うさぎの眼
授業中、担任の怒りに触れ、そのこどもはこの女教師がまた自分を目の敵にしている、と萎縮し、膝のあたりにまで震えが伝わってくると思考の全てが停止し、担任が次の言葉を発するまでの短い間、その年老いた女教師の怒鳴りの原因を考えていた。
それは大事のようなことでもあり、また些細なことのようでもあった。その時間は国語で漢字の書き取りを行う予定になっていた。
その日彼は漢字の書き取りノートを家へ忘れていたことを授業の開始直前に気づき、まるで犯罪者になった心境で、そんな時自分の罪がしだいに暴かれていく犯人のごとく、その瞬間を待ち望んでもいるかのようでもあった。いっそそのほうが楽になれるからと。
女教師は真っ先に彼の机上にノートがないと分かるとさっそく教壇の一段高い位置から、早くノートを出しなさい、と最初だけ穏やかな口調で語りかける。彼が恐る恐る、震える声で答えると、女教師は待ち構えていたように赫怒する。
いかにも神経質な彼女らしいヒステリックさで教室内は充満し、繰り広げられる女教師の、彼を責めたてる様はある種の狂喜さえ感じているようにも見られた。他の生徒もこの女教師を恐れていた。彼女の授業中はふざける男子もいなかった。
今の時代に逆行する軍隊式まがいの教育方針は、その地域では意外なことに親達に受けがよかった。しかし彼とこの女教師は随分と相性が悪かった。
恐怖で押さえつけるやり方には確かに一部の親からの非難もあったが、彼女の受け持つクラスは試験の出来がよかった。そのため親達も彼女のやり方をある程度妥協し認めないわけにはいかなかった。
教室に一人立たされた彼は、叱咤に夢中の彼女が顔全体を真っ赤にさせているのを、じっとうつむき、机上に置かれた自分の筆箱からのぞく鉛筆の『HB』という文字を見つめ、早くこの恐怖が去ってくれることを願うばかりだった。膝の震えはさらに増していた。
「今すぐ取りに帰れ」
お前がノートを取ってくるまでは授業は始めないからな、そう言われ彼は反射的に教室を飛び出し、下駄箱のある方へと全力で駆けていく。
ひどく惨めな気持ちでいつもの通学路を戻る。こんな時間に家に帰ることなんてそうはないので、すれ違う大人達の視線が辱めをうけているような気持ちにさせる。
家までの距離は“並み”の運動神経の彼でも往復三十分もあれば足りるはずだった。
しかし、今しがた虐げられ弱りきったばかりの神経で、休むことをせずに走りきることは難しく、頭では先を急ぐのだが、反するように体は重くなり、両足の動きは鈍く、遅くなっていった。呼吸の乱れは激しく、一度呼吸のリズムが乱れると整えるまでにまた時間がかかり、その間ペースを落とさなければならなかった。そうしなければ、むせってしまい吐き気に襲われ立ち止まることを余儀なくされるから、ほんのわずかでもいいから前進するのだ、と彼は気丈に走り続けた。
制服のシャツは吸収しきれないほどに水気を含み、額の汗はシャツの袖で拭ってもすぐに垂れてくる。体から発する蒸気のためか視界に靄がかかったようで、何度か躓きそうになった。
玄関の扉を開け、倒れこみたい気持ちを抑え自室へと向かう。母親が隣の部屋からやってきた。母親は一度時計に目をやり、不思議そうに彼に訊ねる。彼は、ただノートを取りにきた、とだけで、書き取りノートを手にするとまた玄関へ向かう。その行動を母親は目で追いながら、電話すればよかったのにと暢気に言う。その言葉に幾らか緊張が緩み、一時的に体の軽くなる感覚に陥り、母親に泣き言を聞いてもらい、冷蔵庫から麦茶でも一杯なんて考えまで浮かんでくる。が、すぐにあの女教師の言葉を思い出す。
そうだった、自分が戻るまでは授業は開始されないのだ。クラスの皆はあの重苦しい空間でぼくのことを恨んでいるに違いない、早く教室へ戻ろう。喉の渇きは唾液を飲み込みやり過ごすことに決め、彼はノート片手に家を出る。
その最中、今まで自分を困らせていたのはこのノートの存在だったのだから、これを持って行けばぼくはなにも怒られることはないのだ。そう考えると彼は幾分強気になれる気がした。あの女教師にこのノートを誇らしげに見せる自分を思い浮かべ、今は教室へ一刻も早く戻り、皆のためにも授業を開始させてあげたい思いでいっぱいだった。
教室に着いた彼を教壇の上から女教師がやっと来たかというように腕組みをし、ひどく息の荒い、疲れきった彼を労いもせず、こっちへ来いと目で訴える。
汗で握っていたところが湿っているノートを彼女の教卓へと差し出す。
「このノートじゃないだろ、ちゃんと初日の授業の時に配ったやつがあっただろ。あれを持ってこい」
新学期が始まって最初の授業で配られたノートを、彼は不注意から無くしていた。今女教師の手に握られているものは母親に頼んで買ってもらったものだった。なんだか母親まで悪く言われたような気分になってくる。自分のせいで母親までが侮辱された思いに、彼はどのノートでも同じではないか、と余計な反論をしてしまう。そういう問題じゃないんだよ、あのノートはどうしたんだよ、としつこく女教師は問い詰めてくる。たまらず無くしたことを話す。
「もういいからお前はそこで立ってろ」
母親の買ってくれた漢字の書き取りノートを片手に、彼は女教師の隣に他の生徒と向かい合う形で立ち、悔しさからくる感情を必死に我慢するが、流れ出る涙は止めることはできず、それでも授業を再開した女教師は、最後まで彼を席に戻すことはしなかった。
授業は十分足らずで終わり、女教師が教室を出て行くと、彼は自分の席で両腕に顔を埋め押し殺した泣き方をする。周りの生徒が、彼を慰めようと様々な優しい言葉をかけてくれ、皆あの女教師を口々に悪く言ってくれる。周りの優しさにふれ、彼は益々声を上げ泣き出した。女子の慰めが特に彼の涙腺を刺激して、男の子のかよわいプライドが晒し者になっているようだった。
彼は今年五年生になっていた。彼の学校は二年毎に担任が代わるシステムで、彼は二年間あの女教師と過ごさなければならならい毎日を思い、毎朝のように腹痛に耐えながら通学する日々を送っていた。そのことがあって、以後忘れ物の類はメモを取るようにし、時々へまをやる時もあったが、それでも確実に回数は減っていった。
昼休憩が終わり彼は他の生徒とうさぎ小屋の清掃に向かう。女教師が勝手に割り振った係りだった。おとなしいぼくにはうさぎがお似合いということだろうかと穿った見解さえしてしまう。隣の鶏小屋と金網でつながったうさぎ小屋の中は臭かった。うさぎの糞をころがすようにして一箇所へ集める作業は嫌いではなかった。雌の一匹が孕んでいたから、もっと増えそうだと楽しみにしていた。うさぎのあかちゃんをみたことのない彼はどうかして出産の瞬間に立ち会えないかと、昼休憩の清掃と放課後うさぎ小屋を覗いてはまだかとぼやいては帰宅することが日課のようになっていた。同じ係りになった二人の生徒とも、うさぎの話をよくしていて、それでなかよくなった。
七羽いるうさぎの生活ぶりを眺めているのは飽きることがなく、糞や食べ残した草の処理だって甲斐甲斐しく行い、このうさぎ達は自分が守っているのだ、と彼は責任感さえ芽生えさせていた。
二人とはうさぎを中心とした関係ではあったが、昼休みや放課後うさぎを眺めながら雑談をすることも多くなっていた。
次の日から二日間連休に入るため、その日の掃除は普段にも増して丁寧に行った。休みの間は女教師が餌をやることになっている。
しかし、彼は不安でしかたがない。うさぎの世話は自分達にしか出来ないと考えていたからだ。念のため普段より余分に餌を与え、いつも通りに鍵を掛け帰ろうとしたら、一人が、あっと小さく呟いた。
木造の扉に簡単に取り付けられた南京錠を掛ける蝶番の部分が無くなっていたのだ。彼の学校は都心部を離れた田舎にあったので、敷地は広く、運動場などにも簡単に入り込めるし、うさぎ小屋のある場所は特に外部からの侵入は容易で、破れたフェンスの隙間から野犬が出入りしているのを、彼も何度か見たことがあった。
さっそく三人で担任へ報告に向かう。すぐに事情を察した担任は、用務員のところに行きブロックを幾つか貰いそれで扉を塞げと命令した。すぐさま用務員のおじさんに頼みブロックを一人一つ持ってうさぎ小屋へ戻り、担任に言われた通りに扉を塞いでみる。まだ甘いような気がしたので、さらに三つブロックを追加する。三人で確かめる。うん、扉が開くことは無い。犬がどうがんばってもこれでは無理だよ。三人は別れ際に明日から休みではあったが、次の朝念のため確認しに来ようと約束してその日は別れた。
二人と別れた後もうさぎのことが気がかりで、家に帰ってからも明日のことが心配でその夜はなかなか寝付けなかった。
平日ならともかく休日と分かっていれば、いつものように母親もしつこく起こしてはくれず、彼は前日の寝不足から待ち合わせの時間ぎりぎりに目が覚め、母親の用意した朝食もそのままに学校へと走っていった。
ノートを取りに帰った時よりも足はよく動いた。あの時と違った不安が彼の内にはあった。もっと早くと自らを急き立て、一本道になった、校門へと続く坂道で二人と合流し、そのまま走りながら、互いの不安を消すように、大丈夫だよね、と訊ねては頷きあった。
校舎の裏手にある飼育小屋は日当たりが悪く、特にこんな朝方は、静けさを孕んだ寒気さえ起こさせる。嫌な予感は以前消せない。
飼育小屋から、鶏の激しく翼を羽ばたかせ鳴く声がしていた。鶏小屋を横から覗くと、狂ったように走り回る鶏の傍らに、ぴくりともせず横たわる数羽の鶏の屍骸が見えた。
彼はなぜかそれがもう死んでいるものだと直感できた。と同時にもうひとつ直感する。
先にうさぎ小屋へ駆けて行った二人が彼の名を呼ぶ。その声は動揺の隠せない脅えのあるものだった。彼は鶏小屋の裏手からうさぎ小屋へ向かった。
犬がいた。小屋の日陰になった所で、灰色の薄汚れた中型犬と目が合った。その瞬間、犬は銜えていたものを捨て校舎の方へと逃げて行く。走り去る犬よりも彼の意識は、犬が落としていった物体にあった。恐る恐る近づき、血の気の引く思いから後ずさり、うっ、と声を漏らしてしまった。
白いうさぎが、弛みきった筋肉の胴体だけを残しそこにあった。彼はその場に打ち付けられたように動けない。二人が彼の名をまた叫んだ。彼は逃げた野犬の眼の色が黒かったことを思い出していた。突然彼は二人のいる方へと走り出す。腸内を刺すような痛みが彼を襲う。
二人は、うさぎ小屋の中にいて、崩れたブロックの壁は二人がやったのではないという。
ここへ着いた時すでに、うさぎ小屋の扉は半分だけ開かれていて、ブロックで築いた壁は脇へ寄せてあった、と一人が怒鳴った。
「誰かがやったんだ」
全滅したうさぎ達は肉を喰いちぎられ、その部分からは、野犬に弄ばれたうさぎ達の絶命の瞬間の恐怖が伝わってくるようで、彼はこの場から逃げ出したくてしかたなかった。
休日の職員室では担任と、他のクラスの先生が、二人で笑い合っていた。和やかな空気をぶち壊す三人の言葉で、体育大出身の男性教師がすぐに駆け出して行った。二人も後に続き職員室を出て行く。
職員室で担任の女教師と二人きりになった彼は勢いで彼女に自身の見解を述べた。担任はそれを聞き終わるまで全く顔色を変えず、片手に持っていたコーヒーのカップを置き、こう言ってのけた。自分がやったのだと。
「うさぎはね、ねずみと同じでどんどん産むのよ。だから間引きしてあげないと、うさぎ小屋だって狭いんだからね。いいのよ、あれで」
肩が凝っているのか、老体の干からびた指先で首の付け根をゆっくりと押し担任は、あなたも早く行きなさいよ、と彼にこの場に留まることを許さなかった。もう、うさぎには全く関心が無いように、朝日の昇りきった晴天を窓越しに見上げ、彼女は首の骨を数回ならした。
休日明けはうさぎ小屋のことで話題は持ちきりだった。扉が開いていたのはうさぎ小屋だけだったが、数羽の鶏はショック死だったことを、あの日男性教師に教えられた。動物の中にはそういう行動に出るものもいるのだと、大抵は弱い生き物がそうするらしい。
クラスの連中は三人にしつこいくらいその話題を、その詳細を訊ねてきた。他の二人はあの残忍な野犬の仕業を、驚きと怒り、はてはその後の、自分たちの悲しみまでも、身振り手振りで説明していたが、彼は担任の不可解な行動と言葉で頭の中が一杯だった。彼はそのことを担任に口止めされたわけではなかった。でもそのことを誰にも言えずにいた。女教師は彼の気弱な性格を計算に入れた上で、彼にだけそれを話したのか、悪びれるわけでもなく普段と変わらない調子で、彼と他の生徒達を怒鳴りつけていた。
今日は、連休前に与えられた課題をやってこなかったという理由で、一人の生徒が立たされていた。嗚咽を洩らし、見せしめにされている男の子の腫れ上がった瞼は、うさぎの眼を思い起こさせる。鶏とうさぎの精気を失った眼が、野犬の生き生きとした黒い眼とは対照的に彼の記憶に残っていた。
口を滑らし課題を家に忘れてきたと答えた、彼ではない男の子が、担任の掛け声と同時に、あの時の彼と同様、青ざめた顔で教室から走り出して行った。




