妹と猫
千羽から服や下着を受け取り、成り行きで簡単なメイクの方法を教えてもらっていると、こっそり扉の隙間から部屋の様子を覗き込んでいたミシェルさんがドン引きした顔で「……何のプレイなの?」と呟いていた。俺にも分からん。
袖をグイグイ引っ張りながら、一緒に朝ごはんを食べようと誘ってくる千羽に断りを入れて、俺は幼馴染宅を出ることにした。
そろそろランニングに行った火音が帰ってくる時間だ。朝食を作らないと。
「ただいまー」
家に帰るも、火音はまだランニングから帰ってきていなかった。
「アイツ、どこまで走りに行ってんだ?」
現在の時刻は9時。かれこれ3時間近くランニングに行っていることになる。
火音は異世界に行く前から、朝のランニングを日課としていたが、
その時でもランニングの時間は長くて2時間ほどだったはずだ。
もしかすると4年も異世界で過ごしたせいか、こっちの地理を忘れて迷っているのかもしれない。
「もうちょっとしたら、探しに行くか」
そのまま台所で少し遅めの朝食を準備する。
適当に野菜を千切って、サラダを作っていると、庭から猫の鳴き声が聞こえた。
庭に出ると、美しい灰色の毛並みを持った猫が物干し竿をカリカリ掻いていた。
「お、シズカさん。いつ帰ったんだ?」
「にゃーん」
物干し竿に干された鎧を「何やこれ?」といった様子で興味津々に眺める猫――シズカさんを抱え上げる。
シズカさんはいつの間にかウチに住み着いた野良猫だ。
ある日ふらりとウチの庭にやってきたシズカさんを母親が気に入り、訪ねてきた時に餌をあげている。
猫特有の気紛れさで、1か月ウチに滞在したと思ったら、半年近く姿を見せなくなったり。もう来ないのかなぁなんて思ってたら、久しぶりに顔を見せたり。神出鬼没な猫だ。野良猫にしては警戒心が無く、俺や火音にもよく懐いてくれている。俺が小学生に入ったころからの付き合いだから、10年くらいの付き合いになる。10歳……人間でいったら60歳くらいだから、結構なお婆ちゃんだ。
「にゃー」
「あ、これ? 何か火音がさぁ、異世界に行って帰って来た時に来てたヤツ。シズカさん、異世界って分かる?」
「にゃーにゃー」
「お、分かんの? 流石だなシズカさん。俺の3倍は生きてるだけあるな」
「フシャッ」
怒ったみたいに鼻を鳴らすシズカさん。
もちろん俺は猫語なんて理解していないので、にゃーにゃー言ってるシズカさんと適当に喋ってるだけだ。
これが結構楽しい。軽くストレス解消になる。
ただ前にシズカさんと話している姿を幼馴染に目撃されて生温い毒舌を食らってからは、周囲に人がいない時だけお喋りをしている。
「そうだそうだ。この間、火音に鯖の缶詰買ってくるようにお願いしたら、間違って猫缶買って来たんだよ。結構高いヤツ。食べる?」
「にゃー」
『ま、貰えるのなら貰っとくわ』とツンとした表情で鳴くシズカさん。
「おっけー」
俺の手からピョンと抜け出し、そのまま縁側に陣取るシズカさん。ここはいい感じに日が当たってお気に入りの場所らしい。火音もお気に入りらしく、よく場所の取り合いをしている。毎回結構いい勝負だったりする。猫と同じレベルで争い合う妹ってどうなんだろう。
台所に戻り、棚から火音が前に間違って買ってきた猫缶を取り出す。シズカさん用の容器に移し替えていると、
「ただいまー! お腹空いたー!」
という声が玄関から聞こえた。火音も帰って来たらしい。
ついでに火音の食事も用意する。
「あ、シズちゃんだー! 久しぶり! 4年ぶりだよね? わー、なっつかしー!」
どうやら火音もシズカさんと遭遇したらしい。
庭から声が聞こえる。
「元気だった? 髪切った?」
何だその質問?
「あ、あれ? どうしたのシズちゃん? 私だよ? ほら、親友の……火音だよ? ね、握手握手」
「シャーッ!」
「ひー!? 何で怒るの!?」
どうもかなりバッドコミニケーションらしい。
庭から火音とシズカさんの喧しいやり取りが聞こえる。
まあ、シズカさん的に『誰やねんお前』って感じだろう。今の火音、ほとんど別人だからな。猫には面影とか分からんだろうし。そりゃ警戒もするわ。
「な、何で何で!? ほ、ほらほら! いつもの! モノマネやるから! はい、木の上で寝てたらうっかり落っこちてギリギリで着地してドヤ顔するシズカさんのマネ――ほら私だ!」
「フシャッー!!」
「えぇー!? わ、私の得意モノマネでも信用してくれないの……?」
「シッ! フシッ!」
「で、出て行けって、ここ私の家なのに……」
静香さんなりに不審者を追い払ってくれているのだろう。番犬ならぬ番猫か……。
流石に火音が可哀そうになってきたので、シズカさん用の餌を持って庭に向かう。
俺の気配を感じ取ったシズカさんが駆け寄って来て、そのまま俺の背後に隠れた。
「遅かったな火音。あとお前、自分の体のこと忘れたのか? そんだけデカくなったら、シズカさんも分からんわ」
「うぅ、でもぉ……親友だったら分かって欲しいよぉ」
「まあ落ち着け」
恐らく悲しみの涙を流している火音を慰める為に、庭に出た。
「ただいまぁ……」
ジャージを血塗れにした火音が居た。
俺が貸した青いジャージを真っ赤に染め上げた火音がそこにいたのだ。
「……なんなのお前? 1日1回血塗れにならないとダメな縛りでもあんの?」
思わずドン引きの声をあげてしまう。
そりゃ、シズカさんだってこんな血塗れのヤツが親しげに話しかけてきたら警戒もするわ。
逆にこの恰好でよく平然と話しかけたな。
「あ、これ? だいじょぶだよー。私の血じゃないから」
「いや、全然安心できないから。まだお前の血だったほうが幾分かマシだから」
ああ……聞きたくない。どこの誰の血かどうかなんて知りたくない。
『ん? きめんど〇しみたいな人がいたから、ちょっと経験値とお金稼ぎの為に狩ってきたー』とか異世界脳全開な事言い出したらどうしよう。刑事責任能力なしと判断されることを願うしかないわ。
「お兄ちゃんが教えてくれたコース良かったよー。敵がいっぱいいて、いい運動になったね」
「敵……とは……」
「ヤンキーの人たち」
ヤンキーって敵だったのか。
そういえば、あの辺結構ガラが悪い生徒多かったっけ。
ただ近づかなければ、絡まれたりもしないはずなんだが。
「何かね、途中でショートカットして路地裏通ったら、カツアゲされてるヤンキーの人とカツアゲしてるヤンキーの人がいて、それをスマホで録画してるヤンキーの人がいてさ。何してるんだろーって見てたら見張りのヤンキーの人に『なんじゃいこら!』って怒鳴られてさ、メンチ切ってきたから怖くて突飛ばしたら、思ってたより簡単に吹き飛んでカツアゲ見学してるヤンキーの人にドーン!って直撃して。ボーリングのピンみたいに弾け飛んだの」
「登場人物ヤンキーばっかやんけ」
いつからここはクローズの世界になったんだ?
「で『何すんじゃこらー!』って向かってきたから、ちょうどいいやって思って……全部倒した」
「全部倒したのか」
平然とした顔で言う火音。嘘を吐いている様子はない。
マジでランニングついてにヤンキー狩りをしていたらしい。
「うん。目に映るヤンキーは全部倒したね」
「え? カツアゲされてたヤンキーも?」
「だね。ついでに倒したよ。なんか『俺もなの?』みたいな目で見てきた」
そりゃ見るわ。
「で、ちょっとそこで待ってたら、増援のヤンキーが来たからそれも全部倒して、途中で復活したヤンキーもいたからそれも倒した」
「リスポーン狩りは止めてやれよ……」
「最後に他のヤンキーよりもちょっとステータス高いヤンキーが出てきたからそれも倒して、もうちょっと待ってたらもっと強いの来ないかなぁって思ってたら、お巡りさんが来たから慌てて帰ってきたの」
「お前の倫理観どうなってんの?」
ヤンキーはボコボコしてオッケーだけど、お巡りさんは怖いって……いや、間違っては無いと思うんだけど。
つーかコイツ、俺のジャージ着てヤンキー狩りしてくれやがったんだよな。学校用のジャージだから、胸の所に俺のフルネームがデカデカと載ってるんですが……。
俺もうあの辺歩けないわ。
ん? ステータスって言ったか? 聞き間違いか?
「あー。いい運動してお腹空いたー。あ、それ私の朝ごはん!? おいしそー!」
「いや、シズカさんのだから」
「そうなの? でも美味しそう……」
キャットフードを見てじゅるりと涎を垂らす火音。コイツ、もしかして自分が食べる為に買ってきたのか?
グーグーお腹を鳴らし、そのままだとシズカさん用のキャットフードを食べてしまいそうだったので、慌てて朝食を用意する。
昨夜作ったハンバーグにミシェルさんから貰った卵を目玉焼きにして乗せる。それをごはんを盛ったドンブリに乗せて、ロコモコ丼の完成。
「ジー……」
朝食を作ってる間、縁側でキャットフードを食べるシズカさんを物欲しそうに見つめる火音。
シズカさんは火音の視線を遮るように、体でキャットフードの入った器を隠しながら食べており、相変わらず『何やねんさっきからこの人間……』みたいな目で火音を睨んでいた。
「ほら朝飯出来たから。あんまシズカさん見てやんなよ。スゲー嫌そうな顔してるぞ」
「あ、ごはんだー! 食べる食べるー!」
「その前にシャワーだけ――」
「食べてからー!」
と言いながらロコモコ丼をかき込む火音。
ヤンキー狩りに結構な体力を使ったのか、結構な勢いで食べるもんだからソースが口元にべったりついていた。
それをいつもみたいに俺が拭い火音がくすぐったそうに礼を言うと、その光景を見ていたシズカさんが『あ、コイツ……もしかして……』と少し警戒心が解けた表情を浮かべていた。
「グーグー……すやすや……」
食後、火音はいつものように日当たりのいい場所でゴロゴロし始めて、そのまま腹を出して眠り始めた。
離れた距離から火音を見ていたシズカさんは、いつもと変わらない火音の行動と動物的勘でようやく目の前の女性が火音だと認識したらしく、完全に警戒心が解けた表情で「にゃー」と鳴き、そのまま火音のお腹の上で居眠りをしだした。
「さて……ジャージも洗濯しないと」
眠っている二匹を背に、俺は朝調べておいた血の落とし方を鎧に続いて実践するのだった。