38th BASE
延長八回表、亀ヶ崎はあっさりツーアウトを取られるも、八番の昴がヒットで出塁し、九番の真裕に回る。
初球、アウトローのストレートがストライクとなる。真裕としては引いてしまえば美久瑠に攻め込まれると分かっていても、こうして四隅を突かれては中々バットを出せない。
(渡さんのコントロールは相変わらずか。少しでも甘くなってくれれば良いけど、あまり期待はできないな。チャンスがあるとすれば次のストライク。厳しいコースでも芯で捉えればヒットになる)
二球目もストレートが続く。美久瑠はインコースへと投じ、真裕に腰を引かせる。
「ボール」
これでワンボールワンストライク。並行カウントではあるものの、自らの意図した投球ができている点で美久瑠が優位に立っていると言える。
(柳瀬さんは良いバッターだけど、踽々莉さんやネイマートルには及ばない。コントロールに気を付けて丁寧に投げれば打ち取れる)
美久瑠は一旦額の汗を拭って間を取る。背中から腰に掛けて疲労感が押し寄せ、身体的には苦しさを感じている。それでも気力は衰えない。他を凌駕する勝利への執着心が、彼女を突き動かし続ける。
最後に軽く息を吐き出し、美久瑠はプレートを踏んで三球目のサインを伺う。乃亜の要求はチェンジアップ。あっさり承諾した彼女はセットポジションに入ると、短い静止時間で投球モーションを起こす。
美久瑠から投じられたチェンジアップが真ん中やや内寄りのコースに行く。真裕の始動に合わせるようにしてブレーキを掛け、低めへと沈む。
しかし真裕もスイングを止めない。目の前に来た白球だけを見つめ、体を鋭く回転させてバットを振り抜いた。刹那に響く快い金属音が、甲子園球場の夜空に溶けていく。
打った真裕、投げた美久瑠、グラウンドに立つ選手や首脳陣、そしてスタンドの観客全員が、まるで時が止まったかの如く一瞬静まり返る。彼らの見つめる先で、球児たちの汗と血と涙が染み込んだ小さな丸い結晶が高々とレフトに舞う。
「レ、レフト! レフト!」
咄嗟に叫んだ乃亜の声を受け、レフトの吉田が何メートルも後方に全力疾走する。だが打球は一向に落ちてこない。彼女にできることは最早、フェンスの遥か奥に着弾する白球を見送ることだけだった。
「え、え?」
真裕は反射的に走り出していたものの、頭の中では何がどうなっているのか処理できていなかった。他の亀ヶ崎ナインもすぐに状況を飲み込めず、あっけらかんとしている者も少なくない。それだけ俄には信じがたいことが起こったのだ。
「君、君、ホームランだよ。ナイスバッティング」
覚束無い足取りで一塁まで達した真裕に、塁審が抑揚の無い声色で伝える。そこでようやく真裕は自信がホームランを放ったと理解する。
「まじか……。うおし! よし、よし!」
球場が大歓声と拍手に包まれる。中でも丈は自身がマウンドで見せるような雄叫びを上げていた。
真裕はベースを踏む感覚を一つ一つ確かめながら、時間を掛けてダイヤモンドを一周する。本塁では次打者の京子が両腕を広げ、満面の笑顔で迎える。
「真裕、ナイスバッティング! ホームランなんて凄過ぎだよ!」
「……ほんとにホームランなんだよね。……やった、やったよ京子ちゃん」
最後のベースを踏んだ真裕は飛び付くようにして京子と抱擁を交わす。彼女の声を震えていた。嬉しいことは間違いないが、あまりに予想外の出来事に喜びよりも驚きが先行して身体中を駆け巡っているのだ。
ともあれこのホームランで二点が入った。スコアは六対四と変わり、亀ヶ崎が遂に遂に前へと出る。
「……いやあ、飛んだねえ」
マウンドに目を移すと、美久瑠が打球の落ちた地点を見つめ立ち尽くしている。真裕とは対照的に自分でもびっくりするほど落ち着いており、たった今起きた事もすんなり受け入れられた。
(甘く入っちゃったなあ。けどそれがホームランになるなんてね。私が言っちゃ駄目だけど、ナイスバッティングだよ)
美久瑠は打たれた一球を振り返る。乃亜に要求されたコースは外角低め。真裕のバットが届かない場所にチェンジアップを落とし、空振りさせる目論見だった。
しかし実際の投球は内角に入った上、決して低いと言える高さではなかったため変化も小さくなった。その結果、真裕が迷わずフルスイングできる絶好球となったのだ。
ここまで抜群の制球力を誇っていた美久瑠の、唯一と言っても良い失投。それが運命を分ける一球となってしまった。
だが実のところ、一つ前の打者である昴の時から悪い兆しは出ていた。彼女の三球目に投じたカーブは、本来はもうボール一個分、低めを狙ったものだったのだ。もしも狙い通り投げ切っていれば昴は空振りしていたかもしれない。
これに関しては乃亜も気掛かりだった。残りワンナウトのところまで来ていたため何とか持ち堪えてほしかったが、真裕も昴もこの僅かな綻びを見逃してはくれなかった。
「美久瑠……」
乃亜、更には内野陣が美久瑠の身を案じて駆け寄ろうとする。ところが彼らの懸念は直ちに一蹴される。
「……おし、反省終わり! 次行くよ次!」
美久瑠は途端に大声を発し、本塁へと振り返る。彼女に近付いていた選手たちは思わず足を止める。
「ん? 皆どうしたんですか? 何か集まろうとしてるみたいですけど」
「どうしたじゃないよ。美久瑠を励まそうとしにきたんでしょ」
困惑する美久瑠に、いち早く傍にいた乃亜が呆れたように答える。他の選手は笑みを零し、乃亜に託して各々のポジションへと引き揚げる。
「そうなの? 私は全然大丈夫だよ!」
「確かにそうみたいだね。心配して損した」
「当たり前じゃん。だってまだ試合はまだ終わってないんだよ。二点を取られたなら、裏の攻撃で取り返すだけじゃん。何なら三点取って勝ったって良いんだし」
美久瑠は左拳を握り、乃亜に見せる。彼女はまだ戦意を失ってはいない。元より二点リードを許した程度で諦めているようでは、今この舞台にすら立てていないだろう。
「それをお前が言うか……。まあ良いや。じゃあ次のバッター抑えて、攻撃に弾みを付けるよ」
「うん! 任せて!」
二人はグラブを重ね、改めて互いの闘志を注ぎ合う。たとえ劣勢であろうと、バッテリーが活き活きとした姿を見せれば野手の心にも火を灯せる。
《一番ショート、陽田さん》
亀ヶ崎打線は五巡目に入る。二点をリードしたと言っても決して安心できる状況ではない。七回表のようにツーアウトから京子がチャンスを作り、クリーンナップで追加点を奪いたい。
See you next base……