小説は誰のためにあるのだろう
最近、AIで書かれた小説というものを読んだ。私は何も身構えていなかった。というより、作文というのは単純作業ではないから、そんな複雑な仕事を、コンピューターが代替えできるわけないと思っていた。要するに、馬鹿にしていた。できたとしても、どうせアマチュア作家の劣化コピー程度であろう、と。
ところが読んでみて、私は、めまいを覚えた。ショックだった。AIが、ちゃんと読める文章を書けている。どころか、ちゃんと読み物として成立している。何を持って「成立」とするかは、これはまた別の問題だがとにかく私はこう思った。
AIが小説を書く時代は、すでに到来している――。
そうすると、これは誰にとって問題だろうかと私は当然考えた。
私は元来作家タイプの人間だから、言いようのない危機感を覚えたわけだ。
しかし、ちょっと考えて私は、実は誰も困らないのではないかと、考えなおすに至った。
AIが小説を書けるようになるのは、作家の食い扶持という部分では問題だが、消費者――つまり読み手からすると、あまり問題ないように思えたからだ。読み手は、その作家のファンでない限り、「自分好みの面白い作品」が読めれば良い。誰が書こうが、さして問題ではない。
とすると、社会の中で物書きに属し、それで食っていっている人間は圧倒的に少ない訳だから、むしろ、読み手の視点で言えば、AIがたくさん面白い話を作ってくれるなら、その方が良い、という結論になるのではないか。最初は、AIの作品なんて不気味と抵抗があるかもしれないが、それは最初だけのような気がする。
だけど私は書き手だから、この問題はその視点に立ち返って考えてみないといけない。
AIが小説を書けるようになったとして。誰もが、そういうツールを使えば簡単に十万文字程度の長編が書けるような、誰もが、三千文字くらいのエッセイなら数秒でAIに書かせられるような時代になったとして。
果たして私は――いや、書き手の皆さん、皆さんは、書くのを辞めますか?
恐らく、AIとは競えないと思う。特に商業的には。人間が一文字を悩んでいる間に、AIは数本から数百本の作品を仕上げてしまうだろうから。
でも書き手はどうだろう。
馬鹿らしいと思って書かなくなる人もいるかもしれない。自分がそうなるかどうか、実のところ、わからない。というのは、もし、AIの文章なんて関係ないと端から思っているのなら、私はこんなにショックを受けていないはずだ。だから私は今、確実に動揺している。
皆さん、どう思っていますか。
対岸の火事だと捨て置けるかどうか。
小説は、一体誰のためにあるのだろうかと、そんな事を考える今日この頃。