すことにした。失敗すれば、彼女の願いは叶わない。それどころか、私の存在も消える。


 そんな運命など切り開きたく無いと思いながら、必死に妖術を使った。


  私を彼女の精神と入れ替える。そして、彼女の精神を身の近くに置き続ける。外さなければならないこともあろうと、範囲を広く取ることにした。安全策を何重にも張りめぐらせ、一晩かけて術式を編んだ。


  そういえば、「夜明けになったら、僕は死んでしまう。ねえ、蛍の旦那。死んだ蛍は妖になれるかい」そう言ってきた蛍が一匹いたのだ。


  私は、わからないと答えた。だが、本当は知っている。死んだ蛍だから成れるのではなくて、彼らを導くべき蛍が妖になるのだと。


  だから、彼らは死んでいく。

  しかし、彼らは命を巡らせて、またどこかで生きるのだと。


  これから私の存在は死ぬ。彼女の魂も死んだと同じ状態になる。


  だが、私は彼女に、彼女は私の導き手になるのだ。

  そっと術を発動させる。


『さようなら、おいなりさん』


  今でも心に響く。彼女の嬉しそうな声。


 それからの日々は新鮮だった。そして、大変だった。


 なまじ何百年と生きただけあって、私の精神年齢は相当大人びていた。学こそないけれど、長年の知恵というか、とにかく頭が回った。


 そうして今、私はここにいる。この、地下都市にいる。


********


 目を覚ますとだいぶ体が楽になっていた。

 部屋の電気を消す。今日もいろいろなことがあった。思わぬ繋がりができた。

 明日はどんな一日になるか楽しみで仕方がない。

 首に玉の緒の首飾りをかけ直す。

 

 彼女の両親を騙すようで申し訳なくなるのと同時に、彼女の願いを叶え続けるために。明日も生きよう。

 生きて、彼女と楽しみを分け合おう。

 

 ちゃんとベッドに入って目を閉じる。

 人間の1日は寝ることで終わる。

次回の更新は未定ですが、四話までは必ず続けます。

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