13th BASE
三塁側では美久瑠がベンチに腰掛け、ペットボトルの水を口に含んで休息を取っている。その顔には先ほど紗愛蘭に向けていた笑みは面影すら無く、ピンチを抑えた安堵感を漂わせている。
(あの様子だと、良い感じに踽々莉さんを動揺させられたみたいだね。何年も前のことだから通用しないかと思ったけど、時間が立ったからって心の傷は簡単に消えやしないか)
美久瑠は紗愛蘭の過去を知った上であの笑顔を見せた。虐められていたトラウマを思い出させることで精神面を追い込んでいこうとしたのである。その狙い通り、紗愛蘭はまともにバットを振ることすらできなかった。
しかし美久瑠は紗愛蘭との接点が全く無い。今日が初めての顔合わせとなる。本来なら知り得るはずのない情報を、彼女はどうやって手に入れたのか。
(それにしたって踽々莉さんも脇が甘いよ。ちょっとしたインタビューで自分の過去をぺらぺら喋るもんじゃない。どこの誰が見てるか分かんないだから)
美久瑠はペットボトルを仕舞おうと自分の鞄を開ける。中には今大会直前に発刊された女子野球の雑誌が入っていた。注目選手の一人として特集された紗愛蘭のインタビュー記事が掲載されており、その中で彼女は虐めを受けていた過去に関しても少しながら言及している。美久瑠はこれに目を付けたのだ。
(あの踽々莉さんが虐められていたなんて驚いたよ。でも強豪の亀ヶ崎で主将を務めながら結果を出し続けるには、技術だけじゃなく強靭な精神力も求められる。虐められていた経験が強さの根幹になってるのだとしたら、こうやって唐突に抉られた時に脆さが出ちゃうよね。ましてや高校に入ってからは誰にも触れられてこなかっただろうし)
今日の試合を迎えるに当たって、美久瑠は亀ヶ崎打線相手に何か良い策は無いかと探っていた。そこで紗愛蘭のインタビュー記事に辿り着き、これを基にして彼女を封じ込めようと思い立ったのである。
中軸の誰かの働きが鈍れば、打線の機能は著しく低下する。それが紗愛蘭ともなると与える影響は計り知れない。本人からすれば自分と似た境遇の人たちを勇気付けたいと思って語った話が、まさかこのような形で美久瑠に利用されてしまうとは。
(これが褒められる行為でないことは分かってる。けど私たちだって勝たなきゃならないんだ。相手が亀ヶ崎ともなれば形振り構っていられない)
美久瑠は勝つためならどんな非情なことでもする覚悟ができている。それだけ全国制覇に対しては並々ならぬ想いがあった。
《三回裏、羽田共立学園高校の攻撃は、二番サード、原延さん》
三回裏、ここまで無失点のイニングを作れていない真裕だが、羽共の上位打線を抑えて立ち直るきっかけを掴めるか。前の攻撃では自身のヒットも絡んで得点が入っているので、その良い流れを投球にも活かしたい。
(紗愛蘭ちゃんの様子は気になるけど、今は試合に集中しなくちゃ。点差も縮まったことだし、何が何でも点は与えないぞ)
原延に対する初球、真裕はアウトコースのカーブから入る。原延は左足を引いて溜めを作り、タイミングを合わせて打ち返す。
短い金属音を発した鋭い打球が真裕の足元を襲う。だが彼女はグラブを左脛付近から掬い上げ、上手くバウンドを合わせて捕球する。
「アウト」
真裕からの危なげない送球が一塁へと渡る。原延を僅か一球で打ち取った。
続いて三番の吉原に打順が回る。前の打席ではスクイズを決めているが、今回はランナーがいないため何の作戦も気にしなくて良い。真裕はストレートを中心にどんどんストライクゾーンへと投げ込んでいく。
「スイング、バッターアウト」
三球でワンボールツーストライクとカウントを整え、最後はボールになるカーブを振らせた。吉原を空振り三振に仕留める。
《四番ライト、千石さん》
真裕は前の二イニングでツーアウトを取りながらも失点している。三度も同じ轍は踏まないと、千石に対してランナーがおらずとも気迫の籠った投球を行う。
「セカン!」
ワンボールワンストライクからの三球目、千石が外角のツーシームを弾き返す。ただストレートを狙っていた中で打たされただけのため、思うようなバッティングはできなかった。打球はセカンドへの平凡なゴロとなる。
「アウト。チェンジ」
真裕は三イニング目にしてようやく無失点、そして三者凡退に抑えた。幾分か心が軽くなったのか、マウンドから引き上げる際の足の運びも些かスムーズになったように感じられる。彼女はベンチに戻ると、自ら率先してチームメイトを鼓舞する。
「よーし皆、この回逆転しよう! 流れ来てるよ!」
「おー!」
追い上げムードの高まる亀ヶ崎ナイン。その輪には紗愛蘭も加わっていたが、いざ仲間たちがグラウンドに目を向けると一旦ベンチの奥に身を潜める。そこで水分を摂る振りをしながら深呼吸を繰り返す。
「はあ……、ふう……」
自身が弱っている姿をチームメイトに見られるわけにはいかない。せっかくの反撃ムードに水を差して不安を煽ることになってしまう。紗愛蘭は喉奥が震える中で口を大袈裟に動かし、どうにか明るい表情を保ってベンチの前方へと移動する。
(渡さんが私の過去を知っていようと、それに付け込んで揺さぶってこようと関係無い。打席に立ったらどうやってヒットを打つかを考えるだけだ。雑念は捨てろ)
紗愛蘭はそう自分に言い聞かせてグラウンドに目を向ける。視線の先ではオレスが打席に入っていた。彼女は初球がボールになった後の二球目、自らの懐に入ってきたカーブを捉える。
「サード!」
サード正面にゴロが転がる。だがバットの芯で打ち返したため驚くほど球足が速く、原延は捕球体勢に入るのが遅れる。
「あ……」
打球は原延のグラブを弾いて三塁線付近を転々とする。ショートの馬目がカバーするも、その間にオレスが一塁を駆け抜ける。
内野安打が記録され、オレスは二打席連続安打を放った。いずれもランナーがいなかったことが悔やまれる。
(私にはほんとに気の抜けたような投球をしてくるな。ランナーがいないからなのか、それとも何かしら意図があるのか。まあこっちとしてはチャンスになるわけだし、得点に繋げていかないと)
違和感を抱くオレスだが、何がともあれ亀ヶ崎は先頭打者を塁に出すことができた。続く打者は五番の嵐。第一打席で併殺に倒れている彼女に対し、ベンチを送りバントの指示を出す。前のイニングに同じ流れで得点したことも踏まえての選択だ。
嵐はワンボールからの二球目でバントを決めた。ファーストの一柳が処理するように転がし、オレスは確実に二塁へと進める。
亀ヶ崎は三回表に続いて得点圏にランナーを置いた。だが美久瑠も簡単には得点を許さない。変化球を駆使して次打者をピッチャーゴロに打ち取る。ツーアウトランナー二塁と変わり、打席には七番の菜々花が入る。
See you next base……