knight of monster ナイト・オブ・モンスター
「強くなれ、少年」
雄々しくも見えるその黄金色の長い髪は、後頭部の高い位置で一本に纏められて垂らされている。
手には全てを貫き、全てを守り通す鋭い槍を携えていた。
焼け野原という言葉通りに、その村は全てを焼き尽くされていた。数十軒あった家屋はものの見事に崩壊し、いまだ燻る炎は周囲の大地を焼き焦がしている。そして下敷きになった人間は、焦げた腕を伸ばし、四肢のいずれかが欠損した肉体を黒く染めてそこら中に倒れている。
ただ一人生き残った少年は、少女が見下ろす瓦礫の上に横たわっていた。目立った外傷はないものの、酷く衰弱し、服が焼け焦げているのが心配だった。
殆どの人間が死んだ。
改めてそれを理解すると槍を握る力はこの上なく強くなり、己の不甲斐なさをかみ殺すように吐き出した。
「これからの生活で今日という日を忘れられなかったら強くなれ」
自分に言い聞かせるように。
長いまつげを涙に濡らしながら、そのいまだ薄暗い空を見上げた。
銀の甲冑を纏う彼女。蒼い瞳の少女。その下半身は――馬の肉体で構成されていた。
ケンタウロスと、この世界ではそう呼ばれている種族だった。
「隊長! こっちにもまだ幼い少女が!」
そう叫んだのは、人間の四肢を持つ男だ。彼女と同じ甲冑を着こみ、腰に刀剣を装備する。
少年は放心して見上げていた空から目を離す。全身の、すべての細胞に針が突き刺さるかのような激痛を、自身の生存ゆえだと納得するように覚えながら起き上がる。騎士の少女はただそれを見守り、それから男の方へと向き直った。
「ああわかった、私もそちらに行く!」
「お、おれも……!」
自分の背丈ほどの瓦礫を支えに少年は立ち上がる。膝は笑い、全身が小刻みに震える姿は酷く痛々しいものだったが、その前を見据える瞳には意志があった。
ただ呆然と景色を見るだけではない、さらに先を見る力。この幼さで不条理を受けたのにもかかわらず、全てを捨てず、また新たに拾おうという姿勢。
彼女は自分より一回りも小さい少年の姿に、胸の奥、何か不明瞭な――魂や心というべきモノが熱くなるのを感じた。
この少年はいずれ大きくなる。それこそ様々な意味で。
「ならば背に乗れ。本来は誰も乗せぬのだがな、少年、お前の将来に期待するという意味さ」
涙を堪えていたはずなのに、いつしか表情には微笑みがあった。心には余裕さえある。
この惨状を見て尚、この少年の存在が無意識な励ましとなっていた。
ケンタウロスの少女は少年の手を引き、膝を折って地面に伏せる。目で促すと、少年はただ頷いて、飛び乗るようにその広い背中にまたがった。鎧の佩楯が音を鳴らし、少年の視線は不意に高くなる。彼は思わず彼女の腹に手を回すように抱きつくと、慣れぬその感触に驚きながらも頷き、悠々と歩き出す。
「落ちぬよう、気をつけろ」
心地良い振動、適当な感覚で蹄が音を鳴らす。
伝わってくる人の温度。そして――優しい言葉。
既に限界だった少年の体力が、緊張と共に途切れるには十分な材料だった。
「おれ、強くなるから……」
起きたら少女は居なくなっているだろう。それを理解する少年は、それでも最後にそれを伝えておきたかった。
ありがとうと迷った。とても感謝しているとも迷った。だがやはり、今の思いを伝えるならこれが一番だと、幼い彼が導きだした台詞がソレだった。
その言葉の後に体重がさらに彼女に付加する。それを覚えながら歩く速度を少しだけ緩めて、後ろに首を回して早くも寝息を立てる少年を一瞥した。
「ふふ、約束だぞ?」
それが、少年が気を失う前に聞いた彼女の最後の言葉だった。
いつかの日の事を思い出したのは、その夢をみたのがきっかけだった。
忘れたことなど一度もないあの出来事。強盗団の襲撃ではなく――帝国軍が補給の為に強奪を行ったその結果だ。今では広大な大陸を占有する強国となり得たが、少年がまだ幼かった頃には取るに足らぬどこにでもある一つの国だった。
だからもう逆らえない。その、取るに足らぬ民主主義国家に住んでいるからこそ分かる。どちらにせよ個人が逆らっていいものではないと。
「たく。あの騎士さまにもアレ以降会えないしな……」
あの後は最寄りの町で保護されて、そこの児童保護施設で十二歳まで育った。
今居る国の支援を元に成り立っている街だったからソレに倣って、十二歳までが義務教育の制度があったことが幸いで、そのお陰で文字の読み書きができるようになる。
そして見事自立してからは、泊まり込み出来る鉱山や採石場で発掘作業場で雇ってもらい、身体を鍛えながら過ごしてきた。
今では立派とは言い切れないが、それでも歳の割には立派な肉体を持っていると自負できる。
やがて十八になり、青年と呼べる歳になった彼は、ここに――あの騎士が居る国に戻ってきた。
――王立騎士団は毎春、求人を出す。
募集要項は、簡単に『十八歳以上』で『特殊技能』を持ち『文字の読み書き』が出来て、『心身共に健康』な事。
特殊技能というモノがいまいち分からない彼だが、それでもそれ以外は全て条件を満たしている。恐らくあの騎士があの街に保護を頼んでくれたのは、この青年をあの時点で見ぬいていたからかもしれない。そしてそれまでを過ごすのに不自由ないほどの金額を置いていってくれたのも彼女だ。
命の恩人以上に感謝しなければならない。
ケンタウロスという種がそれまで”カッコいい”というだけの印象が、立派で騎士道精神高く、種族として尊敬すべき存在だというものに変わったのもそのお陰なのだろう。
青年は更衣を終えて洗顔、歯磨きをやっつけ、自分の頭がすっかり覚めてから、大きく伸びをした。
「さて、『サニー』も起こさなくちゃな」
そしてそんな騎士とは別に、それまでの彼を支えてきた存在もあった。
サニーと呼ばれたのは、彼と同い年の少女である。『サニー・ベルガモット』は彼と同じ戦災孤児であり、同様に施設で十二歳までを過ごし、鉱山や採石場では寮母手伝いとして共に過ごしてきた。
そのお陰で家事の腕は、歳の割にはすこぶる良好でレベルが高い。おそらくさらに高等教育へ上っていれば頭ひとつ抜ける程に物覚えがよく、さらにすれ違う多くの人が振り返る程度に容姿が良い。
天は二物以上を与えたいい例が、身近に居るのだ。
そして妹のような存在でもある。
彼女は青年と共に、この数万人が生活する城下町にまでついてきて、少しでも倹約したいからと、彼が契約した共同住宅で寝食を共にしていた。
そして――同様に騎士を目指す友でもあった。
自室を出ればその対面に部屋がある。廊下の突き当たりには居間と台所があり、逆方向には玄関。近くには洗面所、風呂、トイレが位置している。
彼は洗面所を後にして、そのまま『サニーのへや』とプレートが提げられている扉をノックした。
コンコン。
「サニー、朝だぞー」
早い所朝食を用意してもらわなければならない。
もう募集には応募したが、行われる大規模な試験は今日から数日後にあるのだ。恐らく実施試験もあるし、筆記試験もある。これまで用意してきていないワケではないが、出来る限り復習をしておきたかった。先日立ち寄った本屋にあった、『毎日十分勉強するだけで絶対に受かる! 王国騎士入試対策~傾向と対策~』を消化したいこともある。
昼食を外で済ませれば三日分もの値段だったのだから、役立ってもらわねば困るのだが――まず触れ込みからして少し不安だった。
しかし参考にはなるだろう。既にサニーは女房面で金銭面を管理しだし、お小遣い制となっているから厳しかったが、ケチケチはしていられない。
「おーい、サニー?」
コンコン。
返事がない、ただの就寝中のようだ。
ここで先に朝食を用意しておいてもいいが、それをするとサニーが拗ねて三日ほど部屋から出てこなくなる。
この街にきて早一ヶ月が経過した、その初日のことだ。夜あまり眠れなかったのだろう彼女は朝になっても寝ぼけたままで起きなかった。そこで気を利かせてぎこちなくも初めて腕をふるったのだが――目覚めた彼女は、「私の存在意義がなくなっちゃうよ!」と叫んで、青年の部屋に閉じこもったのだ。
その時は晩方に寝癖だらけの彼女が顔を出したが、「つ、次やったら三日口きかないからね!」という予告を出していたのを思い出す。なんでも勢いでやってしまう彼女だから分からない話だが、この時期に下手な事でこじらせたくは無い。
自分のためでもあるし、それが彼女のためでもある。
「サニーってば、起きろよ!」
ドンドン。
部屋を叩くが、やはり反応がない。
まだ肌寒い春先の朝。太陽が上ってから一、二時間くらいしか経過していない時刻だから、まだ放置しておこうか。
少し外を走ってきて、それから起こすのもいいかもしれない。
そうだ。それがいい。
彼は手早く転換すると、自室へと戻っていった。
アレスハイム王国の朝は割合にゆっくりだ。
石畳の往来を走りながらその景色を眺める。
商店はいまだ開かず、通りには朝の散歩や犬と共に散歩へと繰り出す姿がまばらにある程度だ。
大通りは馬が十数匹並んで歩ける程度の広さを持つ。メインストリートというだけあって、商店の種類はこの街随一であった。
そして数多の店に挟まれたその先には、円形に繰り抜かれた広場がある。その中央には噴水があり、昼時ならばこの広場こそがもっとも賑わう。主にファストフードを中心にする出店がどこからともなくやってくるし、待ち合わせ場所にも良く使われる。
「はぁっ、はぁっ……キッツいなぁ。でも、まだまだか」
全力疾走。太ももに全ての力を込めて大地を蹴り、腕を振り前へと跳ぶように走りだす。二、三キロ程度の距離を数分で完走し、彼はその噴水の周りをブラブラと歩きながら呼吸を整える。
身体を起こすには丁度いい運動だったが、いくら寝起きとはいえ、この程度で息を上げるのはまだまだな気がした。
炭鉱ではトロッコのレールが壊れた時、数十キロもの石炭や亜炭を担いで十キロ程の距離を何往復もした。あの時に比べればやはり体力はあるが、それでもまだ納得できない。
もう試験は数日に迫っているのだからどうしようもないのだが――。
「全然、むしろ丁度いいくらいさ」
長袖をまくり、額の汗を拭う。少し休もうと噴水の縁に腰を下ろそうとした所で声がかかった。
顔を上げると、甲冑姿の男が手を振っているのがあった。
兜を脇に抱え、腰にはサーベル。警ら兵の一般装備だ。決まった間隔を開けて街を徘徊し、治安を維持するのは彼らの役目である。はぐれの”異種族”との戦闘も多く、また強奪団や盗賊などから街を守るために、騎士が出動するまでに戦うことも多い。
国家には切っては切れぬ軍隊であり、そしてそれ故に騎士と同じく憧れを持つ人間も多い。
「『ジャン・スティール』少年。今日は随分とお早いじゃないか」
釣り上がる目に丸坊主をそのまま伸ばしたような乱雑な髪型。がっちりというよりは、細い身体に筋肉を付けたような体格。人相が少しばかり悪い彼は、わざとらしく、ジャンと呼んだ青年の隣に腰を落とした。
「ええ、サニーが目を覚まさなくて。暇つぶしに出ただけですよ。というか、ブローさんはこんな所で油売っていいんですか?」
「良いんだよ。俺の他に何人が徘徊ついてると思ってんだ」
「まあブローさんが言うなら別にいいんですけど……」
「所詮騎士からこぼれ落ちたヤツがなる役職だ。俺だって魔法が使えりゃあな……」
自分の両手を見て、嘲笑するように鼻を鳴らした。
――魔法。
それは誰しもが使えるモノというわけではないし、どういった経緯で使えるのかは分からない。
先天的に扱える人間がいれば、後天的に使える人間が居る。だが”使えない”のが殆どだ。
そして魔法を持つ人間は軍にスカウトされる。どの国でも、この国の騎士団のように。
だからこそ騎士団と言えども多くはないし、軍隊と言ってまず思い浮かべるのは警ら兵だ。彼らが戦争では主となって戦い、街を守る。
この国の騎士団だって十もの隊を作っているが、十人ごとのグループ分けだ。そう多く居るというわけではないし、だからこそ毎春その求人を出して人材をかき集めていた。
どこかの国では適性検査として国民全体から騎士団に相応しい人材を探しているらしいが、そう考えればこの国のやり方はまだ甘いほうなのかもしれない。だがそうそう治安が悪いとも言えない、何かの襲来が多いというわけでもない国なのだから大丈夫なのだろう。
だから安心して人が住める。
彼も、この国に来た理由の一つでもあるソレだった。
「しかし、魔法って何なんですか?」
「何ってお前……騎士を目指してんのに知らないって無いだろ?」
「いやあ、知らないワケじゃないんですけどね。良く分からないんですよ」
試験で判断材料となる『特殊技能』の有無が、その魔法が使用できるか否かなのは分かる。そしてサニーも、何気ないが扱える事も知っている。
しかし”なんなのだろう”か。
特殊な能力。
いくつもの効果を個人がいくつも持つわけでもなく、それぞれ、例えば何も無い空間から何かを『具現化』したり、『炎』、『水』、『雷』を発現させたりする能力。その他に『瞬間移動』や『念動力』なども可能とするが、それぞれを、一つだけしか得ることのできない。
まさに神から授かった御力というものだ。
新たなエネルギーとなるにはあまりにも不安定で種類数多。そして人間のみならず異種族も扱えるが、数が少ない。
『魔法使い』と呼ばれるそれらは、全人口の十分の一程度と考えていいだろう。
「ま、一言でいやあ”不思議な力”だわな。にしても聞いてくれよ。この前さ、小人の爺と鳥人間がマスターの酒場に行ったんだけどさ。そのマスターがすげぇ美人で――」
「おいこらブロォォォッ! てめ、こら何サボってんだよォッ!」
言いかけた言葉をかき消されながら、ブローが思わず肩を弾ませる。
広場全体をビリビリを振動させるような大声音は、ちょうど彼らの正面、ブローがやってきた道から放たれた。視線を向ければそこには、随分と立派な巨躯を誇る男が立っていた。
顎鬚を蓄え、腰には大ぶりのナタのような刀剣を装備し、脇に抱える兜には羽毛が一本刺さっている。恐らく彼が警ら兵の隊長なのかもしれない。
「た、隊長ぉ! これ違いますよ! なんかぁ、”例の不審者”を見たとかで情報聞いてたんですけど、見間違いみたいでぇ!」
膝を震わせて立ち上がるブローは声を荒げてそう告げる。つかつかと大股で歩み寄ってくる隊長の威圧に押しつぶされそうになりながらも、歯を食いしばってやがてその虚言を言い終えた。
見上げるほどの、壁のような巨体がやがて迫る。
ブローの精神はそれだけで崩壊しそうだった。
「俺の二つ名を言ってみろ」
「じ、地獄耳のエミリオ隊長……です」
「それで、なんだって?」
「い、あ……その、ですね」
「テメェ俺にたわごと吐くとはいい度胸してんじゃねえかッ!」
「ひぃぃぃっ! じゃ、ジャーン!」
その頭を鷲掴みにされて引きずられるブローはそんな悲鳴を最後に、やがて隊長に連れて行かれる。妙に耳に残る悲惨な声を耳に残しながら、そろそろ時間かとジャンは立ち上がった。
できれば帰る頃にはサニーには起きておいてもらいたいところだが、望みは薄い。彼女が中々起きないからこそ、こうやって時間を開けているのだから。
「ふう、ただいま」
玄関のカギを開けて中へ。
靴を脱いで玄関から上がると、開け放してある居間からドタドタと騒がしく音を立てながら、
「おっかえり~!」
彼女は包丁片手にやってきた。
そして床に滑り、勢い良くすっころぶ。
振り下ろされる腕は、その手の中から包丁を手放し――投擲。
刃をジャンへ向けて飛来し、彼の反応を上回る速度で頬を掠め、背後の扉に叩きつけられる。包丁は甲高い金属音を立てながら床へと落ちてカランカランとその余韻を響かせたが、サニーは「まずった」とうつむきながら、ジャンは恐怖に打ちひしがれながら硬直し続けた。
「お、おっかえりー」
何事もなかったように前掛けを払い、立ち上がる。
屈託の無い笑顔だが、あまりにも不意過ぎる行動に彼は恐怖を癒せずにいた。
「た、だいま……」
包丁を拾って渡す。
一先ず何も無かったことにして、彼は居間へと向かった。
「ねぇジャン、今日の朝ごはんはなんだと思う?」
「そうだな。この香ばしい匂いは、いい匂いだ」
「何の匂いかな? ヒントはね、ジャンの好きなもの!」
「炒り卵?」
「炒り卵香ばしい匂いしないよー?」
二人掛けの小さなテーブル。その席に座ると、彼女はそそくさとキッチンに引っ込んでいく。
以前は寮生活で大勢とサニーの食事を囲んで食べていた。ここに来て早々は少しばかり寂しかったが、それでもやはり半月もすれば慣れて、一ヶ月となった居間ではもう最初からこうだったかのように過ごせている。
静かなのはもう慣れたし、それでもサニーが居るから完全に静かということにはならない。異性と二人暮しという事に少しばかりの抵抗はあったものの、過ごしてみれば、元々妹のように思っていたのが加速しただけだ。ヘンな意識が芽生えることはなかった。
ややあって、彼女は両手に皿を持ってやってくる。
皿の上には、焼き魚にとろみの付いた野菜がたくさんのあんかけがかかっているムニエルが乗っている。朝食から重すぎず、健康面も気にしているかのような一品だ。
「はい、ジャンの好きな”鮭の野菜あんかけ”でーす!」
「倭食だな」
「うん。あの島国ってすごい料理おいしいらしいからね。私も一度は行ってみたいよ」
彼女の料理の幅が広がったのは、寮母手伝いとして寮母から様々な料理を教わったこともあるし、書店で販売されている各国の料理を掲載している雑誌を購読していることもある。
ジャンのように肉体を鍛える時間を家事に回した彼女は、彼の向上心とほぼ同じくらいそういった事に情熱を向けていた。
だが、彼女も騎士を志願している。
理由は「ジャンが騎士になるから」というモノだ。何度か諦めさせようと諭してはみたが、その強い意志と――自分にはない『魔法』を見て、仕方が無いと諦めた。
だがジャンが騎士になれなかったら、仮に自分が受かったとしても辞退するというらしい。もうかけられる言葉はなかった。
「うん、旨い」
きつね色の表面。フォークで割り、あんかけをつけて口に運ぶ。
うまい。
その香ばしさ、香りが鼻から抜ける。口の中に広がるバターの風味や少し甘いあんかけの味、それらが空腹という調味料を経て最大限に活かされる。
うまい。
やはり旅をするなら料理が上手な人間を連れて歩くほうがいいかもしれない。
「サニーはいいお嫁さんになるよな。毎回言うけど」
「えー、誰の?」
首をかしげる。琥珀色の瞳が輝き、セミロングの茶髪が揺れる。頬が紅潮し、油で照る唇は妙に艶やかに見えた。
やはり彼女も年頃の娘だ。同年代だから仕方ないが、魅力的な女性であるのには変わりがない。
「そうだな……相応しい男の」
「ジャンが見つけてくれるの?」
「そうじゃないけど、でもここまで一緒なんだ。おれが認めるヤツじゃないと許さないぞ」
「ふふ、なら良かった」
なにやらうれしそうに彼女は微笑む。
冗談でそう見せているのか本気なのかはわからない表情だが――ジャンは気にせず食事を進めた。
異変に気づいたのは、食休みを満喫しているその時だった。
凄まじい地鳴り。そして爆発音。家具全てを激しく揺らして倒壊する地震が襲いかかる。ジャンは咄嗟にサニーを抱えてテーブルの下に潜り込み、周囲の様子を伺う。
「ただの地震……じゃないな」
「うん、なにかおかしいよ」
断続的に響く破裂音。そして何かが崩壊する音。大地の激震。
考えれば、爆発が連続して起こっているということがすぐに分かった。
だがなぜこれほどまで大規模と思われる爆発が起こるのか? ジャンの問いは、すぐに一つの可能性へと帰結する。
「魔法使い、かもな」
大した家具がないおかげで、居間は殆ど無事だった。自室は本棚やらが大変なことになっているだろうが――地鳴りの余韻を残す床の振動を覚えながら、サニーの肩を抱いてテーブルから脱出する。
「大丈夫か?」
「もっちろん。ついでに、ジャンが何しようとしてるかもわかってるもん」
「なら話が早い、準備をしてくれ」
「りょーかい!」
硝煙が街の景観にもやをかけた。
人民の避難の真っ最中であるように、甲冑姿の男たちが逃げ惑う人々を広場の方へと誘導している。
ジャンはやや幅広の剣を、サニーは矢筒と弓を背負いその人波を逆走した。
「じゃ、ジャン!」
「手を離すなよ!」
激流から脱出するように、近場の裏路地へと彼らは逃げる。喧騒がやや薄れて、前へ、前へ、前へ。
曲がりくねる路地を道沿いに歩いて行くと、やがてその突き当たりが見える。光が見える所から推測するに、恐らくは出口であり――。
「――様はまだか!?」
視界が開ける。
そこは、ちょうど街の門の前だった。
しかし門は既にその役目を終えている。普段は基本的に開放されているソレだが、その巨大な扉は焼かれ焦がされ崩壊。無防備に口を開く門の、その手前には一つの人影があった。
「騎士様は……!」
黒い毛皮を着こむような姿。クマか何かに見えたが、潰れたような獣の顔の下には人の顔があった。牙を持つ、恐らくイノシシの毛皮かなにかを頭に乗せ、そして腕に、背に、足に毛皮を着こむのは女性の体躯を持つソレだった。
そんな彼女を取り囲むように剣を構えるのは二名の甲冑姿。街の警備をしていた警ら兵だ。
「喚くな、鬱陶しい……!」
鋭い犬歯をむき出しにして女が吠える。頬に刻まれる紋様のようなモノが緋色に輝き、靭やかな腕を伸ばす。手のひらは、一人の警ら兵に向けられて――。
「灼熱の牙ッ!!」
頬の紋様から伝達するように、腕へと紋様が広がる。そして手のひらに灼熱色が集中し、やがて色が確かな球体となって具現化。燃ゆる炎を瞬く間に膨張させてほとばしらせて、僅か数秒の”ため”で、火球は頭ほどの大きさになる。
「に、逃げ……!」
果たして業火は放たれた。
大気を喰らい、対峙するだけでも肌を焼くほどの高熱を放つソレは男の悲鳴すらも許さない。悠々と男を頭から丸呑みし、空気を吸い込めば炎が口から入り込み、彼の肉体を内部から焼き尽くす。喉を焼き、眼球を沸騰させ、脳髄を蒸発させる。
音もなく影となるほどに焦げた焼死体となる男は、真っ赤に沸騰する甲冑を地面に垂らしながら膝から崩れ落ち、パチンと彼女が指を鳴らせば、燻ること無く警ら兵から炎が消え失せた。
「おい貴様、ただ突っ立っているだけなら騎士を呼んでこい。早急にだ」
「く、くそぉっ!」
彼女の命令に、仲間の死を目の当たりにした警ら兵は全ての感情を噛み殺して彼女に背を向ける。
毛皮をまとう女は流石に逃げていくその背を狙わず、ただ見送った。
――毛皮のベストの下には、ネットのような衣服を胸から腹に。腰にはエナメル質のズボンを。そして太ももから先を、胴部同様の、殆ど露出しているような衣服を纏う。靴は妙に踵の高いもので、その格好は見事なまでに異文化のソレだった。
「そしてだ、そこの貴方。のぞき見ってのは趣味が悪いんじゃないかしら?」
黒目しかない眼球がじろりと睨む。視線は、見事にジャンのものと交差した。
それまでの出来事に意識を奪われていた彼は、そこでようやく自意識を取り戻す。そうして気づくのは、己の恐怖に打ちひしがれていた肉体の震えだった。
圧倒的な力。
恐らく彼女は”はぐれ”の異種族だ。
あの力は魔法使いではない。いわゆる『魔術師』と呼ばれるものだろう。
魔術は魔法とは違い、才能と惜しみない努力さえあれば誰にでも扱えるシロモノだし、一人につき一つという原則的制約がない。
だから例えば今の彼女のように炎を出せれば、それだけではなく、他に『氷雪』や『雷』の魔術を会得していればそれを同時に扱える。下手な魔法より遙かにタチが悪い技術であった。
「ジャン、大丈夫。私が居るから」
傍らの少女が、ぎゅっと手を繋ぐ。汗ばみ、同様に震える手だ。
が、暖かく、それだけで勇気が貰えるソレだった。
呼気を細く、呼吸を整える。激しく高鳴る心臓を制御し、食いしばる歯から少しだけ力を抜く。
「どうした小僧、小娘。興味津々に見学に来たんでしょう? 許可をしているのだから、来なさいよ」
やや褐色気味の肌。闇よりも深い瞳。蒼みを帯びた黒髪は長く、ただちょっとした所作でもその毛先を揺らし背中をくすぐる。その他を無視すれば単なる美女だったが――やはり頬の複雑な紋様や、その白目のない眼球、そして何よりも獣よりも獣らしい野性的な威圧が意識を現実に呼び戻した。
――獣人族。彼女はその中でも猪科に分類される。
あの踵は恐らく蹄であり、一度走ればその速さたるは想像を逸すると言われる種族だ。
「あ、ああ……おれは」
前へ踏み出す一歩が、一番勇気が要る。
この一歩が全てを始めるし、終わらせる。その選択を自分で行わなければならない。責任は常に自分が負わなければならないが、そう考えを巡らせて結局出た結論は、単にそうすることが怖いだけなのだ。
前に出るのが怖い。だから足がガクガクと震えて仕方がない。
初めての戦場というわけではないが、面と向かって”はぐれ”と対峙するのは初めてなのは確かだ。
はぐれは何を考えているか分からない。己の一族から追放された存在だからこそこうやって街を襲うし、それで生計を立てていると言われている。
それを防ぐために騎士を目指したのだ。
そうだ。おれはこのためにここに来たんだ。
「お前の暴走を止める。おれがやらなければならない事だ」
炭鉱や鉱山では小人のオヤジ共に随分とシゴかれた。
お陰で五体満足だし、肉体は十分に鍛えられた。餞別にと渡されたこのブロードソードも特別製だし、少なくとも騎士が来るまでの時間稼ぎくらいは出来るだろう。
一歩、前へと踏み出す。
そこでようやくジャンは歩き出せた。
「へえ、大きく出たわね」
腰の鞘から剣を抜く。一般的な剣はそのままで、ジャンは構え、サニーは矢を幾本か手にとって、その一本を弦にかけて構えた。
「はは、もしかしたらコレで、例外で合格ってなんねぇかな?」
「冗談は帰ってからにしてよね」
「ほう、帰れるつもりでいるのか?」
果たして獣人は、新たなエモノを見つけたように瞳を輝かせる。
鋭い爪を突き立てて、牙をむき出しにするように口角を釣り上げた。
「少しは楽しませてくれよ、人間ッ!」
彼女は果たして、予想通りに正面から肉薄した。
鋭く振るわれる野生の鉤爪。ジャンは下から切り上げ爪を受け止める。金属音が響き、重圧な衝撃が刃を伝って腕に流れた。
「遊ぼうか?」
微笑みながら、彼女は刃を掴む。
それと同時に矢が放たれた。虚空を穿ち、瞬時に彼女を貫く――が、その姿は見る間に歪んで消え失せる。気がつけば、彼女はそこより遙か後方で彼らの様子を伺っていた。
サニーは次いで絶え間なく矢を撃ち続ける。彼女は先程のような高速度で避けることはせず、矢の射線を見切り、ただ最小限の動作だけでそれを避け続けていた。
その隙に、ジャンは剣を地面に突き立てた。
「大地の精霊よ、我が命に応じ、呼応し、力を与え給え……!」
声音は透き通るように祈りを告げる。剣はそれに促されるように、刃部分に奇っ怪な文字のような紋様を浮かべ、その紋様を輝かせ始めた。
これは魔法ではない。
純然たる魔術である。
――ドワーフ製の武器は殆どがこういった特別製だったり、質がいいものばかりである。
特にこの剣は、ありとあらゆる場所に存在する”精霊”から力を借りて剣に”能力”を付加する。そうやって魔術たらしめるのは、剣の素材が特殊なこともそうだし、掘り込まれている紋章がそうさせていた。だから使用者は、ただ剣を通して念じるだけでそれが可能となる。
「刺し穿て! 大地の怒り!」
石畳の下に巨大な何かが蠢いた。それら全てをかき分けるように大地が膨れ上がり、それが彼女の元へと切迫する。やがてその膨れがさらに膨張し、その臨界点を超えた所で、
「チィッ!」
女が飛び上がる。
それにつられるように、それは錐状に大地から勢い良く突き出した。一本のみならず連動するように無数の錐が大地を突き破って虚空を貫く。
「灼熱の牙ッ!」
それに対応するように彼女は手のひらから火球を放つ。紋章が紅く輝き、そして業火が錐を焼き尽くし、瞬く間に石炭へと姿を変えていく。
だがその間隙を狙う矢は、サニーによって放たれていた。
が、燃やされる。火焔に巻き込まれてそれは彼女に届くこと無く、消し炭となってうねる舌に舐められて消える。
周囲の大地は焼け焦げた。
凄まじい熱が肌を焼く。ただそれだけで、”あの時”を脳裏に蘇らせた。
「サニー、下がってろ!」
剣を引き抜き、また正眼で構える。サニーはおとなしく自分の出る幕ではないことを察して退き、ジャンは駆け出した。
高熱を孕む大地に着地する獣人はそれでもジャンから視線を外さず、また鋭い爪を突き出して、同様に飛び出した。
直後に交差。
斬撃に爪が対応。そして甲高い音を立てて弾かれたのは、ジャンの方だった。軌道を逸らされるようにして彼の斬撃は見事に彼女のすぐ脇を切り裂いていた。そして一歩、踏み込まれて――。
息を飲む。
楽しそうに微笑む彼女の腕は腰に引きつけられて、拳を作らぬ手は貫手を作る。爪は依然、鋭いまま。
「ちょっと面白かったわよ」
顔面が掴まれ、そして腰の腕が振り抜かれて――。
「数多の疾風ッ!」
背後からの咆哮。共にやってきた、半月状のかまいたち。無数のそれらは頭上から降り注いだ。
「やっと来た……けどッ!」
彼女はジャンを突き飛ばし、同時に地面を弾いて勢い良く後退する。
その刹那、二人が居た空間を切り裂く真空波が無数に落下し、大地を切り刻む。
大地に背中から着地するジャンはすぐさま体勢を整えるが、
「下がっていろ、一般人」
馬蹄が大地を鳴らす。その音は、すぐ横で停止した。
凛と澄んだ女の声がジャンを制止する。槍の柄が妙な位置で視界に入るのを見て、彼は思わずその馬を見上げると――それは馬ではなく、ケンタウロスの女性だった。
「き、騎士……さま」
長い髪を後ろで一纏めにする姿。下半身は馬であり、上半身は見事な女騎士だ。
見間違えるはずもない、それはいつかの恩人で――。
「ああ安心しろ。ここは私が引き受けた」
――ケンタウロスが睨む先に、先ほどの獣人が前屈姿勢で待機していた。
「そうそう、お子ちゃまはあたしたちに任せればいいのよ」
彼の脇にまた現れた声の主。視線を向ければ、その女性の両腕は鳥の翼に成り代わっていた。
鳥人と呼ばれる種族は、飛行能力に加えて聴力や視力が著しく優れている。
「でもまあ、こんなに出てくる必要はないのでは?」
その隣に、また現れた。
頭の脇に歪曲するツノを持つ、また同時に豊満なバストが特徴的なのは牛人族。戦闘面では怪力が目立ち、それ故に簡単に扱える身の丈ほどの戦斧を担いでいた。
「いいだろ別に、暇だし、アイツだってもう常連客だろ? たまにゃもてなさないとな?」
ケンタウロスの隣に現れるのは小人族の少女。幼い見た目に反して、彼女らの種族が創り上げる武装は逸品である事が多い。そしてこの魔術を利用した剣のように、魔術を利用して筋力を強化することも可能だ。
また逆に、どれほど大きなものでも重量を軽くすることが出来る。だからこそ、そんな少女は剣先を大地に擦りつけながら、大剣を背負っていた。
「女郎蜘蛛が待機してるし、ちゃっちゃと終わらせない? 昨日徹夜で、彼女イライラしてんのよ」
茹で上がったタコのように真っ赤な肌を持ち、ミノタウルスとは違うツノを誇り高く聳えるのは鬼族の娘だ。
身体能力が極めて高く、切込隊長として任命されることが多いが、そういった場合は大抵が切込隊長だけの活躍で仕事が終えるという程であり、まさに鬼というくらいに強い。
――ケンタウロス、鳥人、ミノタウロス、ドワーフ、鬼。
総数五名の女騎士は、全て人間に似て非なる種族であり、この国屈指の実力者だった。
「ま、そういう事だから君たちは下がってなさい」
ケンタウロスの騎士が代表してそう告げて――。
「これは流石に予想外。いくらなんでも、退かせてもらうわよッ!」
獣人の女は言うだけ言って、その魔術か、純粋な身体能力かも分からぬ速度で一瞬にしてその場から退いていった。
アレスハイム王国はどこの国よりも多くの異種族を受け入れ、共に暮らしている。
それは元々、この人間だけの世界に不意に現れた”異種族”という者が初めて訪れた街がここだからだった。
異界から現れた、人であり、また人に非ず存在。しかし歴史は意外にも百年と少しばかりの浅い関係だった。
――ジャン・スティールの歯車はその日をきっかけに良くも悪くも狂い始める。
しかしそれが本格始動するのは、それから数日後の騎士団入試試験であった。