19th BASE
五回表、亀ヶ崎はワンナウトランナー満塁の大チャンスで紗愛蘭を打席に迎える。その三球目、美久瑠の投げたストレートがワンバウンドし、乃亜が後逸してしまう。
乃亜が急いで立ち上がってボールを拾いにいく。美久瑠もすぐさま本塁のカバーに入るためマウンドを降りる。
「やば……」
ただ思いの外ボールは後ろに転がらなかった。三塁ランナーの真裕は本塁へと走り出す素振りこそ見せたものの、やはり無理はできないと諦めて帰塁する。
「おお……。助かった……」
美久瑠は胸を撫で下ろした様子で乃亜が戻ってくるのを待つ。紗愛蘭は自身の真ん前まで接近してきた彼女と目を合わせないよう、打席の外に出て乃亜の動きだけを注視する。しかしそれを美久瑠は許さない。
「あ、踽々莉さん。どうもです」
唐突に美久瑠が頭を軽く下げて挨拶してきた。思わず紗愛蘭は会釈し返す。
「え? ……あ、どうも」
美久瑠は何も言わずに優しく微笑む。咄嗟に身構えた紗愛蘭だったが、その後の彼女は何もしてくることなく、乃亜からボールを受け取ってそそくさと引き揚げていく。
(びっくりした……。一体どういうつもりなの?)
ほっとする紗愛蘭だが、同時に美久瑠の不可解な行動に困惑する。ひとまず彼女は二度三度素振りを行い、脳内を整理してから打席に戻る。
(何を考えてるかなんて分かりゃしないんだし、気にしないようにしよう。それよりこの状況であんな風に笑っていられるなんて、そんなに余裕があるのか?)
二点のリードがあるとはいえ、満塁のピンチでクリーンナップとの対戦。加えて直前であわやランナーを還してしまいかねない暴投を放ったにも関わらず、美久瑠は動じていなかった。それどころか愉快気な笑みすら浮かべている。開き直っているのか、それとも抑え切ると確信しているのか。いずれにせよ対戦する紗愛蘭としてはまた別の意味で恐怖を感じる。
当の美久瑠はと言うと、マウンドに戻ってロジンバッグを手にし、二遊間の選手と守備位置やアウトカウントを確認し合っている。
(踽々莉さん、私と目が合っただけで分かりやすく動揺してたな。前の打席のことが頭から離れないってことだね)
先ほどの暴投も美久瑠は自らの意思で行っていた。ホームのカバーに入ることで紗愛蘭に近付き、彼女の様子を確認したのだ。
(周りには平然としているように見せてるみたいだけど、不意の出来事があった時には隠し切れない。そんな状態で果たして良いバッティングができるのかな?)
美久瑠が仄かに口元を緩めたまま振り返り、改めて紗愛蘭と対峙する。ツーボールワンストライクとバッティングカウントのため、紗愛蘭にとって次の一球はチャンスとなる。対する美久瑠は何を投げるのか。
サイン交換をあっさりと済ませ、美久瑠がセットポジションに入る。四球目、彼女はあろうことかど真ん中へと投じた。
(真ん中だと? これは打つしかない!)
紗愛蘭は当然の如く打ちに出る。初球で引き付け過ぎた反省を踏まえ、一呼吸早いタイミングでスイングする。
「ピッチャー」
打球はお手本のようなセンター返しとなる。だが飛球とはならず、最悪なことに投げ終えた美久瑠のグラブにワンバウンドで吸い込まれた。
美久瑠が小さくステップを踏んで本塁の乃亜に送球する。まずは三塁ランナーの真裕がアウトとなる。
「ファースト!」
続けて乃亜も素早く一塁にボールを送る。併殺だけは避けなければと必死に走る紗愛蘭だったが、その甲斐虚しく彼女の視線の先で送球が一柳のファーストミットに収まる。
「アウト。チェンジ」
もはや痛恨という表現では足りないほど、無念のダブルプレー。満塁のビッグチャンスは無得点のまま一瞬にして潰えた。一塁を駆け抜けた先で、紗愛蘭は思わず膝に手を付いて項垂れる。
(そんな……。打つ直前までは真っ直ぐに見えてた。変化することも考慮してバットの出方も調整した。なのにどうして……)
紗愛蘭は打球が上がらなかった理由が分からない。彼女はツーシームやチェンジアップなど引っ掛けやすい球種を頭に入れてスイングしたはずだ。にも関わらずゴロとなったのは、美久瑠がより落差のある変化球を投げたからである。
その球種とはフォークだった。単純にストレートと思って打ちにいっていれば空振りで済んだかもしれないが、紗愛蘭がボールの下を叩けるようなスイングをした分だけバットに当たり、ピッチャーへの併殺打という結果となってしまった。
フォークは他の球種と比べて回転数が少ないため、紗愛蘭ほどの打者なら打つ前に判別できてもおかしくない。しかしこの打席の彼女は美久瑠の所作に注意が向き、普段よりも集中力が欠けていた。そのせいでフォークだと気付けなかったのだ。
美久瑠がバッティングカウントを作ったのも、態々リスクを冒してまで紗愛蘭に近付いたのも、全てフォークを打たせて併殺を取るため。まんまとその計画通りに事は運んだ。
「ああ……」
一塁側ベンチ及びスタンドから大きな溜息が零れる。誰しも期待を膨らませていただけに失望も果てしなく、応援団の中には紗愛蘭への不満を漏らす者も出てくる。
「何だよ……。あれなら三振の方が良かったじゃん」
「一点くらい入ると思ったんだけどなあ。キャプテンなんだからしっかりしてよ」
これらの発言は丈や暁の耳にも入る。もちろん二人としては良い気分はしない。特に暁は何か言い返してやりたいとも思ったが、それで更に雰囲気が悪くなっては余計に紗愛蘭を苦しめるだけだ。痛みを伴うほど奥歯を強く噛んで湧き立つ怒りを抑え込み、代わりに守備に就いた紗愛蘭へと腹の奥底から声を出して檄を送る。
「紗愛蘭ちゃんどんまい! 次があるよ!」
声援が届いたのか、暁は紗愛蘭が僅かな間だけ自らに顔を向けたように見えた。彼女の表情は決して明るくなく、今は恐らくどんな言葉を掛けても前を向くことは難しいだろう。それでも暁は声を止めることはしない。
「まずはしっかり守備に集中しよう! 二点差ならどうってことないよ!」
一塁側スタンドで暁の声だけが木霊する。隣で聞いていた丈は感心したように頷き、彼を讃える。
「凄いですね。この状況でそれだけ前向きな言葉を送れるなんて」
「……そうですかね? まあ僕にはこれくらいしか力になれないので。できることは全力でやり続けないと」
暁は頬に桃色を灯してはにかむ。丈はどこか羨ましそうに目を細め、穏やかながらも力強さを秘めた口調で言う。
「大丈夫。踽々莉ならやってくれますよ。きっともう一回良いところで回ってきます。そして必ず打ちます」
「……はい。僕もそう信じてます」
どんなに苦しくても、二人は亀ヶ崎女子野球部の勝利を信じて疑わない。応援してくれる誰かがいる限り、少女たちは下を向いてはならない。
See you next base……




