002 血まみれの村人
ガン、と大きな衝撃を受けて目が覚めると、まず目に入ってきたのは天高く昇るお日様だった。
辺りを見回してみると、そこは村だった。そして最初に目に飛び込んできたのは、知らない天井の欠けた瓦。
頭から垂れ流れる血が、視界を赤く染める。そこら中から聞こえてくる、日本語ではない筈の言葉。だというのに、未来には何を言っているか理解できた。
足元には割れた瓦が転がっている。糞と獣の臭い、牧場が近いのだろうか。
真っ赤な髪に血を滴らせながら、未来は起き上がる。
「おい、大丈夫か……?」
「少し頭が痛いだけ、問題ない」
簡単な作りの布の服を着た、西洋人にも見える中年の男が心配の声をかけてきたが、それをやんわりと断る。治療と称してなにをされるか、仮に治療されたとしても見返りに何を要求されるかわかったものではない。
今の状況がわかっていない現在、下手に動くべきではない。ふらふらとした足取りで、地面に血の斑点を付けながら未来は歩きながら考える。スカートの下がいやにスースーする。
確かに未来は、あのマンションから落ちた筈だ。十八階の高層マンションの屋上、いつものようにやりたい事に線を引いていき、全てをやり終えてから落ちた筈。だというのに、今は無事に、とは少し言い難いが生きている。
確実に死ぬ高さから飛び降りて、目が覚めたら頭が割れるように痛くて、しかも田舎に移動していた。昼の青空には薄ぼんやりと月が浮かんでいる。
まるで狐につつまれたような気分だ。確かに未来は、自分はあの時死んだはず。
未来を奇妙なものを見るような目で見つめる村人たちの服装も、また奇妙だった。教科書にでも乗ってそうなくらい古臭い白い布の服に、茶色い長ズボン。未来自身が履いているのは長い茶色のスカート。こんな服、着た事もない。
ふと未来は、左腕の袖をめくる。浅い布がこすれて少しかゆい。そこにリストカットの痕も、煙草の痕も無い。
「ちょっと、そこのあんた」
次に奇妙なのは、どこの家の窓もガラスが張っていない事だ。
いくら田舎でも、普通窓といえばガラスがある。だというのにどこの家の窓も木製の塞ぐタイプのものばかり。寝るときはそれを閉めるのだろう。
以上の事から、少なくとも技術は未来の生きていた世界より下だと判明した。となれば、この世界は過去の外国か、それとも……。
「ちょっと待ちなさいよ!」
あり得ない考えだが、最悪なものというのは総じてあり得ないと自分が決めつけたものだ。故に色眼鏡で物事を見るのは辞めよう、と未来は心に決めた。
しばらく歩いてようやく、窓ガラスを見つけた。
見つけたが、そのガラスはかなり曇っており、中の様子も外の様子もうかがい知る事は不可能。となれば、今の姿を見るには水に反射する自分を見るしかないという事になる。
「ちょっと!!」
ガシッ、と肩を掴まれた。面倒故に先ほどから無視していた声、振り返って見ると、真っ赤な髪を三つ編みにして後ろへと流した、そばかすのある少女が未来の肩を掴んでいた。身長は未来より少し下、村人と同じような服を着ている。しかし色は赤く、スカートは短い茶色。緑色の瞳は活発そうに輝ている。
未来が振り向いた際、自身の事で唯一気付いたのは、未来自身の髪は長く、赤かったという事だけだ。
「あんたひどい怪我してるじゃない! こんな状態でどこ行こうって言うの!?」
凄い剣幕でまくしたててくる少女。顔に傷が少し目立つ、と未来は自分の状態を棚に置きそんな印象を抱いた。
「誰?」
「誰って、もしかして、あたしを忘れたの? ……まあいいわ、今はそれどころじゃないし。行くわよ」
グイッ、と未来の右腕を引っ張る少女。少なくとも未来の知り合いには、赤い髪の友人はいなかった。それを言えば未来自身の髪も赤く染まっている。長さ事態は同じくらいなのでそれほど違和感は無かったが。
「必要ない。それに、貴女が私を治療してもメリットが何もない」
「メリットならあるわよ。村人を救える、それにあたしの目に悪い。これ以上の意味なんてないわ」
ぐいぐい引っ張られながら尋ねると、ぐいぐい引っ張りながら答えが返ってくる。しかし少女の力は弱く、未来の体が少し動くかどうかという程度。
強引な娘だが、それを無視する事もできない。羽虫のようにウザいとかそういうのではなく、かといって善意を受け取りたいという訳でも無い。言葉にしがたいが、なんとなく面倒なのだ。
引っ張られながら曇ガラスのある家へと、未来は連れ込まれた。
毛皮のマットを踏み、血の斑点を乾木に垂らしながら、未来は少女に引っ張られるがまま歩く。
そして少女にされるがまま椅子に座らされ、頭に液体をかけられた。
青臭さに少し顔をしかめ、次にやってきた刺激的な痛みに「うぐっ」と声を洩らす。
背伸びしながら少女はクスッと、可愛らしい笑い声を出す。
「あの痛さは大丈夫で、これは苦手なんだ」
「あれとこれとはまた別」
クスクス笑う少女は慣れた手つきで未来の頭に、包帯を巻いていく。
そして針でそれを留め、ポンと未来の肩を叩いた。
「はい終わり、お疲れ様」
「ああ、疲れた」
治療を終え、軽快な足取りで未来の前に立つ少女。少女はじーっと未来の瞳を見つめる。
「ねえ、本当に覚えてないの?」
「何も。私の名前もわからない」
勿論嘘だが、半分は本当の事だ。
未来の予想が正しければ、ここが異世界かどうかはともかくとして誰かに乗り移ったのは確か。そして日本語ではないが何故か理解できる言葉に聞き覚えは無い。少なくとも、知らない場所に偶然、誰かに憑依したのだろう。
故に未来は言葉以外の何も知らない。何がこの世界での常識で、何が非常識なのか。村長の娘と会えたのは幸先が良い。年齢や雰囲気からして、変な要求もしてこないだろう。
少女は呆れたように溜息を吐き、腰に手を当てた。手に付いていた血が、スカートに赤い染みを作る。
「いい? 貴女の名前はコカル。そしてあたしは村長の娘、キャロガット=クラリオン。この村がどこかは?」
未来改めコカルは、少女改めキャロガットの言葉に首を振った。
コカル、キャロガット、どちらも知らない名だ。しかしコカルが自分の名だというのなら、未来は受け入れるしかない。
「ここはクラム村。人口二十人程度の小さい、街から四番目に近い村よ」
「街?」
「そう、街。二千万人以上暮らすのが国で、千人暮らすのが街、百人未満が暮らすのが村。だいたいこんな感じ……かな?」
かな? と訊ねられても、コカルにはそういう認識で正しいのかどうかさえわからない。可愛らしく首を傾げたキャロガットの3つ編みが、小さく揺れた。
「……お金の価値は」
「数える事ができるのは街か国の人間だけ、村の人間は商人と物々交換で暮らしているわね。だからお金はちょっとわからないわ、ごめんなさい」
「文字は」
「……知らない事は知らないわ、知っている事だけ答えるから」
随分と不便な世界のようだ。コカルは思わず、頭を抱えようとしたが、ぴりっと傷んだので慌ててそれをやめる。キャロガットはそんな一連の動作を見て、笑みを溢した。
文字がわからないというのは大問題だが、考えようによっては、それはメリットになる。英語すら読めない未来がカロルとして暮らすとして、文字が読めないというのが決して恥ずかしくない事になるのだから。
当然デメリットも多いが、ポジティブに考えねばやっていけない。
「そうだ、今日はあたしの家に泊まっていきなさいよ。包帯も変えなきゃいけないし」
「まだ日は沈んでない」
「包帯はこまめに取り換えなきゃいけないの。コカルの家、何もないでしょ……って、それも知らないのか」
やれやれ、と首を振るキャロガット。コカルは取りあえず、今日はそのご厚意に甘える事にした。