2nd BASE
高校野球の聖地、阪神甲子園球場。どこのチームに属そうと、どのような環境に身を置こうと、この地に憧れを抱かない高校球児はいない。
甲子園大会の歴史は百年にも及ぶが、それは永らく男子だけのものとされてきた。ところが二〇二一年より、女子野球でも夏の大会の決勝戦に限って甲子園球場で開催されることが決定。その記念すべき最初の一戦に、亀ヶ崎高校が出場する。
試合開始予定の十七時から二時間ほど前、亀ヶ崎ナインは宿舎から球場へと移動してきた。グラウンドが使えるようになるにはまだ少し時間があり、彼らは待機場所で応援に駆け付けた友人家族と挨拶を交わす。
「真裕、おーい!」
柳瀬家からは両親と兄が家族総出で参戦。父の小雨はバスを降りてきた真裕を見つけるや否や、両手を高く掲げて娘の名を叫ぶ。その声は周りにいたほとんど人が振り返るほど大きく、真裕は恥ずかしさを押し殺しながら慌てて駆け寄る。
「ちょっとお父さん、燥ぎ過ぎ。皆こっち見てるじゃん」
「え? ……あ、ごめんごめん。真裕に会えたのが嬉しくなっちゃって。えへへ」
「まったくもう……」
締まりなく若気る小雨に対し、真裕は呆れることすら忘れて空虚な表情で溜息を吐く。それを見ていた母のハルと兄の飛翔は、いつもと変わらぬ光景だと苦々しくも和やかに口元を緩めた。
「ごめんね真裕。お父さん、今日のために仕事を前倒しで片付けて、頑張って休みを取ってきたの。多少面倒臭いのは許してあげて」
「それは嬉しいけど……」
ハルに宥められ、真裕は口を尖らせて複雑な胸中を露わにする。父の溺愛ぶりは煩わしく感じることも多いが、全てが全て嫌なわけではない。思春期にありがちな悩みだろう。
真裕がこうして家族との時間を過ごす一方、主将の紗愛蘭は一人の青年と談笑している。
「暁君、来てくれてありがとう。ここまで大変だったでしょ」
「全然そんなことないよ。俺が来たくて来たわけだし」
細身で中性的な顔立ちながらも包容力を秘めた微笑みを浮かべる青年の名は、美波暁。紗愛蘭の恋人である。二人は同じ中学校出身で、学年は紗愛蘭が一つ上。昨年の冬、暁が中学時代から抱いていた恋心を実らせて交際に発展した。付き合って以降は紗愛蘭がチームメイトには話し辛いことを相談するなど、互いに支え合う関係が築けている。
「そう? けどほんとにありがとう。……あ、それ付けてくれたんだ」
紗愛蘭は暁が掛けていた黒のポーチを指差す。そのファスナーの持ち手部分には、四葉のクローバーの半分を象った銀色のキーホルダーがぶら下がっている。
「当然だよ。せっかく買ったんだからね。紗愛蘭ちゃんも付けてる?」
「もちろん! 私のは部活用のボストンバッグに付いてるよ」
若干頬を赤らめ、小さく口角を持ち上げる紗愛蘭。どうやらキーホルダーの片割れは彼女が所持しているようだ。
「紗愛蘭ちゃん、今日は目一杯まで応援するよ。声を枯らす準備はしてきたからね!」
暁は胸の前で両拳を握り、風貌に似合わないファイティングポーズを作る。そのギャップが可愛らしく思えた紗愛蘭は不意に彼の頭を撫でたくなったが、今は公共の場だと自重する。
「……ありがとう。暁君が一緒に戦ってくれると思うと嬉しいよ」
「ほんと? じゃあ一層頑張らないと!」
「けど無理しちゃ駄目だよ。夕方と言っても暑いし、応援席は熱気も凄いだろうから、油断してたらすぐ熱中症になっちゃうからね。暁君は普段あんまり外で活動してないんだから特に気を付けないと」
「分かってる。だから水分もたくさん持ってきたよ。それにほら……、見て見て!」
暁はポーチから女子野球部の帽子を取り出して被ってみせる。今日を迎えるに当たって学校全体で販売されることとなり、それに乗じて購入していたのだ。
「お、似合う似合う! ……えへっ、お揃いだね」
紗愛蘭は自らの帽子の鍔を掴み、誇らしげに暁と顔を合わせる。上目遣いになる彼女の眼差しが可愛らしく思わず抱き締めたくなった暁だが、必死に理性を働かせて堪える。
「紗愛蘭、そろそろロッカールームが空くらしいから、皆を集めてくれ」
「はい、分かりました」
監督の隆浯から紗愛蘭に声が掛かる。ベンチ入りの時間が近付き、その準備に取り掛からなくてはならない。
「じゃあ暁君、行ってくるね。また試合が終わったら話そ」
「うん。行ってらっしゃい」
紗愛蘭は暁とハイタッチを交わすと、「集合!」と声を張り上げて走り去る。暁はその背中を少しだけ不安そうな面持ちで見送った。
試合開始の約三〇分前。一塁側ベンチへと入った亀ヶ崎ナインの目に、憧れの甲子園球場のグラウンドが飛び込んでくる。
「おお!」
一同が揃って感嘆する。同時に一部の者は緊張感が一気に高まって表情を強張らせ、他の一部は気持ちが昂るあまり気の抜けた笑みを零してしまう。それに気付いた紗愛蘭は、朗らかながらも威厳を込めた語調でチーム全体に向けて声を掛ける。
「皆、色々と感じることはあるかもしれないけど、まずは落ち着いて、いつも通りプレーすることを心掛けよう! せっかくの甲子園なんだから、気負わず、楽しんで、だけどしっかりと気を引き締めて戦うよ」
「はい!」
紗愛蘭の言葉に皆の気持ちと頭は整理され、顔付きも勇壮になった。それから選手たちはウォーミングアップに取り掛かる。ベンチを飛び出してライトへと向かう彼らに、アルプス席に陣取った応援団から万雷の拍手が送られる。
「頑張れ紗愛蘭ちゃん! 俺はここから見てるからね!」
暁も紗愛蘭にエールを送る。しかし紗愛蘭は一瞬暁の方を振り向いただけで、手を振ることなどはせずチームメイトとキャッチボールを始める。試合開始は目前。集中力を高めている最中の紗愛蘭としては、誰にも隙を見せることはしたくない。暁もそれを分かっているので、これ以上は何も言わず手を叩いて盛り立てる。
(……心配するな。紗愛蘭ちゃんなら絶対に大丈夫だ)
亀ヶ崎は昨夏の大会でも決勝まで進んだが、惜しくも敗れ散った。敗戦の瞬間は暁も目の当たりにしている。その悔しさは同じ夏大の舞台で晴らすしかない。彼には応援することしかできないが、それで少しでも紗愛蘭を後押しできるなら本望である。
決戦の時が、刻一刻と迫る。
See you next base……
登場人物紹介Ⅱ
★椎葉丈│(しいば・たけし)★
学年:高校三年生
投/打:右/右
守備位置:投手
念願の甲子園大会出場を果たした亀ヶ崎男子野球部のエース。150キロを悠に超えるストレートを投じ、プロ入りが確実視されているほどの実力を持つ。
真裕とは一年春の交流試合を機に意気投合。互いに切磋琢磨してきた。二人の関係の行く末は……?
★美波暁│(みなみ・あきら)★
学年:高校二年生
利き手:右
絵を描くことが得意な青年。普段はおっとりとしているが、時に自らの信念を貫く芯の強さを垣間見せる。
紗愛蘭とは同じ中学校出身で、現在は恋人関係にある。決勝戦には微力ながらも彼女の力になりたいと思い応援に駆け付けた。