17
幻は目を覚ました。
全身が重い。
寝慣れない場所のせいか、眠る前よりもかえって疲労が増したような気がした。
もう一度目を閉じようとしたが、ふと違和感を覚えて目を見開いた。
そのまま、じっと天井を見つめる。
「……」
見覚えのない天井だった。
視線を巡らせ、すぐに悟った。
ここは自宅のリビングではない。
最初に突き上げてきたのは恐怖だった。奏汰が言っていた『エラー』が起きたのではないか。
眠気が一気に吹き飛ぶ。
幻はすぐに起き上がろうとしたが、体はぴくりとも動かなかった。
起き上がるどころか、首をわずかに回すのが精一杯だった。必死に顔を横に向けて辺りを観察した結果、そこが病室であることが分かってきた。
とにかく起きなければならない。
だが、どれほど抗っても体は動かない。
麻痺というより、重力が何倍にもなったかのように、何かに強く引きずり込まれるような感覚だった。それでも幻は死に物狂いで顔を反対側に向けた。
すると、隣に座っている奏汰の姿が目に飛び込んできた。
彼を見た瞬間、幻は恐怖よりも先に、意外なほどの安心感を覚えた。
何が起きているのか訊こうとして唇を震わせたが、喉が詰まって声が出ない。仕方なく、しばらく彼の顔を凝視し続けた。
奏汰は半分閉じたような目でスマホをいじっていたが、幻の覚醒に気づくと、一瞬で顔を輝かせて話しかけてきた。
「紬!」
「……」
(は? 何を言ってるんだ)
そう言い返そうとしたが、やはり言葉にならない。
もしかして母も一緒にいるのかと思い、もう一度反対側へ顔を向けたが、そこは個室で、部屋には幻と奏汰の二人しかいなかった。
幻は再び奏汰の方へ顔を戻す。
奏汰は、明らかに幻の目を見つめて呼びかけていた。
「ここが『どこ』か、分かるか?」
切実な奏汰の表情が、幻にはひどく不可解だった。
「俺……」
一体どうなってるんだ、と問おうとした。しかし、口から漏れた声に凄まじい違和感を覚え、絶句した。
「……『俺』?」奏汰が戸惑いの混じった笑みを浮かべる。「『あれ』、って言いたかったの?」
「いや、俺、え……。な、なんで声が……」
声が、異様に細い。
最初は風邪でも引いたのかと思ったが、そんな言葉では片付けられないほど異質だった。
「声が、おかしい」
もう一度言葉にして、ようやく幻は気づいた。
これは自分の声ではない。
けれど、聞いたことがある――それも、誰よりもよく知っている声だった。
「これ、母さんの声みたいだけど……」
「……母さん?」
奏汰は鸚鵡返しに呟くと、次の瞬間、驚愕に目を見開いて息を呑んだ。
「まさか……幻なのか?」
幻もまた、戦慄した。
「まさか……ちょっと、俺、今……母さんの体にいるの?」
奏汰は口を開けたまま、しばらく幻を凝視していた。
やがて、彼はスマホのカメラを自撮りモードにして、幻の顔の前に差し出した。
「……」
幻はその画面をじっと見つめながら、自分の、いや母の顔に手を当てた。そして、そっと肌に触れてみる。
どう見ても、間違いなく紬の顔だった。
「じゃあ……」幻はおそるおそる尋ねた。「こ、ここはどこだ? 夢? 現実?」
奏汰が答えた。「現実だよ」
「それって……つまり、『本当の』現実ってこと? 『俺の』現実じゃなくて」
「そうだ」
「じゃあ、母さんは?」
「それは俺が聞きたい。どうして君が出てきたんだ。紬はどこにいる」
「分からないよ、俺だって。ただ……自宅のソファで眠って、目が覚めたらこうなってたんだ」
「じゃ、紬は?」
「母さんは、昏睡状態になって入院してるはずだけど」
「昏睡状態? 夢の中でもか? どうして」
「知らないよ。俺と話していたら、急に具合が悪くなって、意識を失ったんだ」
「そうか……」奏汰は肩を落とした。「紬に全部、話したんだな」
「そうするしかなかったから」
「それで、紬は今どこにいるんだ?」
「だから知らないって。たぶん、まだ病院にいるんじゃないかな。それとも……」
幻は言い淀み、おそるおそる言葉を継ぐ。
「まさか、このまま消えちゃった、なんてこと……ないよな?」
「まさか。それはない」
奏汰はきっぱりと言い切った。
「自我が誰であれ、こうして起きて活動している以上、脳が生きている証拠だからな。君が生きているということは、紬も生きているということになる。君は結局、紬の脳が維持している存在なんだから」
「……ちょっと、ご都合主義すぎじゃないか?」
「そうでもないさ。本当に論理的に解釈するなら、今の君は、紬の中に現れた二重人格だってことになる」
「……」
苦笑を漏らしながらも、幻はそれもあり得るかもしれない、と考えていた。
幻の沈黙を、心を見透かされたことへの反応だと受け取ったのか、奏汰の眼差しが少し鋭くなった。
「君、実は紬なんじゃないか?」
奏汰は追及するように言った。
「紬なのに、幻のふりをしているだけじゃないの?」
「違うよ」幻はあっさりと答えた。「たとえそうだとして、わざわざそんなことをするメリットがどこにあるんだ。俺のふりをしたところで、本物の俺になれるわけでもないだろ」
「……うーん、それもそうか」
それでも奏汰は依然として納得がいかない様子で、不満げに腕を組み、防衛本能を示すように身を固くした。
幻は少なからず癪に障り、突き放すような口調で言った。
「好きに思えばいい。君が信じようが信じまいが、俺には関係ないことだから」
「……嫌な言い方。君、やっぱり幻なんだな」
幻は自嘲気味に鼻で笑った。「俺のこと、嫌な奴だと思ってたんだ」
「ああ、正直に言うよ。俺は君が嫌いだ」
「分かってるよ、そんなこと」
「……」
幻は視線を天井に移した。
そのまま、病室に重苦しい静寂が満ちていく。
しばらくして、奏汰が溜息をつきながら腕の力を抜いた。
時計を確認し、椅子から立ち上がる。
「とりあえず、医者と紬のお母さんを呼んでくる。君にとっては……おばあさんか。とにかく、みんなには紬が『こんな状態』だってことは伏せておこう。ややこしくなるだけだしな」
「言われなくても、そのつもりだよ」
間もなく医療スタッフが入ってきて、紬の、ひいては幻の身体の診察が始まった。
極度の体力低下を除けば大きな異常はない。ただ、筋力が著しく衰えているため、しばらくはリハビリに励む必要があるという説明を受けた。
続いて紬の母、つまり幻にとっての祖母とも対面した。
容姿や話し方、まとう雰囲気まで、幻が知っている「おばあちゃん」と変わりはない。けれど、彼女が泣いている姿を見るのは初めてで、幻は言いようのない申し訳なさに苛まれた。
彼は懸命に笑顔を作り、「もう大丈夫だから」と彼女を慰めた。
仕事中だった祖父も、知らせを聞いて慌てて駆けつけてきた。
奏汰が気を利かせて席を外している間、大森家は久々に三人揃って言葉を交わした。
祖父母は、紬が眠り続けていた一ヶ月の間に外の世界で何が起きていたかを熱心に語った。幻にとってはまるで他人事のような話で、ただ黙って聞いているふりをするのが精一杯だった。
祖父が再び仕事に戻った後、夕食のトレイが運ばれてきた。
幻は食欲など欠片もなかったが、周囲に促されて仕方なくスプーンを手に取った。
用意されていたのは白粥のようなものだったが、ほとんど水に近いほど薄く、食べるというよりは流し込む感覚に近い。味も極限まで薄められており、ただ「何か」が喉を通っているという感触しかなかった。
今まで生きてきた中で、一番不味い食事だった。
祖母を心配させたくなくて、無理やり口へ運んでいた。だが、彼女が中座してトイレに向かった途端、幻は耐えきれずスプーンを投げ出した。
「……まずい」
幻が吐き捨てるように言うと、奏汰が苦笑混じりに答えた。
「病院食なんだから仕方ない。それに、一ヶ月も胃を休ませてたんだ。刺激を与えないように工夫してあるんだろう。身体のためだと思って、全部食べて」
「それは分かってるけど……」幻は不満を漏らした。「薄味なんてレベルじゃない。『味』そのものが存在しないんだ。ただ温かい粘体が喉を滑り落ちていくだけで、気持ち悪い」
「うーん、まだ感覚が完全に戻ってないせいもあるのかな」
「……感覚?」
「ああ、よくは分からないけどさ。その身体は一ヶ月間、現実から切り離されてたんだ。多少の狂いはあるだろう。……そもそも君は、こちら側の人間でもないんだしな」
最後の一言は余計だったと思ったのか、奏汰は気まずそうに目を逸らした。だが、それはもっともな指摘だったので、幻は反論しなかった。
確かに、夢の中……いや「自分の現実」にいた時よりも、すべての感覚が鈍い。
味覚だけではない。
病衣が肌に触れる感触はどこか遠く、視界も実物ではなくスクリーン越しに見ているかのように間接的で、音さえも水中にいるみたいに低くくぐもって聞こえる。
すべてが輪郭を失い、ぼんやりとしている。
幻にとっては、むしろこの「現実」こそが夢のように感じられた。
「……ご馳走様」
幻はトレイを返そうとしたが、腕に力が入らず持ち上げることができなかった。
助けを求めるように奏汰を見つめたが、彼は首を横に振った。
「まだ半分も食べてないじゃないか。あと三口だけ。頑張れ」
「嫌だ。これ以上食べたら吐く」
「でもさ……」
「食べたくないって言ってるだろ!」
幻が意固地になって毛布を頭までかぶると、奏汰もついに諦めてトレイを引き取った。
「寝るから」幻は布越しに言った。「眠って、あっちで母さんを説得してくる。必ずこっちに戻すから。心配しないで」
「……そうか。分かった。頼む」
あまりに潔い快諾だった。
形だけでも引き止めてくれないのか、と幻は胸の奥で小さな寂しさを覚えたが、それを悟られないよう、毛布の洞窟の中でじっと目を閉じる。
そのまま、深い眠りへと落ちていった。
けれど、翌朝。
幻が目を覚ました時、視界に入ったのはやはりあの白い天井だった。
どれほど願っても夢は訪れず、彼は依然として、紬の身体の中に閉じ込められたままだった。




