43rd BASE
延長八回裏、ツーアウトランナー一、三塁。真裕は代打の児島に対してスリーボールとしてしまったが、そこから決め球のスライダーを連投し、フルカウントまで持ち直す。
「柳瀬、急ぐなよ! 自分のリズムで落ち着いて投げろ!」
スタンドから丈が声を上げる。あと一つのストライクで勝利となるが、それを決して口には出さない。投手からすればプレッシャーにしかならないと分かっているからだ。左の手首を握って逸る気持ちを抑え、真裕が冷静に投げられるような言葉を掛ける。
(柳瀬、ようやく約束を叶える時が来たぞ。絶対に抑えろ!)
一年生の時に二人で交わした誓いを、丈は一足先に果たした。そして今度は真裕が果たそうとしている。互いに切磋琢磨してきた二年半を最高の形で締めくくれるか。
「ふう……」
真裕が長細い息を吐き出しながらセットポジションに就く。亀ヶ崎ナインから彼女へ、羽共ナインからは児島へ、各々に残っている力を振り絞ったような激が飛ぶ。
「真裕、私たちが付いてるよ!」
「自信持って、一番良い球で攻めてやれ!」
「児島さん、最後まで思い切って振っていきましょう!」
「フォアボールなんて考えず、自分で決めちゃってください!」
最後に笑うのはどちらのチームか。真裕と児島が運命の一球に臨む。両者共に胸が張り裂けそうなほどの心音に襲われているが、それだけ痺れる勝負ができるのは、この瞬間、野球の神様に選ばれた彼らのみ。これから先どれだけ野球を続けても味わえないかもしれない緊迫感に至高の幸福を感じつつ、二人はこの一投一打に全てを賭ける。
(……私は打つ。私なら打てる! そのためにここまでバットを振ってきたんだ!)
(亀ヶ崎に入ってから、正直言うと苦しい気持ちになることの方が圧倒的に多かった。けどそれはきっと、このピンチを乗り切るためにあったんだ。……だから、絶対に打たれてたまるもんか!)
真裕が足を上げて投球モーションに入る。喜び、悲しみ、苦しみ、痛み、これまでの自分を創り上げてきた全ての感情を解き放つかの如く右腕を振り抜き、児島への六球目を投じる。
(打てるものなら、……打ってみろ!)
渾身の力を込めたスライダーが、四球目と同じくど真ん中から内角低めに向かって曲がる。児島は変化の軌道を読んで投球の着地点を導き出し、フルスイングで迎え撃った。
「真裕!」
「児島さん!」
「柳瀬……!」
仲間たちが二人の名を叫ぶ中、勝負は決する。白球の行方を見届けた真裕は空を見上げ、こう言葉を漏らす。
「終わった……」
刹那、亀ヶ崎の選手たちが一斉にマウンドへと集まってきた。最初にやってきたのは菜々花。彼女のミットの中には白球が収まっている。
最後の一球は児島の分析を上回る変化を見せ、彼女のバットには掠りもなかった。一年生時に抱いた苦悩をきっかけに習得し、失敗や試行錯誤を重ねながら磨き続けたウイニングショットが、最後の最後に真裕を栄光へと導いたのだ。
「やったぞ真裕! 優勝だ!」
菜々花が真裕に抱き着く。集中力が切れて一瞬呆然としていた真裕も我に返り、喜びを爆発させる。
「……勝った、勝ったんだよね? ……やったやった!」
真裕が右の人差し指を突き上げる。他の選手も彼女に続いて天を指差し、頂点に立った証を示す。
「……やったな、柳瀬。おめでとう」
スタンドの丈は感慨深そうに目を細め、真裕たちを拍手で祝福する。その隣では暁が感極まって号泣していた。
「……良かった、ほんとに良かった。うう……、紗愛蘭ちゃん、やったね」
「ちょっとちょっと、どうしてあっきーが泣いてるの? 勝ったんだから喜ばないと。ね、篤乃」
千恵が暁の背中を摩って宥めつつ、篤乃に同意を求める。ところがよく見ると、篤乃の目にも薄らとだが雫が光っているではないか。
「おやおや? ……あらま、篤乃さんも泣いてるじゃないですか!」
「へ? ……いや、な、泣いてないから!」
篤乃は即座に千恵の言葉を否定し、平静を取り繕おうとする。しかし体は怒涛の如く沸き上がる激情を堪えられない。次から次へと涙が溢れ出てしまう。
「……ちょ、ちょっと待って! 何で……、優勝したのは紗愛蘭なのに、何で私が……」
必死に目元を拭って誤魔化そうとする篤乃だったが、時既に遅し。横にいた小春が頭を撫でて彼女を諭す。
「ふふっ、それだけ嬉しかったってことだよ。篤乃は紗愛蘭のこと大好きだからね」
「そ、そんなことないから……」
篤乃は最後まで強がろうとする。その姿を微笑ましく、丈を含めた全員に穏やかな笑みが零れた。
亀ヶ崎に歓喜の輪が広がる一方、三塁側ベンチの羽共ナインは悔しさを噛み締める。中でも美久瑠は試合が終わった瞬間に顔を伏せ、咽び入ってしまった。彼女の元には一柳が歩み寄り、肩を優しく叩いて慰める。
「泣くなよ美久瑠。ここまで連れてきてくれてありがとう」
「ぐすっ……、……ごめんなさい、ごめんなさい」
美久瑠は只管に謝罪を述べる。真裕にホームランを打たれていなければ、その前の七回裏を抑え切っていれば――。後悔と不甲斐無さが体内を駆け巡り、申し訳無い気持ちで一杯になる。
「美久瑠が謝る必要なんて無いでしょ。寧ろこっちは感謝してるんだから。……さ、胸を張って整列しよう!」
一柳が美久瑠を抱きかかえるようにして立ち上がらせる。泣きじゃくる美久瑠とは対照的に、一柳の表情は非常に晴れやかで清々しい。全国制覇こそ逃したものの、甲子園球場という聖地に立てたこと、そしてこれほどの激闘ができたことに、心は満たされている。
「……美久瑠、来年こそ日本一になれよ」
「はい……、もちろんです」
美久瑠は顔を真っ赤に腫らしながらも、一柳の言葉に力強く頷く。夏大の悔しさは夏大で晴らすしかない。来年は自分がマウンド上で快哉を叫ぶと、彼女は心に誓うのだった。
「六対四で亀ヶ崎高校の勝利。礼!」
「ありがとうございました!」
両チームが試合終了の挨拶を交わす。持てる力の全てを出し切って戦った選手たちには、観客から惜しみない拍手が送られる。
亀ヶ崎高校女子野球部、悲願の全国制覇を達成。甲子園球場に決勝の舞台を移した最初の大会で、初の栄冠に輝いた。
See you next base……