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短編 異世界恋愛

人身御供にされた娘の話

作者: 丹空 舞

常に鬱蒼とした森を従える山々の麓に、リースラの村はあった。

この村は古代から蛇神を崇拝する風習があり、風雨や洪水の災いがある度、娘が捧げられていた。

人身御供ひとみごくうとして、神への『お供え物』をすれば、村の安全が保たれるのだという言い伝えがあったのだ。



「私……ですか?」



マーシャは瞳を見開いた。

深い湖の碧色のような髪をした娘は、困惑に眉をひそめた。

美人ではあるが、色が白すぎて青ざめているようにさえ見える。


「そうだ。もう決まったことだ」

と、彼女の父親は重々しく宣言した。


「ですが、私はもうデリダ様と婚約しております」

マーシャは淡々と言った。

「ああッ! 大変! 大ッ変に! 残念極まりないが! マーシャよ。こうなったからには仕方がない。お前との婚約を破棄しよう!」


婚約者のデリダは高らかに宣言した。

マーシャは信じられないものを見る目で、デリダの筋張った長い顎を眺めた。


(この人は、いったい何を言っているの?)


マーシャは村の有力者の末娘だ。

と、いっても実の母親は体が弱く幼い時に他界してしまった。

主人が使用人に手をつけてできた不義の子という立場がマーシャだった。

だから、他の子供らと比べて、明らかな差別を受けていても、村の者たちは知らんぷりを決め込んだ。

マーシャの他に、三人いる腹違いの兄姉でさえ、マーシャのことを「妹」とは呼ばずに「あれ」と呼んでいた。


村で一番広い畑をもっているデリダと婚約をさせられたときも、マーシャは静かだった。

デリダはげっそりとしたやせ型の中年男だった。青い髭が目立つ顔に、眠そうに濁った目が充血している。

年はともかく、女に手を出しては捨て、を繰り返してきたという悪い評判があった。

余剰の作物を闇市で売り払い、その金にものを言わせて弱みを握る。

遊び人と自称してずっと独身でいた偏屈な男だが、金儲けの才能はあるらしく、マーシャの父親はそれに目をつけた。


対してマーシャは成人前の無垢な娘だった。

半ば無理矢理に結ばされた婚姻に異を唱えるなけなしの勇気さえ、マーシャにはなかった。

これまで、父親に逆らえば酷くされてきた怖れが彼女を硬直させてしまった。


人身御供ひとみごくうだよ、マーシャ。七年前にもあったんだ。平和のために必要なことだ。これまで食わせてやったのだから、父親の願いを叶えてくれ」

父親は哀れっぽくマーシャに言った。


(デリダ様との婚姻が決まったときも、そう言われたわ)

マーシャは悲しげに俯いた。


「まさか逆らうのか?」

父親の目がギラリと光った。


逆らえば、酷い体罰や折檻が待っている。

三日間、水だけで暗所に閉じ込められたことのあるマーシャは、首を横に振った。

マーシャは全てを諦めた瞳で、静かに『人身御供』という使命を受け入れた。


デリダは、芝居がかった口調で、青髭を撫でながら言った。

「ああ、俺のことが心配なマーシャ嬢! 安心してくれ。エーデルは知っているか? ほら、町から引っ越してきた酒場の娘さ。あの子が私の相手をしてくれる。マーシャとはタイプがだいぶ違うよ。エーデルはなんせ豊満な体つきで、ああ、いやいや、村長の末娘を酒場の娘なんかと比べるのは失礼でしたねぇ」


と、父親に向かって言ってのけたのだった。


エーデルは男好きのする顔や体をしていて、何人かの夫を盗っただとかで村の女からは嫌われていた。

村に来た何年か前は子連れだったようだが、人買いに売り払ってしまったのかもしれない。

酒場で会って、成金のデリダに目をつけたのだろう。


「これでうちの家が村のために貢献したという実績になる。デリダ殿、触れ回っておいて下さいよ」

父親がにやにやと手を揉んだ。

「もちろんです。涙に暮れながらも、村のために娘を送り出したと、村中に広めましょう」


男共が利己的な会話を交わす、その端で、マーシャは悟っていた。

このデリダという男に縋って、自分から結婚してくれと頼んで地獄のような人生を過ごすくらいなら、きっと蛇神の御供にされたほうが何倍もましだ。





マーシャは美しい服を着せられ、森の入り口に立たされていた。

中は鬱蒼としており、昼間だというのに薄暗い。


「ああ、マーシャ! 悲しいがここでお別れだ」

と、全く悲しく無さそうなデリダが大声で言った。

「決まりでねぇ。生娘しかここには入れないのだ! さようなら、可愛いマーシャよ! 村のために消えた儚い娘よ!」


「私の娘が尊い犠牲となったことを誇りに思うぞ、マーシャ」

と、父親が言う。


マーシャは無言で、父に押しつけられた小さなバスケットを手に持った。

この中に入っているのは血のように赤いワインと、一日分にも満たない白いパン一つ、そして二本の蝋燭だけだ。

もう片方の手には火のついた蝋燭がある。

洞窟まで、これを無事に運ばなければならない。


御供を捧げなければ村全体に災いが及ぶ。

これまでも何人もの娘が、マーシャと同じ道を歩いてきたのだ。


「最近の蛇神は約束を守らない。去年もまた洪水があった。土砂も流れた。おかげで今年は不作が酷かった。人間だって不作なのに、だ。全く自分勝手なものだ……いやいや、そういう村人もいるということだ。いいか、マーシャ。よくよく蛇神様の御心をお慰めするのだぞ」

と、父親が言った。


マーシャは父が神などを信じていないのはよく知っている。

本当なら食事の前には、蛇神と身の回りの自然の全てへの祈りを捧げるはずなのに、父は一度もそんなことをしたことはない。マーシャの父は金勘定と自分の欲、損得で動いていたし、それをちっとも悪びれなかった。


(口減らし、なのでしょう)


マーシャはぺこりと頭を下げると、バスケットを抱えて森の中へと入った。

父親はマーシャに価値がないと判断したのだ。


(こんな思いをして生きていくくらいなら)


マーシャは山道を登り始めた。

このまま上ると洞穴があり、中には蛇神の祭壇があるはずだ。


しばらく歩いていると、マーシャの細い足にはたくさんの傷ができた。

美しいだけの薄く透けた衣は、何も守ってはくれない。


蝋燭の蝋はパタパタとマーシャの手に落ちて火傷を作った。

だけど、これを洞穴まで持って行かなければならないのだ。


マーシャは残り少ない蝋燭の火を新しいものにうつし、また新しい火傷を造りながら洞穴へ急いだ。


これに失敗したら、マーシャの他にも新しい生け贄が準備されてしまう。

マーシャには村に、特別親しい人間も、愛する家族もいなかったけれど、それでも自分のせいで命を落とす誰かが出てしまうのは厭だった。


永遠に続くそうな長い道がパッと開けた。

あった。

蛇神様の洞だ。


入り口に禍々しい蛇の彫像が二対置いてあった。

洞窟の前に立ち、マーシャは深く息を吸い込んだ。


(ここが私の墓場ね)



この入り口は禁忌とされて、ひとたび中に入れば出ることは許されない。

村では決して近付いてはならない場所と言われていた。

その入り口に今、自分が立っている。

マーシャはいい知れない緊張を感じながら、バスケットから新しい蝋燭を出した。

もうこれで最後だ。

この火が消えるころ、マーシャは真っ暗な洞窟の中で、左右もわからずに息絶える。


自分の死に顔が見えた気がして、マーシャはふるふるとかぶりを振った。

ワインとパンをお供えして、祈りを捧げなければならない。

父に言われていたように、入り口の彫像の前にワインとパンを置く。

そして最後の一本の蝋燭を手に持ったまま、暗い洞窟に足を踏み入れた。


ひんやりとした空気がマーシャを包む。

氷柱のように長く伸びた石が、この場所がずっと昔からあるのだということをマーシャに教えてくれた。

途中からチョロチョロと水が流れ始めた。

上へ上へと、緩やかに上っていく。

冷たい水に足の傷を濡らしながらも、マーシャはついに最奥へたどり着いた。




「ここは……」




それは青い湖だった。

蝋燭の火もないのに明るいのは、上の天井に一部、穴が空いているからだろう。

うっすらとした光は洞穴にゆらゆらと揺らめきながら差し込み、まるで湖面全体が息をしているようだった。


マーシャは自分が生け贄であるのも忘れて、その神秘的な光景に引き込まれた。

こんな景色、村の誰も見たことがないに違いない。


蝋燭はもう尽きようとしていた。

食料もない。

だが、マーシャは不思議と満たされていた。


飢えたり、折檻をされすぎて命を落とす最後より、ここで美しいものを見ながら、何の仕事にも急かされず、父親にもおびえず、一人静かに最期を生きるのもいいかもしれないと思えた。


マーシャは湖面の側に跪いた。



「どうか、蛇神様の御心が安らかになりますように……」





その時、湖面が風もないのに、ふっと揺れた。

ろうそくの火が消えそうなことも忘れて、マーシャは波立つ美しい波紋を見た。


ぞわり、と背中が泡立つ。



「おっ。此度はめずらしいこともあるものだな。長が変わったか?」




マーシャはパッと後ろを振り向いた。

そして、眼を見開いた。


直感的に分かった。

この人は、人ではない。

それほどまでに、男は―― 


美し過ぎた。




彼の後ろから光が差しているように思える。

神々しさに目を閉じたいが、眼前のものを一瞬でも多く見ていたい。

マーシャは複雑な思いで目を細めた。

サラ、と男が歩くたびに、緑がかった金糸の髪が揺れる。

花のような、葉のような、いい知れない良い匂いがした。



「娘、名を何という」

「マーシャと申します」

「ほう。『戦の神に捧げられた者』という名か。ふさわしいな」


くつくつと愉しそうに神は嗤った。


マーシャはいつ首を千切られても良いように下を向いて、祈りを捧げていた。


「何をしているのだ」

「母、そして父、村の者へ感謝をしておりました」

「お前を差し出した者へか」

「つまらない村の、良い事なんて一つも起こらない日常にくびり殺されると思っておりました」


マーシャは素直に本心を吐露した。


「生きていてもいいことなんてないと思っておりましたが、最期にこんな美しい方にお会いできて、美しいものをめいっぱい見られて、良かったです」

「ほう? おかしなことを言う」


長く白い指が、す、とマーシャの首筋に当てられた。

よく切れるナイフのようだった。

きっとこの指が自分を終わらせるのだ。

でも、それでも良かった。


蛇だというから毒があるのかもしれない。

どうせなら一瞬で効いて欲しい。


マーシャはただ祈った。

命を長らえさせたいという祈りではなく、散る最期の一瞬まで、自分自身が幸せであるように――。

それはマーシャが生きてきて初めて、自分自身のために捧げた祈りだった。

マーシャは震えることもなく、ただ、そのときを待った。


しかし、その時、マーシャの想定外のことが起こった。

吟味するかのようにマーシャの首を撫で上げた長い指が、つ、と顎を捉えた。


「ひゃっ!?」


そっと右の頬に、片手が当てられる。

ひんやりとした大きな男の手だった。


「今にも死んでしまいそうなことを言うのだな。病にでもかかっているのか? みすみすお前を死なせなどしない。俺は神だぞ?」


気付けば目の前に、男の目が迫っていた。

宝石のように、らんらんと光を集める千草色の至玉だ。

銀と草色を混ぜたような、何ともいえない独特の輝きに、マーシャは吸い込まれそうになった。

麗しくも野生的な瞳がマーシャを捉えて、すうっと細められ、花の咲くように微笑む。

マーシャは自分の心臓がこのままはじけ飛んでしまうのではないかと思った。


「いえ! 健康です! とても! もちろんふくよかな女人には敵いませんけれどもっ! 胸ですとかお尻ですとか、そういうところ以外は、健康優良児で、食事をいくら抜かれても熱も出したことはなくッ」

マーシャは混乱しながらまくしたてた。

「ですので、お召し上がり頂いても健康の被害はないかとッ」


神様の健康を気遣いながらも、マーシャはこれで正解なのか分からなかった。

ただ、常人よりも我慢強い方だと自覚しているマーシャでも、この奇麗な男に至近距離で見つめ続けられる苦行には耐え切れなかった。

蛇神は微笑みながらじっとマーシャを見ていたが、ふふ、と息だけで笑った。


「そうか。ゆくゆくはお前の全てを喰らいたいが――まだその時ではないな。しかし、味見くらいならばしてもいいかもしれん」

神様は吐息まで花のように甘いのだとマーシャは知った。

味見、というと、耳や腕くらいは食べられてしまうのかもしれない。

いっそひと思いに食べてしまえばいいのに。


「お、お手柔らかに、お願い致します……」

マーシャは震えた。

長時間の苦痛は嫌だが、蛇神のためならば、もう一度微笑んでもらえるならば、何だってやってみせようという妙な使命感が胸に込み上がってきた。

「私は、蛇神様に、何をすれば……」

「お前は私のともとなるのだ。これは終わりではなく、始まりに過ぎない」


蛇神はマーシャを愛でるように、身をかがめて顔をのぞき込んでくる。


「とも」

マーシャは信じられない思いで、言われた言葉を繰り返した。


「ああ。何だ、聞いていないのか?」

「私は蛇神様の『お供え物』だと……」

「は、……はは、あっははははは!」


美丈夫は体を折るようにして爆笑し始めた。

マーシャがオロオロしていると、蛇神は、

「はぁー……面白いこともないと思っていたが、ここ数十年余りの面白いことを全部集めてやってきたような奴だな、マーシャは」

と言って、涙をぬぐった。


「そうか。だから俺に餌として喰われると思ったのか」

「違うのですか」

「人の肉など喰わん。大昔ならともかく、俺は美味い物しか口に入れない。マーシャ、お前は『お供え者』つまり生け贄のような物だと思っていたかもしれないが、それは違う。お前は『供』なんだ」

「供とは……」

「『一緒に来る者』ということだ。俺の供になって、死の淵に飛び込むその日まで、いつまでも共に」


家来のようなものだ、とマーシャは合点した。

この美丈夫に寿命が来るその瞬間まで、一緒にいるのだということか。

そんなの願ったり叶ったりだ。


「命尽きるまで、一所懸命に努めさせて頂きます」

マーシャは深々と頭を下げた。


「アレス、だ」

蛇神は今度は両手でマーシャの頬を挟んだ。

マーシャの心臓はもう破裂しそうだ。

うわああああ、と叫び出したいのを堪えて、マーシャが前を見ると、銀緑色の瞳が鼻先まで来ていた。


「呼べ」

「アッ……アレ、ス様」

「もっと大きな声で」

「アレス様ッ」


アレスは嬉しそうにマーシャの耳元に顔を寄せた。


「覚えておけ。お前の主の名だ。忘れてしまうともうここに入れなくなる」

「ここ」

「この洞穴には俺の結界がはってある。普通の人間にはただの穴だがな。さあ、案内しよう」

「あっ……」


歩き出そうとしたマーシャは足の痛みに顔をしかめた。

アレスはそれを見て、

「ああ」

と、嘆息した。

「すまんな、生きた人間が来たのは久々なのだ。私と契りを結べばお前も供として神体と成る。それまでの辛抱だ」

マーシャはあっけにとられてアレスを見た。


「その……神体って……」

「ああ。俺は神だからな。供や眷属となるものは皆、神体となる。神としての俺が死を迎える時、共に行くんだ」

アレスはマーシャを抱え上げた。

「わっ」

マーシャは顔から火が出そうだった。

横向きに抱っこされるなんて、産まれたばかりの赤子のようだ。


「案ずるな」

と、アレスはマーシャを抱えたまま歩いた。

湖の水の中へと入っていくアレスの腕はほんのりと温かい。

「ようこそ。神々の住処すみかへ」

アレスとマーシャの体の全てが、蒼い水の中へと沈んだ。

銀の波紋が、たゆん、と揺れてまた元に戻る。

後には何事もなかったような湖面だけが残った。





其処は、微かな光が漂う森のようだった。

神の神聖な住まいは、巨大な蛇の像が彫り込まれた大理石の祭壇の上にそびえ立っていた。

周りには幻想的な輝きを放つ水晶や宝石が散りばめられていた。

青々と茂る森や、輝く滝。

そして無限に続く花畑は、甘い香りが漂っていた。


「ふわあ……」


マーシャは幻想的な光景にうっとりした。

それは村よりも、いっそ『街』のようだった。


アレスはうきうきとご機嫌だった。

彼にしてみれば久々にやってきた『御供』なのだ。


マーシャは蛇神の寵愛を受け、少しずつその美しい世界に魅了されていった。


蛇神の宮殿は壮麗な装飾で飾られ、部屋ごとに異なるテーマがあった。

幻影、天空、月光、幽玄……その中でも、最も奥にある立派な部屋。

『龍脈』という部屋にマーシャは運ばれた。


そこはまるで夢のような空間だった。絹のシーツに包まれた柔らかなベッドや、宝石で飾られた美しい家具が並んでいた。

「疲れただろう。そこで待て、今、湯を持たせる」


言い終わる前に、部屋の中へたらいを抱えて誰かが入ってきた。

「この方は……」

マーシャはしげしげと、清潔そうな格好の少女を見た。

マーシャより幾分か年下だろう。

彼女の顔は端正だが、まるで人形のようだ。その後ろから、幼い少年が布を抱えて入ってくる。


蛇神は少女たちの髪を撫でて言った。

「この者たちは俺の『眷属』だ。俺が産まれた頃はもっとたくさんいたが、二百年前に先代が死んでな。着いていったのだ。だから、だいぶ少なくなってしまった。今いるのは俺の『眷属』だけだ。狐やら狸やら、刀やら鏡やら、色々いるぞ」

「物の眷属もいるのですか」

「ああ。変わったところだと櫛だとか」


楽しく笑いながらも、マーシャはなぜか、喉が詰まったようになって、尋ねられなかったことが一つあった。


七年前にも、生け贄の娘は捧げられているはずだった。

その子たちはどうなったのだろう。

いや、まだ見ていないだけで、他の部屋にいるのかもしれない。


(アレスの供は、他にもいるのかしら。いるなら、どこに――)


怪我をした足を蛇神は自ら洗おうとしたので、マーシャは全力で拒否をした。

たらいと足を拭く布を置いて、蛇神と眷属は出て行った。

出て行く間際に、少女がくる、と振り返って言った。


「マーシャ様。そちらのお召し物は破れて汚れているようですので、こちらにお召し替え下さい」

渡されたのは最高の素材とデザインで仕立てられたドレスだった。

独特の文様が緻密に織り込まれており、手触りが抜群に良かった。

その文様は、まるで星座が夜空に描かれたような美しさを持っていた。細やかな糸で織り成された星々は、光り輝く星のようだった。

「花々や葉っぱ、動物もあるわ」

よく見ると、花や葉のようなモチーフが丁寧に織り込まれている。

マーシャは織られた布を指先でなぞり、その美しさに感動した。


宮殿では、珍しい食材や贅沢な料理が日々用意されていた。

味わったことのない新しい体験に、マーシャは日々心が満ちていった。

また、蛇神自らが気まぐれに、マーシャのために料理を作ることもあった。

「さすがにネズミなんか出さないぞ! 安心しろ!」

「疑っていませんよ。ふふ」

出てきた料理は魚を焼いて汁物にした簡単そうな物だったが、マーシャの心を芯から温かくした。


しかし、蛇神の寵愛は単なる贅沢に留まらなかった。

アレスはマーシャに優しさや理解を示してくれた。

虐げられた生活で、何が好きかも分からなかったマーシャに愉しいものをたくさん見せてくれた。

「少し古いが……」

といいながら、本をめくって語ってくれる物語をマーシャはわくわくしながら聞いた。


そして、蛇神は常に彼女を驚かせるような素晴らしい贈り物や体験を与えた。

あるときは目映い宝石。あるときは美しい歌を聴かせてくれた。

マーシャは蛇神の寵愛を受ける中で、まるで夢のような生活を送っていた。



幸せと安らぎに満ちた日々が続くと思ったある日のことだった。

マーシャは花畑を歩きながら、蛇神に尋ねた。


「一つ質問をしてもよろしいですか」

「どうした、マーシャ」

愛しげに見返す神に向かって、マーシャは花の咲く奥に建っていた幾つかの石を指し示した。


「あの石についてです」

マーシャは決心した目をしていた。

「あの石は、ここへ貴方のために『御供』として送られた娘たちの物ではないのですか」

あれらは、おそらく、墓標だ。



蛇神は、美しく長い睫毛をぱちりと瞬かせて、

「ああ、その通りだ。よく気付いたな」

と、すぐに認めた。


マーシャは決心し、尋ねた。

いい加減、はっきりさせなければならない。

たとえこの幸せが終わりにになったとしても、マーシャはそれでも尋ねなければならなかった。



「娘たちはどうして、ここで墓に埋まるようなことになったのです?」



もし、その答えがどうでも、私はあなたから離れない。

たとえ餌となっても、私はあなたの一部になって、血となり心となり肉となる。

マーシャは覚悟を決めて、そう問うたのだった。


しかし、蛇神は片眉をあげて、意外そうに言った。


「なんだ、マーシャ。知らんのか?」


緑と銀の瞳はまっすぐにマーシャを見ていた。


「生きた『供え物』はお前だけだった。そう、ここ百年ほどは……ああ、他のものは皆、死んでいたよ。私のところに届いた時には、皆、ただのむくろだった。大人に運ばれ、まるで隠すように祠に入れられていた。あまりにも可哀相だったのでな、私がここへ連れて来て、眷属にしたのだ。ほら、お前の足を洗いにやってきた者たちもそうだ。姉と一緒にどうしてか弟まで……どんな経緯で来たのかは分からんが、むごいものよ」



マーシャはショックに口をふさいだ。

花畑の後ろにあったあの塚は。

『人身御供の娘たち』の物ではなかった。

『供』になる以前に骸となって、ここへやられた死者たちの墓標だったのだ。


「山を蔑ろにしていたのは、村の者たちだったのですね……」

マーシャははらはらと涙をこぼした。

蛇神はおろおろとマーシャの周りをうろついた。


「ああ、泣くな。お前が泣くと俺は困ってしまう。どうする? 土を降らすか? 水を降らすか? 俺はどうでもよかったが、マーシャが望むならすぐにでも村など潰せるぞ。人間がおらずとも、木は生きる。山はずっと前から在るのだ。始めに還るだけだしな」


「いいえ。そんなことは望みません。でも、これから先の骸を無くさねば……不幸な娘を産み出したくありません」

「そうか。それならば、在るがままに任せよう。何、案じずとも良い。放って置いてもいずれこの村は滅びていた。だが、そうだな、骸を増やさぬために、少しばかり神らしく手助けをしよう」





山奥、崩れた祠があった。

そこは入ってはならない禁域であった。

村人たちは最初はそこにゴミを捨てていただけだった。

蛇神アレスは、そこへ一本の木を生やした。

木の裏など誰も見ない。見えない物陰となった塚には、日増しにより多くの塵が溜まっていった。

獣の死骸、食べ残し、割れた茶器、古い家具。

そして、次第に土壌の質は悪化した。

山の土が悪くなるというのは、雨水を濾過させる濾紙が傷むようなものだ。

次第に麓に流れてくる水は、不純なものを含むようになった。

そして――。




「大変です! 村長、村の者が暴動を起こしています」

「この野郎、魚が死んで全然取れねえんだ! 税なんて納めてられるか」

「洪水も、土砂崩れもなかったのに、作物も全然育たないわ! 去年と同じなんて無茶よ」

「デボラの野郎もいんだろ! 隠し立てしないで早く出せ!」

「取り立てばっかりして偉そうに! 知ってるのよ供え物の娘たちに手出してたこと」

「打ち壊せ!」


着の身着のまま、裏口から飛び出したデボラと村長の行方は誰も知らない。


残った兄弟たちは責任を押し付け合いながら、ある者は逃げ、ある者は残らざるをえず、村人たちからの追求や非難に耳を塞ぎながらその日暮らしをした。


村には少しずつ逃亡者が出始めた。

人身御供などという悪しき風習どころではなくなった。

このままでは餓死しかねない。

村人たちは、おびえながら明日を生きている。

荒れ果てて廃村になるのも時間の問題かもしれない。


しかし、誰も人間がいなくなっても山は栄え続けるだろう。


塵芥の全ては今や緑に覆い尽くされ、木々は茂っている。

蛇神の洞穴も、どこにあるのか分からなくなってしまった。

澄んだ湖の表面のような空は、鏡のように光る雨を落とし始めた。

もうすぐ穏やかに長く雨が降る季節が来る。


春の匂いが辺りに漂い始めていた。





END

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