鉈
薄暗く窓のない廊下を、ただただ歩く。
殺した時の事が脳裏から離れず、壊れたテープの連続再生の様だ。
何回も何回も何回も、あの医者の悲鳴が耳から離れない。
ただひたすら景色の変わらない廊下を歩いている、無理もない。
入り組んだ廊下の曲がり角を何回曲がっただろうか?
迷ってはいけない……気持ちが揺れる。
信じてもいけない……覚悟が揺れる。
もう、来た道も帰る道も分からない。
頬を伝う一筋の水滴は、喉の潤いには至らない。
しかしいつの間に泣いていたのだろう。
それすら分からない、ただ虚無の廊下を歩く。
―――ゴトンゴトン
機械音がする、その音のする部屋へ吸い込まれる様に入っていく。
その部屋は壁一面がガラスで覆われ、下が覗ける作りになっていた。
革張りのソファーが3つに本棚と下に降りる階段。
機械音は下から聞こえる。
俺は下を覗きぞっとした。
皮をはがれた、肉が大きいフックに釣られ何人も何人も流れている。
手足や皮はなく、分かることは哺乳類の肉。
何の肉かは、考えるまでもなかった。
その下には、血にまみれた内臓がベルトコンベヤーで運搬されている。
カーキ色の作業員3名が長い棒で、内臓をベルトコンベヤーの真ん中に行く様につつく。
血まみれのナタが道具置き場らしき所に光っていた。
「ここは地獄か。あいつらは鬼なのか……」
ソファーの上に読みかけの本がある。
梅野屋エンタープライズの戦略、新たな肉の開発で市場トップに踊りでた理由。
そうだった。ここは梅野屋の工場だったな。
つまり豚だと思って食べて来た肉は全て……
その瞬間血の気が引き、嘔吐物を我慢できず地に吐き続けた。
貧乏大学生の味方である梅野屋、下手をすれば食べない日はない。
この世界的食糧不足による値段の高騰が、梅野屋へ行く回数を必然的に増やした。
むしろ日本の外食産業は、梅野屋の肉を降ろさねば成り立たない。
つまり国は国民の主食と認定した肉として、人肉を選んだのだ。
国が認定している以上自分の未来も決まった、逃げるところなど何処にもない。
「はは、馬鹿な……こんな馬鹿な事あるかよ」
俺の頭の中で糸が弾けた、極度の精神的苦痛や殺人の負荷理由は様々だが。
確実に言える事は、ストレスの許容量を超えてしまった。
気が付いたら、俺は笑っていた。
「どーせ死ぬなら、この外道共を道連れにしてやる」
当初は逃げるつもりだった、しかし逃げ場がなくなった。
国を頼るという希望が消えた。
医師を殺した自分が殺され、食べられるのは時間の問題。
一人の人が狂うには十分だった。
恐る恐る階段を下りる。
3人の作業員は呑気に談笑している。
人間の死体を前に談笑しながら、死体をつつく姿に俺は怒りを覚えた。
恐らく俺の大学の仲間もこいつらに殺された。
中腰で隠れながら、道具置き場へ迫り鉈を得る。
「え、誰だ君! ここは関係者以外! お、おい!」
鉈を作業員の帽子の上から振り下ろす。
飛び散る鮮血が目に入るが、心はまったく動かない。
それこそ正義の証だ。
「うわああああああああああああああああ! なんだ! だれかあああああああ!」
「ひろと!! てめー! 何したか分かってるのか!」
頭から、心音と共に鮮血を噴き出す作業員をみた同僚は叫ぶ。
一人は座り込み怯え、一人は怒り猛る。
滑稽だ。自分のした事を棚に上げ、一人前に恐怖し憤怒する。
距離の近い、蹲り怯えた作業員に近づく。
作業員は四足歩行で逃げようとするが、震えて何度も体制を崩し転びながら進む。
「ひぃ! ひぃ! ひぃ!」
「人間を豚と偽り家畜の様に扱ったんだ、豚の様に死ぬべきだろ?」
「やめ、やめてぇ! もうしませんから! もう、しませんからぁ!」
「ナオ! 逃げろ! 今行くぞ!」
リーダー格の作業員が、ベルトコンベヤーに乗った内臓を踏みつけ乗り越えこちらへ走る。
手には槍の様な穂先が小さい鎌となった長物を構えている。
俺は無慈悲に鉈を振る、金属の板は綺麗に腹から臓腑を両断する。
「かひゅ! っはぐうううううううううう!」
「鳴き声も豚だな」
「なおぉぉぉぉ!!」
もう一度鉈を振り降ろし、男の頭部は空を舞う。
その頭部を拾い、ベルトコンベアーの内臓の上に乗せた。
もう向かいには作業員のリーダーが武器を構えている
「お前は、人じゃない。ひろととナオの仇だ、あいつらを殺した事を俺は絶対に許せない」
「こんな事をしておいて、仲間の死には敏感なんだな。反吐が出る、お前も死ね」
作業員の槍が付き出され、俺はそれを避ける。
そのまま鉈を振りかぶって突っ込む。
――ガシュ!
肩から血がどんどん滲む、この血や痛みは。
男の避けたはずの槍が、肩の後ろに食い込んでいる。
先端が鎌になっていた……引き戻して引っかけられたか。
だからどうした?
痛み・苦しみ・悩み・憎み。
そんなものを考える余裕などすでにない。
それを一つでも後悔すれば、決めた覚悟は無に帰す。
右肩の血の滲みはTシャツを染め上げていく。
それでもただ前へ、ただ前へ。
己の信じる正義の為、己の信じる信念が自分を突き動かす。
痛みが記憶を思い出させる、彼女や仲間たち。
作業員の脳天に鉈が撃ち込まれる。
何故忘れていたんだろう、あの天使の笑顔の彼女。
名前は……ゆいだった。そうだゆいだ! あぁ、会いたい。
もう殺されて肉になってしまっただろう。
誰かを殺してでも、自分が悪魔になってももう一度会いたい。
会いたい……
ゆいへの好きな気持ちは、作業員への憎しみへ変わる。
作業員3人の死体を集め、何度も何度も鉈で切った。
骨も内臓も頭も全てを切り細切れにする。
人の好意と人の恨みこれは同じ深さなのかもしれない。
こんな事をしてもゆいは帰らない。
今の俺を見たらなんて言うだろうな……
煙草に火をつける、禁煙と書いてある黄色い看板に唾を吐きかけ。
青白い煙草の煙が、一筋の糸の様に流れる。
吸い終わり一息つくと、煙草を指ではじく。
煙草は作業員の死体の上でしばらく燃え、やがて血に濡れ消えた。
鉈を拾い上げ、隅にある洗面台で水を飲む。
喉が渇いていたのか、顔を洗わずに蛇口に口をつける勢いで水を飲む。
血が混ざり、時折鉄分の味がした。
正義を執行した満足感と、水を得た安心。
睡魔が自分を襲う、内臓の匂いには慣れたゆっくり目を瞑る。