51st BASE
「ただいま」
午後の補習も受け終え、私は学校から帰宅する。プロのスカウトがやってきたことが衝撃過ぎて補習の内容は全く頭に入っていない。
「おう、お帰り」
お父さんもお母さんも仕事から帰ってきておらず、家にいるのはリビングのソファに座ってテレビを見ているお兄ちゃんだけだった。今日は外出しなかったらしく、昨夜見た寝間着姿と同じ格好をしている。
「始業式って午前中で終わるはずだよな。補習か?」
「そうだよ。受験生だからね」
私はそう言って床に鞄を置く。その所作の重々しさに感じることがあったのか、お兄ちゃんは重ねて尋ねてくる。
「どうしたんだよ、何かあったか?」
「いや別に……、……まあ、あったと言えばあったかな」
言葉を濁してやり過ごそうと思った私だったが、咄嗟に言い換える。お兄ちゃんに触れてほしいという気持ちがふと働いたのだ。
「何だよその言い方。気になるじゃん。何があったんだよ?」
思惑通りお兄ちゃんは食い付いてきた。自分から切り出すのが恥ずかしかった私は、ぶっきらぼうな振りをして答える。
「今日ね、ドラゴンズのスカウトが来たの。来年から女子チームを創るから、私に入ってもらえないかって」
「まじ⁉ やばっ」
普段はあまり感情の起伏を見せないお兄ちゃんが、その時ばかりは声を上げて驚く。事が事なのでこんな反応になっても不思議ではない。
「ドラゴンズって……、あのドラゴンズだよな?」
「そうだよ。大学に通いながらチームの活動に加わっても良いんだって。スカウトの人が言うには女子プロだと一般的な話らしい」
「へえ。まあ男子みたいに何千万と普通に稼げそうな感じは無いよな。……で、プロに行くのか?」
「……迷ってる」
「え! 迷ってんの?」
お兄ちゃんは私の言葉に食い入るような勢いで声を発する。かつてはプロ野球選手を目指してプレーし、もう少しでその夢が叶いそうだったお兄ちゃんのことだ。私が即断でプロの誘いを受けないことに懐疑的になるのも分かる。
「何でだよ。俺みたいに怪我してるわけじゃないだろ?」
「うん。そこは大丈夫だと思う。監督たちもその辺は気を遣ってくれてたし」「じゃあどうして?」
私は返答できずに黙り込む。迷う理由は何か。そう問われると答えが浮かばない。私自身にも分かっていないのだ。
「……ま、お前の人生だからな。俺がどうこう口出しすることじゃない。自分の道は自分で決めなきゃいけないんだし、じっくり時間を使って考えろ。向こうだってすぐに答えを出せとは言ってないんだろ?」
「うん。将来のことだからすぐは決められないよねって言ってくれた」
「そりゃそうだ。じゃあ焦って決める必要は無いな」
自分で言って自分で頷くお兄ちゃん。私は着替えを持ち、浴室に向かおうとする。
「ああ真裕、ちょっと待って」
「何?」
「えっと……、俺が口出しすることじゃないとは言ったけど、一つだけ言わせてもらっても良いか?」
「もちろん」
私は足を止めてお兄ちゃんの方に振り返る。対するお兄ちゃんはテレビを見たままだったので、その表情は確認できない。一度躊躇ったように間を空けたお兄ちゃんだが、改めて徐に口を開く。
「……もしも真裕がプロに挑戦したいって少しでも考えてるなら、絶対に行った方が良いぞ。色々と迷った以上はどんな選択をしても後悔するかもしれないけど、やらなかった後悔よりも大きなものは無いと思う……」
お兄ちゃんは高校三年生の時、プロ野球チームからドラフト指名するかもしれないという連絡を受けていた。形は違えど今の私と同じような状況である。
しかしお兄ちゃんはプロ志望届を出さずに進学した。大学でも野球部に入ったものの、入部僅か半年後に肩の故障が発覚。その時点でプロへの道は絶望的になってしまった。
故障した結果だけを考えれば、仮に高卒でプロ入りしていたとしても、お兄ちゃんが活躍できた可能性は高くなかったかもしれない。お兄ちゃん自身もある程度覚悟していたようだし、言動を聞いても吹っ切れられているのだと感じる。
だが心のどこかにはきっと、あの時プロの道を選んでいれば違う未来があったのではと悔やむ部分もあるのだろう。そんなお兄ちゃんの言葉は、私の胸に重たく突き刺さる。
「……と言ってもあくまで俺個人の意見だからな。そんなことも言ってたなあって頭の片隅にでも入れてくれれば良い」
お兄ちゃんは淡々と話す。だがその声の中には微かな照れ臭さが混じっている気がして、私の心は温かくなる。
「ううん、参考にさせてもらうよ。ありがとうお兄ちゃん」
私は仄かに相好を崩し、お兄ちゃんに礼を言う。その後テレビから聞こえてくる賑やかな笑い声を背にリビングを後にした。
夜。夕飯を食べ終え自分の部屋に入った私は、真っ先にベッドで仰向けになる。受験生という立場である以上勉強の手を止めてはならないが、今の私はそのプレッシャーすら湧き上がらない。
私の進みたい道とは何か。プロに挑戦したい気持ちはあるのかどうか。すぐに答えが出そうなのに、すっきりと心を決められない。
お父さんとお母さんにも今日のことは話した。共にとても喜んでいた一方、たとえプロに進まなかったとしてもその選択を尊重すると言ってくれた。逆に言えば私は自分自身で決断を下すしかないということだ。当然と言えば当然だが、悩みは益々深くなる。
今日はもうどれだけ考えたところで答えは出ない。他のことをやろうにも気が散って集中できそうにない。私は部屋の電気を消し、早々に寝床に就くのだった。
寝ている最中、私はとある夢を見た。満員の観客で埋め尽くされたドーム球場。その中心となるマウンドに私は立っている。
打席には楽師館高校の円川万里香ちゃん、ネクストバッターズサークルには奥州大付属の小山舞泉ちゃんがおり、どうやらこの二年半で出会ったライバルたちと対戦しているらしい。誰一人として高校時代のユニフォームは着ておらず、これが一体何の舞台なのか、どんな状況なのかは全く分からない。
しかし一つだけはっきりと感じられることがあった。それは私の体と心が終始震え続けているということだ。
See you next base……




