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――確か、ここは松の木があったんだよな……。
コンクリートで舗装されてしまった道を見下ろしながら、少年はふとそんなことを考えた。
久遠優霽はどこにでもいる普通の少年だ。
――――ある特殊な体質を除けば。
その体質を持つが故に、本人が予想もしない問題に直面することもある。
その殆どは、放っておけないことではないのだが、彼は、そういうことを見過ごせない性格だった。
そして今、まさにその問題と直面していた。
「なんじゃ、なんじゃ、せっかくワシが願いを叶えてやろうというのに」
皺枯れた声が、足下から聞こえる。
優霽は隣にいる少女に確かめるように訊ねた。
「あれは……間違いなくそうだよな」
どこか古風な空気を身に纏った着物の少女は頷き、困ったような微笑を顔に浮かべた。
「うん。力は弱いみたいだし、悪しきものは全く感じないけどね」
「そっか、まあ、放っておいてもいいんだけどさ……」
今度は微笑ましいものを見るような柔らかい笑顔になった少女は、
「でも、放っておけないんでしょ?」
優霽は肩を落として呟く。
「……まあな」
そして、その皺枯れた声の主に近付き、しゃがみ込む。
「なあ、じいさん……どうしたんだ?」
声の主は驚いたように優霽を見上げた。
「お前、ワシが見えるのか!?」
「……見えてるよ」
少し離れたところを歩く他の人達にとっては、彼が何かを探しているかのようにしか見えなかっただろう。
他の人には、彼の眼の前にいる老人が見えていないのだから。
そう、優霽の特異な体質とは――――――普通の人には見えないものが見える、ということだった。
そして、その優霽にしか見えていないものとは、いま彼の眼の前にいる皺枯れた声の主――とても小さな、全身が掌ほどの大きさしかない老人が正にそうだった。
幽霊、妖怪――一般的にはそう呼ばれるそれを、彼は見ることが出来た。
小さな老人は、長い白髪の口髭に囲まれた口をへの字に曲げ、髭と同じく真っ白な眉の間に皺を寄せる。
「ふん、変な小僧じゃの」
優霽はやれやれ、と言うように肩を竦め、言葉を返した。
「変なのはそっちの方だよ」
その言葉に、小さな老人は激昂する。
「なんじゃとー! ワシは神であるのじゃぞ! それを、それを……」
「はいはい、分かったよ。カミサマ」
「ぬぬぬ、心が籠っておらんぞ!」
「いやいや、たいへん敬っておりますよ、カミサマー」
そう言ってはいるが、優勢の言葉には一片の感情も籠っておらず、あからさまに棒読みの台詞のようだった。
自分のことを神様だと言った小さな老人は、まだ何か言いたげだったが、その言葉を呑み込み、表面上は冷静を装った。
「ま、まあ……いいじゃろう。神は瑣末なことなど気にせんからのう」
「はあ、ありがたいことで。それはそうと……」
優霽の表情が、僅かに引き締まる。
「さっき、何か言ってなかったか? 願いを叶えるどうこう、って」
その言葉を聞いた老人が、どこか誇らしげに胸を張ったのは、その後の言葉からも気の所為ではないだろう。
「そうじゃ、ワシは神だからのう。人の願いを聴き、それを叶えるのが存在理由じゃからの」
「願い……ね」
優霽の表情が僅かに曇る。
それは、若干十六歳の少年には似つかわしくない達観したようなものだった。
「小僧、何か願いはないのか? 邪なものでなければ、なんでも叶えてしんぜよう」
普通の人ならば、叶えて欲しい願いなどいくらでもあるだろう。金持ちになりたい、恋人が欲しい、頭が良くなりたい――――そんな願いが。
しかし、少年は深く溜息を吐くと、
「ないよ。そんなもん」
「なんじゃと! 願いがないというのか! 欲深き人の身でありながら!」
小さな老人は、驚きを全身で露わす様に、その小さな躯体をのけ反らせた。
もちろん、彼にも叶えて欲しい願いは人並みにあった。
だが、この特異な体質を持ち、このような存在と関わることも少なくない少年は解っているのだ、どのような存在であろうと、願いを完全に叶える力などないことが。もし、叶えられる願いがあったとしても、人に出来ないことを人外の存在に叶えてもらうことが、どれだけ意味がないか、ということも。
「ま、そういう訳で俺はいいんだけどさ、願いを叶えて欲しい人なんていくらでもいるんじゃないかな……」
優霽は近くに人がいない事を確認しながら、小声で呟いた。
小さな老人は、困ったように顎髭を撫でつけながら、言葉を並べる。
「しかし、ワシは自分ではどうすることもできないのじゃ」
「どうしてだ?」
「それはのう、ワシが願いを叶えてやるためには、条件があるからじゃ」
「条件……?」
「それは……」
「それは?」
「願いを叶えてもらいたい者が、ワシに願いを叶えて欲しいと意識せねばならんのじゃ」
優霽は少し間を置いてから、なるほどね、と頷いた。
「だから、俺に願いはないのか、って訊いたわけか。アンタという存在を認識している俺に」
「……そうじゃ」
小さな老人は、腕を組みながら、ばつの悪そうな顔で頷いた。
優勢が逡巡していると、となりにいた少女が「優霽、手伝ってあげたら?」と控えめに提案する。
優霽は少女を見て、再び考え込み――――溜息交じりに頷いた。
「……わかったよ。またここでわーわー騒がれても迷惑だしな」
その言葉を聞いた儚げな少女と、小さな老人は、ぱーっと明るい表情になった。
優霽は苦笑いしながら、心の中で呟く。
――お人好しっていうのかな、こういうの。