35th BASE
七回表、亀ヶ崎の攻撃は同点止まりで終了となる。踏ん張った美久瑠は笑顔を見せることなくマウンドを後にする。
「美久瑠、ありがとう。おかげで冷静になれたよ」
「乃亜が崩れたら私も苦しくなっちゃうからね。追い付かれたのは残念だけど、そこで止められて良かった。次の攻撃で終わらせよう。乃亜にもサヨナラのチャンスで回ってくるかもしれないし、その時は頼んだよ」
「もちろん。任せて」
美久瑠の言葉に乃亜が力強く頷く。ここから羽共が勝利するシチュエーションはサヨナラのみ。劇的な幕切れで優勝を決められるか。
一方で亀ヶ崎からすると今までとは違う類のプレッシャーが掛かる守りとなる。追い付いたことで活気付くのは良いが、度が過ぎて浮き足立たないよう注意しなければならない。その点は紗愛蘭も弁えており、守備に就く前に今一度ナインの気を引き締める。
「追い付けて本当に良かった。けどだからこそ、一人一人がもう一回集中し直そう! この後を抑えて、次の回で勝ち越すよ!」
「おー!」
亀ヶ崎の選手たちがベンチを出ると、球場全体から割れんばかりの拍手が起こる。七回表の同点劇は、見る者全ての胸を打つものだった。
「紗愛蘭、ナイスバッティング! かっこ良かったよ!」
ライトへ向かう途中で一塁側スタンドの前を通った紗愛蘭に、千恵たちが大きく両手を振って声を掛ける。それに気付いた紗愛蘭は驚きと喜びを混在させながら顔を綻ばせ、帽子の唾に軽く触れて三人に応える。
(あっちゃんたち、観にきてくれてたんだ。……ありがとう。不甲斐無いまま終わらなくて本当に良かったよ)
篤乃たちの存在は紗愛蘭に一層の勇気を与える。より近くで観戦しようと階段を降りた彼らは、その先で暁の姿を発見する。
「お? あれってあっきーじゃない? おーい、あっきー!」
千恵が背中越しに暁を呼ぶ。それに反応して振り返った暁は、帽子を脱いで三人に挨拶する。
「あ、皆さんもいらしてたんですね。こんにちは」
「こんちはー。それがさ、私たち今来たところなんだよね。スタンド入ったら最終回なんだもん。びっくりしちゃった。ほんと、何でこうなったんだ……」
「お前のせいでしょ!」
「千恵が悪いんでしょ!」
篤乃と小春が千恵の言葉を遮って突っ込む。千恵は苦々しく白い歯を零し、反省しているのかいないのか分からないトーンで謝る。
「あ、そうだった。ごめんごめん」
「えっと……、何かあったんですか?」
「聞いてよ暁くん。千恵の奴、一人で東京方面の新幹線に乗っちゃってさ。ほんとなら試合開始の一時間くらい前に着く予定だったのに……」
暁の疑問に小春が疲労感を漂わせながら答える。本来なら一時間程度で大阪まで来られるはずが、千恵の乗車間違いによりその三倍近くの時間を要した。相当な苦労だったことは容易に想像できる。
「あら……、それは大変でしたね」
「ほんとだよ。今時小学生でもこんなミスしないって」
「ああ……」
暁は何と返して良いか分からず、ただただ苦笑するしかない。三人とも暁とは中学生の時から面識はあった。暁が紗愛蘭と恋仲になったことで関わる機会も増え、今では普段からこうして話を交わす間柄となっている。
「とりあえずこっちの席にどうぞ。詰めますんで」
そう言って暁が奥に移動する。すると隣にいた丈も篤乃たちに気付いた。
「お、林だ。よお」
「どうも。あんたら二人、並んで観戦してたのね」
「えっ、皆さん知り合いなんですか?」
暁が丈と篤乃たちを交互に見ながら尋ねる。その質問に篤乃が応じる。
「そりゃまあ、椎葉とは同級生だからね。私に関しては同じクラスだし」
「へえ、そうだったんですか。というか、椎葉って……」
咄嗟に暁が丈と顔を合わせる。丈が自ら名乗るべきか迷うような素振りをしたため、代わりに小春が回答する。
「そう、亀ヶ崎の男子野球部を初の甲子園出場に導いた大エース。椎葉丈様だよ」
「ちょっと宮下、変な紹介のし方止めろ」
「え? 事実じゃん」
眉を顰めて恥じらう丈に対し、小春は悪戯っぽく舌を出す。その真ん中に立っていた暁は慌てふためきながらこれまでの接し方を丈に詫びる。
「あ、貴方が椎葉さんだったんですね。そうとは知らず、生意気な口を聞いてしまってごめんなさい!」
「いや、そんな謝らなくて良いよ。別に生意気でも何でもなかったし。それより君が踽々莉の彼氏だったんだ。こっちとしてもびっくりだよ」
丈が暁に顔を上げるよう促す。彼が常に声を切らさず応援していた姿を見ていたので、紗愛蘭に対する愛情の深さは菱と感じている。
「そう言う椎葉君はどうなのさ。真裕っちといつになったら付き合うの?」
「は⁉ な、何でそういう話になんだよ」
千恵から横槍を入れられ、丈がたじろぐ。これには暁も興味津々で食い付く。
「あ、それ紗愛蘭ちゃんも言ってました。まだ付き合ってないんですね」
「まだってどういうことだ、まだって! ……てか何で踽々莉も話してんだよ。俺のことなんて良いから、試合に集中しろ!」
「えー。どうしてはぐらかすの? ひょっとして上手く言ってない?」
「別にそういうことじゃねえから! 普通だよ普通。ほら、再開するぞ」
丈が千恵の揺さぶりを振り切るようにグラウンドを指差す。四人とも彼と真裕の関係をもっと深掘りしたかったが、実際に七回裏が始まろうとしていたため名残惜しくもそちらに目を向ける。
《七回裏、羽田共立学園高校の攻撃は、一番ファースト、一柳さん》
この回の羽共は一番から攻撃が始まる。今日最も当たっている一柳が先頭打者となり、打順の巡りとしては最高だ。
改めて述べるが、羽共に一点でも入ればその瞬間に試合は決する。真裕は何があろうと無失点に抑えなければならない。
(京子ちゃん、ゆりちゃん、紗愛蘭ちゃん、オレスちゃん、皆ありがとう。次は私だ)
真裕は一度プレートの後ろにしゃがみ、ロジンバッグを触りながら精神統一を行う。時間にして約十秒。言葉で表すと短いが、真裕自身の体感としてはその何倍にも長く感じられた。両耳を震わす大歓声の煩わしさが心地好さに変わるのを待ってから立ち上がり、彼女は一柳と対峙する。
See you next base……




