2 転生しました
「アリス、起きて」
「んー……」
聞き覚えのある声がする。薄らと目を開けると、赤い瞳と目が合った。
「早く帰らないと、日が暮れちゃうわ」
見渡すと、夕日が広場を赤く染めていた。座って寝ていたせいだろうか、身体が少し痛い。よいしょ、と立ち上がり、当然のように差し出されている手を握る。
彼女に手を引かれて走りながら、私は朦朧とする頭で考えた。
……あれ? 私、なんで走っても平気なんだろう?
身体が弱いから、少し走るだけで苦しくなってしまうのに。
……え? 私が、身体が弱い? そんなことあるわけ――
「あっ」
思考に気を取られていたら、右足が何かにつまずいた。地面が目前に迫る。痛みを覚悟して目を瞑ったその瞬間、頭の片隅に少女のような少し高めの声が響いた。
『……様………………いって……ませ』
誰の声だろう、と思った直後、脳内を映像が駆け巡った。
透明の管のようなものに繋がれた腕
遠くに見える元気な子供たちの姿
何度も「ごめんね」という女性
……なにこれ。一体何なの。
再び、先程の声が響く。
『黒崎 玲様』
クロサキ……レイ……
「アリス!!!!」
聞き覚えのある声がする。薄らと目を開けると、潤んだ赤い瞳と目が合った。
――ああ、思い出した。今までの事、全部。
前世の名前は黒崎 玲。
私は一度死んで、この世界に転生したんだ。
=====
――神様が言った通り、本当に異世界に転生してたんだ。
まさか、転んだ拍子に記憶が戻るなんて思ってもいなかった。金色の髪と青い瞳、アリス・クレールという名前、そして地球ではない世界。その全てが前世と違う。
「アリス、気分はどう?」
アンナの赤い瞳が私を見つめる。
「ありがとう、もう平気」
「良かった。打ち所が悪かったのかと思って心配したわ」
アンナがほっとしたように目を細めた。記憶が戻った後、疲労感により体に力が入らず困っていたところ、近くにいたエリックが私を背負って家まで送ってくれたのだ。そして出迎えてくれたナタリアにベッドへと運んでもらい、少し休んでいたところである。アンナがエリックを呼んできてくれて、本当に助かった。
「膝の怪我、後でおばさまに診てもらってね」
「うん」
心配してくれるアンナに感謝すると同時に、前世では友達と呼べる人もほとんど居なかったんだよなぁ……と、過去の自分を少し憐れんでしまう。
「それじゃあ、アリス。また明日ね」
「うん、また明日!」
部屋のドアが閉まり、静寂が訪れた。前世の記憶が戻っただけなのに、見慣れた部屋がいつもと違うように感じる。周囲を見渡していると、扉をノックする音が聞こえた。
「お嬢様」
「どうぞ」
失礼します、という声とともに扉が開かれると、黒い髪を綺麗にシニヨンにまとめ、足首まである黒のワンピースと白いエプロンを身に纏ったメイドが立っていた。
「ナタリア、どうしたの?」
「そろそろ奥様が戻られますよ」
「もうそんな時間!?」
慌ててベッドから飛び起きる。お母様が返ってくる前に準備を済ませなければならないのだ。こんな時間まで付き添っていてくれたアンナに、心の中で感謝した。
――明日はお礼にこれを渡そうっと。
準備が整った頃、外からガラガラと車輪の音が聞こえた。
――馬車だ。乗っているのは、きっと……
毎度の事なので、おそらく間違いないだろう。荷物を手に取り部屋を飛び出すと、階段を駆け下りて広間へと向かう。
玄関扉が視界に入った瞬間、ガチャッと音を立てて開いたそこには、私と同じ髪色の女性が立っていた。思わず駆け寄り抱き着く。細い指が頭を撫でたのを感じた。
「お母様、おかえりなさい!」
「アリス、ただいま」
「あのね、今日はね!」
顔を上げると菫色の瞳と目が合った。優しく細められた目に自分が写っていることが、なんだかとても嬉しい。
「落ち着いて。ナタリアに怪我をしたと聞いたわ。大丈夫なの?」
「転んだだけよ、大丈夫!」
ナタリアにもそう伝えていたのだが、それにしてはあまりにもぐったりしていたから心配してくれたのだろう。いち早く魔術通信機で伝えていたようだ。私が笑顔で答えると、お母様は安心したように微笑み返してくれた。
「どこを怪我したの?」
「膝を、少し」
お母様から離れてスカートの裾を少し捲ると、擦り傷のある右膝が露わになった。お母様はそれを見て「あらあら」と言うと、私の手を取って居間へと向かった。
私をソファに座らせると、目の前にしゃがみ、傷口に手をかざした。金色の粒子が傷口を覆う。あっという間に傷が治っていった。
ここは、魔術が存在する世界。お母様が使ったのは治癒魔術と呼ばれているものだ。
さすがお母様、と感嘆のため息を吐く。お母様の魔術は何度見ても見惚れてしまう。金色の粒子がとても綺麗だ。
……んん? この粒子、前世でも見たことあるような。
「アリスも、この程度の傷は治せるようにならなきゃね」
「……はぁい」
まだ初級の治癒魔術すら使えないことを咎められた気分になり、少し落ちこむ。治癒術師――地球でいうところの医師であるお母様は、娘が治癒魔術を使えないことを内心情けないと思っているのかもしれない。目を瞑り、嫌な思考を打ち消すように頭を振ると、お母様の優しい声が耳に入った。
「それじゃあ、今日の報告を聞きましょうか」
「はい!」
この国では、最短で満10歳から学校に通うことができる。日本のように義務教育ではなく、ある程度お金に余裕のある家庭しか通うことができないため、働いてお金を貯めてから入学する者も稀に居るらしい。ここで3年間の学校生活を送った後、富裕層の子や優秀生なんかが2年間高等学校に通う。その更に上には大学校もあるのだが、一般人にはあまり関係のない話だ。
教育学校は大きく3つに分類される。基本的なことを一通り学ぶ『総合学校』、それに加えてより高いレベルのものを学ぶ『武術学校』と『魔術学校』である。
総合学校は希望すれば誰でも通うことができるが、武術・魔術学校には入学試験がある。合格するためには相応の技術を身につけなければならない。それをどこで学ぶのかというと、武術道場や魔術塾に通うか、親や知人に教えてもらうというのが一般的だ。
私は先日9歳の誕生日を迎えたため、来年から教育学校に通うことができる。お母様に憧れている私は、もちろん魔術学校を受験するつもりだ。
私の住む片田舎には魔術塾などない。そのため私はお母様に教えてもらっている。つまり、私は優秀な治癒術師の娘であり、弟子なのだ!合格を勝ち取らないわけにはいかない。そんなわけで、与えられる課題を日々こなし精進している。その課題についての『報告』も、大切な日課だ。
報告を終えると、お母様がにっこり笑った。
「合格よ」
そして明日の課題をくれる。忙しいお母様と顔を合わせて報告できる日は決して多くない。この時間を、私はとても楽しみにしている。
長いようで短い一日が終わる。私はベッドに入り、前世のことを思い出していた。
「皆、元気かなぁ」
ポツリと呟いた声が、静寂の中に消えた。思い出すのは最後の母の姿。悲痛な声で泣き叫ぶ、小さな背中。
『生きていれば、まだどこかで会える』
これは一体、誰の言葉だったか。生きている世界が違えばその可能性はゼロだ。私は強く目を瞑った。こんなこと、考えたって仕方ないことだと分かっている。
前世になくて現世にあるものだって、沢山あるのだ。魔術、友達、そして……思い出すと、自然と頬が緩んだ。
――あぁ、私……夢にまで見た健康体なんだ。
そう、私は健康体。神様が与えてくれた、健康体。どんなに動いても、どんなに走っても平気。前世を忘れていたからこれが普通だと思ってた。でも今は、それが嬉しくて嬉しくてたまらない。健康な身体で自由に動き回れる。それだけで、この世界に転生して良かったと思えた。
「神様、シュリエル、ありがとう!」
『お呼びでしょうか、玲様』
……え?
少女のような、少し高めの声が響く。この部屋には私以外誰も居ない。
声の出処を探すように視線を彷徨わせると、私の2メートル先に金色の粒子が……って、これ、デジャヴ?
『お久しぶりです』
「し、し、シュリエルぅぅ!?」
目の前には、いつぞやの天使見習いが立っていた。
『玲様! 私、お呼びいただけるのを今か今かと待ちわびていたのですよ! それなのに、玲様ったらちっとも記憶が戻る気配がなくて……ふぅ、安心しました』
嬉しそうに私の名を呼んだかと思えば、いじけたように口を尖らせ、最後に大袈裟なため息を吐いた。くるくると表情を変えるその少女は、表情が乏しかった以前の彼女とはまるで別人のように感じた。しかし、その姿は紛れもなくシュリエルだ。私が転生して少なくとも9年は経過しているはずなのだが、彼女は記憶に残っている姿と全く変わっていないように見える。
以前は幼い少女だと思ったけれど、今は私が彼女と同じ年頃の姿なのだから、変な感じだ。
「あなた、いつからここに居たの? どこから入ってきたの!?」
『たった今です。玲様に呼ばれた気がしましたので。入ってきたのではなく、現れたという方が正しいですね。まぁ、思念体のようなものです。玲様以外には見えませんし、声も聞こえません』
「あ、そう……」
……天使見習い、何でもアリだな。
彼女は今までの事を話してくれた。
私は久しぶりの記憶持ち転生者ということで、以前の過ちをふまえて監視役を置くことが決定したらしい。そこで、様々な条件に合致したことや転生時の担当者であることが加味され、シュリエルが選ばれた。
天使見習いの中でも人気のこの世界(観察用)。例に漏れず、シュリエルもこの世界を気に入っていた。そのため、監視役として働くのを心待ちにしていたらしい。しかし記憶が戻るはずの5歳になっても音沙汰なし。6歳なっても、7歳になっても……どうしたものかと焦っていたところ、ようやく私の記憶が戻ったのだという。
……前は観察してること隠そうとしてたのに、今日はすっごくオープンなんだね。
『玲様が10歳の誕生日を迎えるまでが、タイムリミットだったのです』
「タイムリミット?」
『ええ。10歳を過ぎると前世の記憶が戻ることはありません。その際は通常の転生者として生きることになります。その場合は監視役は必要ありませんので、私も仕事を失うところだったのです』
「えぇぇ……危なかった……」
「本当、ぎりぎりですよ」とぷりぷりしているシュリエルを横目に、ホッと胸を撫でおろす。あんなに頑張って記憶を引き継げるよう頼み込んだのに、無駄になるところだった。
『すぐにでもそちらに行きたいところですが、私にも準備がありますので。今は取り急ぎこのような形でお話ししているのです』
以前のしっかりした顔つきはどこへやら。嬉しそうにニコニコしている様は、年相応の姿に見えた。
……ん? こっちに来る? 準備?
「こっちに来るの?」
『はい。玲様の記憶が戻り次第、私も人間としてそちらで生活することになっています』
「人間として?」
『明日にはそちらに行けると思います。ふふっ、楽しみです。それではお休みなさいませ』
言葉が途切れると同時に、シュリエルは金色の粒子を残して消えた。
「……どゆこと?」