42nd BASE
八回裏、ツーアウトながらランナー一、三塁のチャンスを作った羽共は、代打の切り札である児島が打席に立つ。
注目の一球目、真裕は外角低めにストレートを投じる。だが僅かに外れており、児島が見送ってボールとなる。
(やはり真っ直ぐから入ってきたな。際どいコースを突いてきたのは私が積極的に打ちにくることは警戒してからか。皆の話を聞く限りじゃ球威はそれほど落ちてないみたいだけど、私にとってはあまり重要なことじゃない。打てると思ったら度胸を据えてスイングするだけだ)
児島は一年近くに渡って代打としての出場を続け、必要な心得を身に付けてきた。中でも特に大事だと考えているのは、狙い球をしっかりと定め、それが来たら初球であろうとボール先行のカウントであろうと構わずバットを振ること。待球の指示が出るなど特別な事情が無い限り、彼女はそれを実行する。この打席も例に漏れないため、次の一球で決着が付くことも有り得る。バッテリーは一瞬たりとも気を抜けない。
(できれば一球目からストライクが欲しかったな。ただ真裕もちゃんと腕を振って投げてきてるし、その結果がボールなら仕方が無い。こういう球も活かしてリードするのが私の役目だろ)
二球目、菜々花はカーブを要求する。インローへと曲げてストライクを取ろうと考えた。
「ボール」
しかし真裕の投球は外に大きく抜けてしまった。これでは児島も全く反応しない。
中々ストライクを取れないバッテリー。児島が出塁すれば逆転のランナーとなる上、一塁ランナーの中ノ森も得点圏へと進めてしまう。当然ながら安易に勝負を避けるわけにもいかない。
「ふう……」
真裕が天に向かって息を吐き出す。自分としては普段通り投げているつもりだが、全国制覇への意識や打たれたくない気持ちがどうしても強くなり、自然と余計な力が働いてしまっている。
(ずっと代打をやってるのもあるんだろうけど、児島さんはこの状況でもどっしりと構えてるな。正直こっちからすると凄く投げにくいよ。このままだと向こうにペースに呑み込まれちゃうし、打ち気を逸らしつつ早めにカウントを整えないと)
三球目、真裕は甘く入らないよう気を付けながら低めにストレートを投じる。投球は概ね狙ったコースに行き、菜々花のミットに収まる。
「ボールスリー」
「おっと……」
ところが球審の手は挙がらない。厳しい判定に、真裕は口を尖らせて不服な思いを露わにする。
(今のはストライクを取ってくれても良いんじゃない? それボールはきついって……)
返球を受け取った真裕は、児島から背を向けてロジンバッグに触れる。スリーボールになったのは想定外。心の中には歩かせても良いのではないかと迷いが生じる。
(児島さんはこのカウントからでも普通に打ってくる。長打で外野の間を抜かれたら同点だし、仕切り直して次のバッターと勝負するのもありだ。菜々花ちゃんはどう考えてるのかな?)
先ほどタイムを取ったため、ここで菜々花がマウンドに行くことはできない。バッテリーはサインのやり取りで意思疎通を図るしかないのだ。真裕はロジンバッグを置き、振り返って菜々花からのサインを伺う。
「え?」
すると真裕は間の抜けた声を上げてしまう。どうやら予想だにしないサインが出たようだ。
(……待てよ、これって……)
だが真裕は何かを思い出した。それと同時に彼女の眼差しが引き締まり、迷いも晴れていく。
(菜々花ちゃんは“あれ”をやるつもりなのか……。ここから児島さんを抑えるようと思うなら、多分この方法しかない。だったら私も覚悟を決めないと!)
真裕がサインに頷いてセットポジションに入る。彼女は大きく足を上げ、ゆったりと溜めを作ってから児島への四球目を投じる。
投球の向かった先は、何とど真ん中だった。児島は自らの信念に従ってカウントを気にせず打ちに出る。
ところがバットは空を切った。不思議に思った児島が菜々花のミットの位置を確認すると、彼女の膝元にあるではないか。
(……何? 確かに最初は真ん中に来てたはず。カーブのような緩やかな軌道でも無かった。ということはまさか……!)
児島が目を見開いて驚く。真裕が投じたのはまさかのスライダー。児島としては全く頭に無く、ストレートだと思ってスイングしてしまった。
(私が打ってくると踏んでたんだろうけど、それにしてもここでスライダーを使うか。この後の配球はどうするつもりなんだ? 考えられる可能性は一つしか無いぞ)
ボールカウントは依然としてバッテリーが不利な立場にある。次のストライクをどう稼ぐかだが、児島は何となく予想が付いていた。そしてその予想は的中する。
五球目、真裕の投球は外のボールゾーンに放たれる。このまま二球目のように外れると思われたが、ベース手前で鋭く曲がり始める。またもやスライダーだ。
だが児島も怯むことなく打ちにいく。投球がストライクゾーンに入ってくるのを見定め、ミートポイントに合わせてスイングする。
「ファール」
短い金属音と共に打球が菜々花の背後に転がる。児島は僅かにボールの上面を叩き、捉えることができなかった。しかしこれまでどの打者も空振りしてきた真裕のスライダーをバットに当ててみせた。それだけで価値があり、彼女としても自信を持てる。
(思ったより変化が大きかったな。けど今ので大体の球筋を把握できた。次は打てるぞ)
本来ツーストライクを取られた打者としては、全ての球種に対応できるようにしておかなければならない。だが児島はスライダーしか来ないと確信していた。事実、バッテリーにもスライダー以外の選択肢は無い。
(とりあえず追い込むところまでは順調に来たな。怖さが無いわけじゃないけど、この策を使うと決めた以上は後戻りできない。一気に決める)
菜々花は不安を抱えながらも手応えを感じる。スリーボールからのスライダーの連投。この配球はバッテリーが夏大直前に編み出した奥の手だった。どうしようもなく追い詰められた時のために取っておいたのである。
(いつか使うかもって菜々花ちゃんと話してたけど、それが最後の最後に来るとはね。寧ろ最後の最後だから使うべきなのか)
真裕は素手でボールを拭く仕草をし、少し間を取る。こうなったからには絶対に抑えなければならない。もしも打たれてしまえば、それはスライダーが攻略されたと同義である。如何に真裕でも後続を断つのは困難になる。
(ここで児島さんが打てば流れは完全に羽共に傾く。ここで必ず食い止める。私のスライダーなら、それができる!)
次の一球で勝負が決する。もはや児島だけでなく、他の選手、更には観客のほとんどが、菜々花から何のサインが出るか容易に分かっている。それでも真裕は躊躇い無く頷いた。
See you next base……