25th BASE
六回裏、ツーアウトランナー二塁から吉田が敬遠気味の四球で一塁に歩き、八番の美久瑠に打順が回る。
《八番ピッチャー、渡さん》
亀ヶ崎の外野陣は定位置から何メートルも前へと出てくる。万が一打球が内野の間を抜けたとしても、まず乃亜はホームに還れない。
(外野がこんなにも前に出てくるとは、亀ヶ崎も凄いことするな。ライト前に飛んだら一塁でもアウト取れるだろ。でも裏を返すとそれだけ追い詰められてるってことだ。ここまでして美久瑠にタイムリーが出ようものなら、それこそ引導を渡せる)
二塁ランナーの乃亜は外野手の守備位置に驚きつつも、その中に亀ヶ崎の強い焦燥感を読み取る。予期せぬ一打が生まれるのはこういう時であり、美久瑠のバットにももしかしたらの期待を抱かずにはいられない。
「美久瑠、思い切っていけよ! これだけ前に出られてたら外野の頭越せるぞ!」
「分かった!」
乃亜の声に美久瑠はバットを掲げて応える。外野手がこれだけ前に出てきているのなら、その後ろに打球を飛ばせば良い。美久瑠でもバットの芯で打ち返せば十分に可能だろう。
となると亀ヶ崎バッテリーとしてはバットにすら当てさせたくない。前の打席で美久瑠がカーブの空振りを繰り返していたことから、ここの初球もカーブから入る。
「ボール」
低めのボールゾーンで空振りを誘う投球だったが、美久瑠は見極める。前の打席の三振は彼女もしっかり覚えており、その反省を活かしている。
(私だって何度も同じ手は食わないよ。……私の力じゃ低めを打ってもそんなに飛ばせない。追い込まれるまではベルトより上の高さに絞って、そこに来た時だけスイングするんだ。そうすれば自然と今みたいなボールは見送れる)
二球目は真ん中低めのツーシーム。これも美久瑠は手を出さない。
「ボールツー」
「えっ?」
外に逃げながら沈む変化をし、その分だけ僅かに外れた。投げ終えた真裕は少し納得行かない様子で奥歯を噛む。
「……あらら、ツーボールになっちゃった。柳瀬さん、コントロールに苦労してるな」
スタンドの暁は心配そうな面持ちを見せる。隣の丈は両腕を組み、口を真一文字に結んでいる。
(何やってんだ。そんなに慎重になることないだろ。自分たちの首を絞めるだけだぞ。バッターだってストライクを集められた方が嫌なんだから……)
真裕も丈も同じ投手として、ボールが先行すればするほど打たれる確率が上がることは身に染みて理解している。それでも重要な局面では打たれたくない、打たれてはいけないという思いから厳しいコースを狙い過ぎてしまい、微妙に制球が乱れて結果的にボールが増えるという流れに陥りやすい。今の真裕はまさしくそんな状況にある。
(カーブもツーシームも反応してくれなかった。一塁を埋めて渡さんとの勝負を選んだ以上、フォアボールを出すわけにはいかない。次からストライクを取っていかないと)
真裕は一旦ロジンバッグに手を触れ、入念に指先の感覚を整える。それから改めてプレートを踏んで菜々花に視線を送ると、アウトローのストレートのサインが出されていた。
(渡は高く浮いたボールを待ってる。だったら私たちはあれこれ考えず、基本に立ち返ってこのコースでストライクを二つ稼ごう。そしたらスライダーで終わりだ)
(了解)
サインが決まり、真裕がセットポジションに就く。彼女は少し間を空けてから投球モーションを起こし、美久瑠への三球目を投げる。
ストレートが菜々花の要求通り外角を直進する。ただし決して低くはなく、美久瑠の臍の高さに行っていた。
(お、これくらいなら……)
美久瑠が打ちに出る。スイングの形など気にせず夢中で振り抜かれた彼女のバットから、快い金属音が鳴り響く。
「え?」
「あ……」
美久瑠と真裕の二人が同時に声を漏らす。三塁側にハーフライナーが飛び、ジャンプするオレスの上を越えていく。
「フェア、フェア!」
打球は三塁ベースの後方に落ちた。フェアかファールか際どい場所だったが、塁審は線上に弾んだと判断を下す。
「回れ回れ!」
二塁ランナーの乃亜は迷わず三塁を蹴る。打球はファールゾーンを力無く転々としており、前進していたレフトが背走して捕りに向かう。
「よっしゃ、ナイス美久瑠!」
この間に乃亜は悠々とホームイン。次打者の狭山とハイタッチを交わし、二塁まで達していた美久瑠に拳を突き上げる。
「えへへ、どんなもんだい!」
美久瑠は両腕を挙げてガッツポーズをし、無垢な笑顔を弾けさせる。羽共は貴重な貴重な四点目を挙げた。点差は三点に広がる。
「……くそ」
一方の真裕は本塁の後方で愕然とし、何度も首を横に振りながら重たい足取りでマウンドに戻る。よもやまさか美久瑠にタイムリーを浴びるとは……。彼女の力を侮っていた、若しくは打たれるわけがないと慢心していた。傍から見ている者はそう感じ取る者も少なくないだろう。
だが実際はそのどちらでもない。もしも先に挙げたような油断があったのであれば、バッテリーは初球をボールから入ることなど有り得ないのだ。寧ろ過去二打席のように美久瑠のことをある程度美久瑠を見下して投球できていた方が、抑えることはできただろう。
真裕も菜々花も絶対に打たれてはならないと必要以上に慎重になり、ツーボールというカウントを作ってしまった。そして三球目でストライクを取ろうと苦し紛れにストレートを投じた結果、美久瑠のバットが出やすい高さへと行ったのだ。もちろん打った美久瑠は讃えて然るべきだが、それ以上にバッテリーの自滅が生み出したヒットとも言える。
「ああ……、打たれちゃった……」
スタンドの暁もショックを隠せない。丈も得点が入った瞬間、無意識に天を仰いでいた。
(……まずいな。この失点は痛い。差が一点開いたくらいの話じゃ済まされない重みがあるぞ。点を取られたこと以上に、取られるまでの過程が悪過ぎる……)
亀ヶ崎はランナー二塁から一塁を埋め、羽共ナインすら期待の乏しかった美久瑠との勝負を選んだ。しかしその美久瑠に打たれての失点。野球がいくらゲームセットまで勝敗の分からないスポーツと言っても、この一点は本当に試合を決定付けてしまうかもしれない。
See you next base……