2
そうして方舟が湖のほとりに流れ着いた頃、優和の近くに一匹のカピバラがとてとて二足歩行でやって来る。カピバラといっても、やっぱり優和の知るそれとは異なっていた。
子どもの背丈ほどある体はやわらかそうな茶色の毛皮に覆われ、ポンチョに似たツタ模様の緑色の衣服をまとっている。小さな頭の上には細く編まれたツタのかんむりをのせ、首元には色とりどりの小さな羽根飾りと、きらめく石をあしらったネックレスを下げていた。
カピパラの後ろからは、モルモットやウサギ、小鳥といった小さないきものたちが、短い足を懸命に動かして、ちょこちょこと追いかけてくる。
それだけの事で、優和の頭の中はとたんに「かわいい」でいっぱいになった。
「渡り人よ、かがみの世界へようこそおいでなさった。わしはこのいこいの森の長をしちょる、ぽってりカピバラのホクぜよ。ホクとも長老ともカピさんとも、好きに呼びなされ」
「はい……?」
優和はカピパラの言っていることが何も理解できなかった。渡り人? かがみの世界? いこいの森? ぽってりカピパラ?
なんとなしに、カピバラの体を見下ろす。確かに、ぽってりとした丸い体つきをしていた。
ふかふかの毛皮も相まって、抱きしめたら気持ち良さそうだなんて、つい思ってしまう。
「とりあえず、はよう舟から降りなされ。さもなくば、おぼろよクジラに丸飲みされてしまうちや」
「え?」
優和が声を上げたのと同時だった。
地響きのような音がして、静穏としていた湖面が波紋を広げて震え出した。おだやかなさざ波はその様相を荒らげ、不穏なうねりが脈動のように方舟を揺らす。
地震かと、込み上げてくる不安を胸を押さえることで落ち着かせながら、優和は湖面に視線を走らせた。そして、ひゅっと息を呑む。
信じられないほど澄んだ湖面には、巨大な黒い影がゆらりと浮かび上がっていた。影は方舟一帯をまるごと包み込むほど大きく、次第に鮮明さを増していく。
水底から浮上していると理解した瞬間、優和は舟からとっさに身を投げ出した。
岸辺に転がり落ちる彼女から距離を取るように、ホクのそばにいた小さないきものたちが慌てて彼の後ろに隠れる様子が見えた、そのほんの一瞬の後。
影の映る部分の水が激しく波立ち、盛り上がる。白く泡立つ飛沫を上げながら、一際大きないきものが姿を現した。
長い胸びれを水面に打ち付け、巨体を横向きにして弧を描くように湖水を割って躍り出る。口は大きく開かれ、一瞬にして周囲の水もろとも方舟を飲み込んだ。
芝生に手をついて身を起こしながら、優和はその様子をまばたきも忘れて見つめていた。
漆黒とも群青とも似つかない、なめらかなで不可思議な体表。うっすらと見えた腹部は白く、背中は夜空におぼろげに浮かぶ月のような、淡いまだら模様が広がっている。
だが、確かにそこにいるのに、巨体の輪郭は掴みどころがなく曖昧で。圧倒的なまでに、おぼろよのようだった。
クジラの体は湖の中へと沈んでいく。最後に、大きな尾びれが宙を舞い、湖面に強く打ち振るわれた。冷たい水しぶきが小雨のように優和たちに降り注ぐ。
水が入らないよう、優和と動物たちは目をつむった。
その一瞬間の後、目を開けると、クジラは跡形もなく湖の底へと消えていた。
「い、いい、今のは何っ……!?」
掠れた声が、乾いた喉から絞り出される。
優和はひどく混乱していた。
心臓がバクバクと激しく鼓動を打っている。呼吸は乱れて肩が上下し、上半身を支える両手は頼りなく小刻みに震えていた。
優和の背後から、どこかの方言のようになまりのあるホクの落ち着いた声が耳に届く。
「おぼろよクジラぜよ。渡り人が乗った方舟を食べて生きちょる」
「な、なんで湖にクジラがいるの? それに、クジラってあんな大きなもの飲み込めるの?」
「おぼろよクジラは、闇の世界と光の世界を漂う曖昧な存在であるきなぁ。方舟そのものを食べるというよりは、方舟に宿る命を食べゆー言った方が正しいねゃ」
「意味がわからないよ。……ねえ、少しでも舟から降りる判断が遅かったら、わたしも食べられてた……?」
「ふぉっほっほ。まあそうやろうな。間一髪ねゃ」
「笑い事じゃないでしょ! そもそも、この世界は何で、あなたたちはいったいなんなんですか? なんでわたしはこんな……わけのわからない世界にいるの」
なんだか泣きたかった。
現実離れしたあり得ない事象の連続に、優和はひどく混乱して、不安になっていたのだ。
芝生の上にへたりと座り込んだまま、どうすることもできないでいると、ふと膝にやわらかなものが触れた。
驚いて顔を向ければ、ホクの後ろで隠れていたモルモットやウサギたちが膝にすり寄り、つぶらな瞳でじっと優和を見上げている。
「……ふぅむ。お前たちから人間に近づくなんて、珍しいこともあるものやねや」
「だって、この人なんかホクさんみたいなんだもん」
「そうだよ! ホクさんそっくり!」
「え?」
思いもよらない発言に、目を丸くして顔を見合わせる優和とホク。
そんな一人と一匹の様子を見て、小さないきものたちは子供のように無邪気な声できゃっきゃっとはしゃぐ。
「だってこの子、ボクたちに無理に構おうとしないし、なんとなく安心する雰囲気だから」
「匂いも良くも悪くもないちょうどいい匂いだね!」
「うん、ちょうどいい匂い!」
「全体的に普通って感じだよね!」
「ホクさんと一緒~!」
そう言って、いきものたちは未だ座り込んでいる優和の周囲をちょこちょこと動き回り、鼻を引くつかせている。優和の匂いを嗅いでいるらしかった。
さっきから褒められているのか、遠回しにバカにされているのか、判断がつかない。
どう反応していいかわからず困惑していると、「ふぉっほっほ!」と機嫌良さそうにホクが笑い声を上げた。
「どうやらお主、えろう気に入られたようやねや」
「えっと……」
「な? 気持ちはわかるが、まずは落ち着かりや。お主の疑問についてはおいおい、ごとごと説明するとこのホクが約束する。それに怖がらずとも、わしたちは渡り人を歓迎しちょるよ」
ホクがのんびりとした声で言う。
カピバラの素朴な姿とはちぐはぐな派手さのある格好とは異なり、年長者らしい貫禄とほんわかとした雰囲気をまとっている。
優和を見上げる真っ黒な眼は小さく細いし目つきが悪い。愛想の感じられない無表情極まりない顔だが、どこか微笑んでいるようにも見えて、なんだかほっとした。
肩の力が抜けた優和を見て、ホクの眼がやわらかく細まった。つられて優和の顔も少しほころぶ。
再びモルモットたちが優和にすり寄ってきた。
「ねえねえ、キミの名前は?」
「わたしは山木優和」
「ヤマキユワ……?」
動物たちはなんとも言いにくそうに、カタコトの発音で山木優和とに繰り返した。
その様子がかわいくて、優和は小さく笑う。
「うん。山木優和。優和って呼んで」
「ユワ……優和。変わった響きの名前だね」
「でも、なんかキミにぴったりかも!」
「ありがとう。わたしも気に入ってるんだ」
そうして小さないきものたちと楽しく会話していると、いつの間にかこの場を離れていたらしいホクが他の二本足で歩く動物たちを連れて戻ってきた。
「もう仲良うなっちょるようやねや。いやぁ、若い若い」
「ホクさん、どこに行ってたんですか?」
「渡り人を歓迎するための祝宴の準備ちや。このいこいの森では渡り人が来たら、祝宴を開いて渡り人を迎え入れる伝統があるがよ」
「そこまでしてもらわなくても……」
「何も、お主だけのためちょ言うわけやない。ただそうやって、長らく人間とわしたちは共存してきたがで」
「共存?」
ホクはひとつ頷くと、優和に小さな手を差し出してくる。
少し迷ってから、優和はその手を取った。