5th BASE
一回表、ツーアウトランナー無しから打席に立った紗愛蘭が三球目を打ち返す。
ところが打球は一二塁間へのゴロとなる。美久瑠が投げたのはストレートではなく、打者の手元で沈むツーシームだった。紗愛蘭はこれをバットの下面で打ってしまったのだ。
「オーライ」
ファーストの一柳が打球の正面に入って捕球する。空いた一塁ベースには美久瑠がカバーに向かう。
「やなさん!」
グラブを出して呼ぶ美久瑠と歩調を合わせ、一柳が一塁に送球する。美久瑠はボールを掴んでからベース踏んだが、そのすぐ後ろまで紗愛蘭が迫ってきていた。
「おお! 危ない危ない」
判定は間一髪でアウト。美久瑠は咄嗟に一塁線の内側へと方向転換する。紗愛蘭がその反対方面へと駆け抜けたため、衝突は免れる。
「ごめんなさい、踽々莉さん。大丈夫でしたか?」
ほっと一息吐いて安堵した美久瑠は、紗愛蘭の身を案ずる。紗愛蘭としては特に接触も無かったため心配される理由が分からず、困惑気味に答える。
「え? ……ああ、大丈夫ですよ」
「それなら良かったです。せっかくの甲子園で怪我したら大変ですからね」
清らかそうな笑顔で言う美久瑠に対し、紗愛蘭は軽く頷いてからベンチに戻ろうとする。しかし美久瑠はまだ何か話したかったようで、背を向けた彼女を引き留める。
「あ、踽々莉さんに一つ聞きたいことがあるんです。踽々莉さんって、中学生の時に虐められてたんですよね?」
「えっ……」
紗愛蘭は絶句しながら足を止めて振り返る。美久瑠にとっては何の悪気も無かったのか、紗愛蘭の様子を見て不思議そうな表情を浮かべている。
「別にだからどうしたってことじゃないですよ。純粋に凄いなと思って。辛い経験を乗り越えて、今この舞台にキャプテンとしてたっている訳ですから。本当に尊敬します!」
「そ、そうなんだ……」
「君たち、私語は慎みなさい。攻守交替なんだから急いで」
一塁塁審から注意が入る。二人は共に「すみません」と述べ、早急に引き揚げていく。
「どうしたの紗愛蘭? 何か話してたみたいだけど」
「え? ああ……、ぶつかりそうだったから大丈夫でしたかって聞かれただけだよ」
グラブを渡しにきたチームメイトの質問に、紗愛蘭は内容の半分だけを伝える。それからそそくさとライトのポジションに走っていく。
(いきなりあんなこと聞くなんて、どういうつもりなんだ? 本人の言う通り単なる興味本位なの? だとしても普通プレー中に聞くかな……)
定位置に就いた紗愛蘭は一人で暫し考え込む。彼女が中学時代に虐めを受けていたのは事実。しかしそのことについて自分から口にしたことはほとんどなく、真裕たちにもほんの少し前に初めて話したぐらいだ。だからこれまで何の縁もゆかりも無かった美久瑠が知っているはずがない。
紗愛蘭の胸に仄かな澱みが生じる。彼女はそれを気にしないよう自らに暗示を掛ける。
(何にせよもう昔のことだ。今更どうのこうの言う話じゃない。渡さんが凄いと思っただけと言ってるんだし、そういうことにしておこう)
今は過去を思い出している場合ではない。紗愛蘭は目の前の試合に集中する。つい先ほど汗を拭ったばかりだが、彼女の額には多量の雫が光っている。
《守ります亀ヶ崎高校のピッチャーは、柳瀬さん》
一回裏のマウンドに真裕が上がる。もちろん彼女も甲子園のマウンドは初めてであり、まずはその感触を確と噛み締める。
(少し踏んだだけなのに、土の質が他の球場とは違うって分かる。そりゃプロ野球選手だって使うわけだもんね。けどここに立てた喜びだけで帰るわけにはいかない。必ず勝って日本一になる)
全身に鳥肌が立つほどの興奮を鎮め、真裕は改めて決意を心に宿す。まずは初回をきっちり抑えてリズムを掴みたい。
《一回裏、羽田共立学園高校の攻撃は、一番ファースト、一柳さん》
一番の一柳が右打席に入る。羽共打線は得点力こそ高くないが、少ないチャンスをしぶとく物にして着実に一点を積み重ねてくる。特にこの一柳を起点にして中軸が打点を上げるパターンが多く、亀ヶ崎バッテリーとしてはとにかく彼女を塁に出さないようにしたい。
「真裕、いつも通り腕を振って、思い切って攻めていこう!」
キャッチャーの北本菜々花の言葉に頷き、真裕は一柳と対峙する。初球のサインを簡単に決めると、大きく振りかぶって投球モーションを起こす。彼女の右腕から放たれたストレートが、菜々花のミットから短く快い音を引き出した。
「ストライク」
真ん中低めの球を一柳が見送る。まだ一つストライクを取っただけだが、一塁側スタンドからは得点でも入ったかのような拍手が鳴り響く。
(おお凄い! 一球投げただけなのにこんなにも湧くんだ)
真裕は思わずスタンドの方を振り向く。今日は普段観戦しないような生徒や学校関係者も来ており、その分だけ声援も増している。
ただしそれは羽共も同じ。三塁側のスタンドでは吹奏楽部を中心に応援歌が演奏され、選手たちを鼓舞する。こうした雰囲気が力に変わり、実力以上の活躍を見せる者も出てくるかもしれない。
二球目も真裕はストレートを続ける。今度は先ほどよりも少し内側に入った。一柳が引っ張っていくも、打球は三塁線から大きく外れて転がる。
見送りストライクとファール、球種はいずれもストレートと、一回表の始まりと全く同じ流れで真裕が一柳を追い込む。彼女にはスライダーという決め球があるものの、基本的には試合中盤から終盤に掛けて使うことにしている。そのためここは他の球種で仕留めることとなりそうだ。
(真裕の真っ直ぐは今日もよく走ってる。一柳はここからミートポイントを下げるだろうし、内の真っ直ぐで差し込んでやろう)
(了解)
菜々花の考えに賛同し、真裕がサインに頷く。三球目、再び投じられたストレートが一柳の臍の前を貫こうとする。ところが一柳は瞬時に体を回転させてしっかりと打ち返した。
「サード!」
「くっ……」
鋭いゴロが三塁線を襲う。オレスが咄嗟に跳びつくも、打球は彼女のグラブの先を通過して外野へと抜けていく。
一柳は勢い良く一塁を蹴った。ヘルメットの中から項付近で纏められた長い髪が露わになる。レフトからの返球は中継で止められ、彼女は悠々と二塁を陥れる。
See you next base……