6 どす黒いもの 1
カーテンの隙間から朝日が差し込む。
外から鐘の音が聞こえた。それを合図に、あちこちから声が聞こえ始める。街が目覚める時間だ。
私は、ベッドからのそりと起き上が……れなかった。
昨日一日が濃すぎて、色々考えていたら寝るに寝れなくなってしまった。
家族の事を思い出しては恋しくなったり、無詠唱で魔術が使えるようになったことを思い出しては嬉しくなったり、それを今すぐ使いたくなってうずうずしたり、固有スキルのことを考えると頭が痛くなったり、でも嬉しかったり……
とにかくやたらと目が冴えて、まともに眠れなかったのだ。
扉をノックする音がした。
「アリスお嬢様、朝ですよ。シュリお嬢様はもう準備を終えられています」
「……はぁい」
私はこんなだというのに、シュリは爽やかな朝を迎えたのか。
どうにかのそりと起き上がると、キッと太陽を睨みつけた。寝不足の身体では、この快晴すら恨めしい。
……固有スキル【健康体】でも寝不足の怠さは治せないのね。睡眠って大事。
ダラダラと階段を下り、ダラダラと食堂へ向かう。
よくないことだと分かっているが、食事もダラダラしてしまう。
……あぁ、今日はもうずっとダラダラしていたい。
身支度を整えるため、部屋へと向かう。途中、広間のソファに座るシュリの姿が目に入った。食堂に入る前に通ったはずだが、全く気付かなかった。
ちらりと彼女に目をやると、何やら透明のガラス板のようなものを見ていた。
……あれって、死後の世界で私の最期を見せてくれたやつ?
それで何を見ているのかは分からないが、何やら難しい顔をしている。気になったが、話しかけるのも面倒に感じてそのまま通り過ぎた。
やっとの思いで身支度を整えると、ナタリアがお母様のお返事と今日の課題を持ってきてくれた。
手紙に目を通すと「シュリと協力してよく頑張りましたね」といった内容が綴られていた。
――衝撃だった。
お母様は上位の魔術師だから他の人とは違う、と心のどこかで思っていた。
そんな例外はあり得ないと分かっていたが、少しだけ期待していた自分がいた。
――皆、記憶を変えられている。
その事実が、急に現実味を帯びた。
ナタリアに見送られて外へ出ると、門の前にはいつも通りアンナがいた。
「二人とも、おはよう」
アンナがにっこり笑う。その笑顔が私だけに向けられたものではないことが、なんだか寂しく感じた。
二人で一緒に頑張ったこと、二人で一緒に怒られたこと、二人で遊びに行ったこと……アンナの記憶では、それら全てが三人の思い出に変わっているのだろうか。
……気味が悪い。
昨日は平気だったはずなのに。むしろ天使見習いの魔法ってすごいとすら思っていたのに。
私の中にどす黒いものが増えていく気がした。それを払うように頭を振り、寝不足で気が立っているのだと自分に言い聞かせた。
そんな私に気付くことなく、二人は何やら楽しげに話している。時折笑い声が耳に入ってくるものの、会話に耳を傾ける気にはならなかった。
気分が晴れないまま、気が付くと広場に着いていた。
「それじゃ、また後でね」
アンナが手を振り駆けていく。私はその様子を、ただぼうっと見ていた。
「玲様、行きましょう」
声をかけられ、ハッとした。急に頭が冴えた気がした。
――そうだ。課題をこなさなきゃ。
シュリを無視して通り過ぎようとしたとき――右腕を、掴まれた。
「言いたいことがあるのなら、言ってください」
私を掴む手に力が籠る。声が微かに震えている気がした。
少し俯いたまま視線だけを移動させると、シュリの悲し気な顔が視界の端に映った。なぜそんな顔をしているのか、理解できない。
「言いたいことなんて、別に……」
「先程から様子が変です。私が天界から見ていたアリス様と、まるで別人です」
……アリスと、別人?
その言葉で何かがプツリと切れた。
掴まれた右腕を振り払う。震える唇をぐっと結ぶと、彼女をきつく睨みつけた。
「それは当然でしょう。あなたが見ていたアリスは、玲だった頃の記憶がなかったのだから!」
徐々に声が大きくなる。どす黒いものが溢れ出す。
シュリが目を丸くしているが、そんなことはどうでもいい。
視線を落とし、両手を広げる。
「私は……私は…………」
――私は一体、だれ?
広げた手が震えているのは、怒りからか、悲しみからか。
自ら『記憶を引き継いで転生したい』と希望しておきながら、それに振り回されるとは……私はなんて愚かな人間なのだろう。
記憶が戻ったときはとても嬉しかった。感動すらした。
しかし、弊害もあった。"9歳のアリス"であった私の精神は"21歳の玲"へと変わってしまったのだ。10歳の身体に21歳の精神――このちくはぐな状態が、知らず知らず私を不安定にしていた。
とはいえ、"9歳のアリス"が完全に消えたわけではない。天真爛漫で明るいアリスと、内気な玲。その正反対の人格はどちらも"私"に残っている。
常に二人の異なる私がいる感覚――その結果、私は"私"が分からなくなった。
――こうなった原因は、何?
それは、記憶。
私は記憶が人に与える影響を知ってしまった。……そして思い出した。
周囲の人間の記憶が改ざんされていることを――。
シュリが「ちょちょい」なんて軽く言うから、真剣に考えることはなかった。――いや、私が考えないように、わざと軽く言ったのかもしれない。
彼女の意図は分からない。何にせよ、今までここに居なかったはずのシュリの存在がしっかり根付いているという事実は変わらない。そして、それは皆にも何かしらの影響を与えているのかもしれない。そのことに、得体の知れぬ恐怖を感じた。
……あぁ、そうだ。この少女は人間じゃなかった。
彼女が見ていたガラス板のようなもの、それから連想した死後の世界、彼女を不審に思うことのない周囲の人たち……
それらをきっかけに、私はシュリに対して恐怖心と嫌悪感を抱いてしまった。
決定打は、先程の一言。
――天界から見ていた
そうだ。この天使見習いは、ずっと私を見ていたんだ。
遥か上の世界から、彼女は何を思い、何を感じていたのか。
……気持ち悪い。
言いようのない嫌悪感。今までずっと監視されていた。そしてこれからも監視され続ける。だってこの少女は私の『監視役』なのだから。
――嫌だ。そんな生活は、嫌だ。
シュリは何を言うでもなく、じっと私を見つめていた。その顔は戸惑っているようにも、泣きそうにも見えた。それが、私の感情を更に揺さぶった。
――泣きたいのは、私よ!!
自分のことも分からない。目の前にいる少女の事も解らない。皆のことも……
私は一体、何を信じればいい?
身体が熱を帯びていく。周囲に金色の粒子が舞う。感情が、抑えられない。
シュリの顔がみるみる青くなっていき、身体が震え始めた。何やら言葉を発しているようだが、私の耳には届かない。
自分が何をしているのか、何をしようとしているのか、それさえ分からなかった。いつの間にか挙げていた右腕を振り下ろそうとした、その時。
――『そこまで』
男性のような、低い声が響いた。
その声が聞こえると同時に、私の周囲を舞っていた金色の粒子が消え、身体がスッと冷えた。おまけに頭も冷えた。
……一体、私は何をしようとしていたのか。
声の出処を探すように視線を彷徨わせると、私の2メートル先には金色の粒子が――身に覚えのある展開だな、と思いつつも誰がやってくるのかと身構える。
一瞬の後、目の前には一人の男性が立っていた。
神々しいその姿に思わず言葉を失う。静寂の中で、ポツリと呟く声が聞こえた。
「神……」
……あ、やっぱり?
姿どころか声すら聴いたことがなかった、神様。
けれど一目見た瞬間にその存在が頭を過った。シュリのものとは比べ物にならないほど大きくて真っ白な翼、端正な顔立ち、そしてその存在感。いつかのシュリと同じように金色のもやを纏うその姿は、正しく神そのものだった。
神と呼ばれた男性が私を見据える。表情のない切れ長の目に捕えられ、背筋にぞくりと震えが走った。
彼は一度目を伏せると、優しく微笑み、右手を挙げた。
『やあ。姿を見せるのは初めてだね、玲』
「あ、はい……」
……神様に話しかけられた!? しかも、こんな気軽な感じで!?
予想外の出来事に、目を白黒させる。私なんかが神様と話して良いのだろうか。
それは、たった今まで天使見習いにキレていた者とは思えない様相であった……
『ここの様子を見ていた見習いたちが血相を変えて飛んできたものだからね、私も驚いてしまって。急に現れて悪かったね』
ハハハと笑う、神。……ハハハ、て。
神様は唖然とする私を見て笑みを深めると、言葉を続けた。
『君は、魔力を暴走させるところだったんだよ』
「……魔力を、暴走?」
『そう。私が止めなければ、大変なことになっていたかもしれないね』
……大変なこと?
「私、そんなことするつもりは……」
『つもりがないから暴走っていうんだよ』
自分が無意識の内にしようとしていたことを指摘され、血の気が引いていく。危険人物だ、と言われた気がした。
神様は変わらず笑顔なのに、それが逆に怖く感じた。
魔力を制御できなかったことなんて、今まで一度もなかったのに……
『それにしても驚いた。君にここまでの魔力があるなんて、予想外だよ』
「……え?」
『記憶が戻ったことが関係しているのかな?何せ、記憶持ちの転生者は数百年居ない上に数が少ないからね。分からないことが多いんだ』
神様は顎に手を当てると『非常に興味深い』と呟いた。
……この力は、神様が与えてくれたものじゃないの?
神様の予想を超える魔力――私はそれを制御できるのだろうか。
危険な私は消されるのかもしれない。その為に、神様は下界に姿を現したのかもしれない。嫌な考えが脳を支配し、目の前が真っ暗になった。
記憶を引き継ぎたいなんて、単に憧れで言っただけなのに――。
『それはそうと……こういった予想外のことが起きた時の為に、君はここに居るんじゃなかったのかい?』
一転して、身体の芯に突き刺さるような冷たい声が響く。
『シュリエル』
名を呼ばれた彼女の体が大きく震えた。顔は青白く、まるで生気を失っているようだ。
「か、神……もうしわけ…ありま…せん……」
『君、玲を止めようとすらしなかったみたいじゃないか』
「も、もうし…わけ……」
身体が震え、思うように声が出ないようだ。
怯える彼女を、神様は更に追い詰める。
――『仕事ができない子は、交代だよ?』