ハイチ人の呪い
この話は全くもって完全にフィクションです。実在の人物とか本当、関係ないんでなんかもう気にしないで下さい。
「ハイチ人の呪い」
カーテンを踊らせた初夏の風が青年の顔に吹き付けた。軽く汗ばんだ肌が少し冷えて心地良い。彼は燃え盛る朝日を向きながら大きく伸びをした。
今がまさに青年の絶頂期であった。彼は絶賛売り出し中の若手歌手であり、注目の美男子俳優であった。東洋人離れした彫りの深い顔立ちに、均整の取れた健康的な肉体。そして肌!その肌は透き通るように白く、薄っすらと朱を差したような頬がよく映えた。
彼はゴルフバッグを持つとホテルをチェックアウトした。昨夜遅く日本からハワイに到着し、3泊4日の休暇を趣味のゴルフ三昧で過ごす予定なのである。これはこの一年、青年が文句も言わず働き続けた事に対する事務所からの粋なご褒美であり、青年もまた久しぶりの休暇を精一杯楽しむつもりだった。
あの事故さえなければ
それは空が曇り始めた為早めにゴルフコースを切り上げた後の、ドライブを兼ねての帰り道で起きた。早めの夏季休暇を取ってやって来た日本人観光客に気付かれないよう、サングラスを掛けたまま運転していたのもいけなかったのかもしれない。とにかく、それは起きてしまったのだ。
最初は縁石に乗り上げたと彼は思った。次に小動物かと考え、そして最後に人間を撥ねたと分かった。
ただでさえ色味の無い青年の顔が、陶磁器のように青みを帯びていく。「今が大切な時期だからスキャンダルには気を付けるんだよ」、出国前に事務所の社長から言われた言葉が頭を駆け巡っていた。
一先ず状況を確認しようと急いで車から降りた。よほど頑丈に出来ているのだろう、レンタルした外車の方は僅かにバンパーが凹んだだけだった。一方で少し先に転がっている被害者の様子は酷いものだった。見た所、若い黒人男性で自分と同年代だろう。体があり得ない方向にねじ曲がってしまっており、口から夥しい血を流している。意識は辛うじてあるようで瞼を痙攣させていた。
青年は被害者の元に駆け寄るとその耳元で必死に呼びかけた。返ってくる微かな反応に少し安堵し、次に取るべき行動を考える。不幸な事に、そこは少し奥まった山道であり人通りは全く無かった。加えて携帯電話など存在しない時代だったことも考慮に入れる必要があるだろう。つまり、救援は望むべくもなかった。有り体に言えば、到底助かりそうもなく思えたのである。
冷静に状況を分析すると驚くほど直ぐ青年の心は決まった。折れそうな心を繋ぎ止め、被害者の足を掴むと自分の車へ引き摺って行く。そのまま乱暴にオープンカーの後部座席に放り込むと、彼自身も乗り込んだ。そして黒人男性のポケットをあさり始める。どうやら着の身着のまま散歩をしていたらしく財布の他には何も出てこなかった。二つ折りの財布を開くと少しの金銭と身分証だけが入っていた。見ると男性はハイチ国籍で青年と同年齢らしい。青年は抜き取った身分証を自分の上着の胸ポケットにしまった。次に青年は、一旦車から降りるとトランクを開き中に入っていたビニールシートを取り出して車内に戻った。これは車を借りる際に、昼からの雨を心配して何かに役立つだろうと積み込んだ物である。そして半分程度に広げたビニールシートでハイチ人の体を覆い隠した。確かに役に立った訳だ。
青年はこの間を終始無言で行動したが、ここまで来ればハイチ人にもその意図することが分かったのだろう、隙間から覗くその目に恐怖の色が浮かんでいた。青年は運転席に移るとエンジンをスタートさせた。車はUターンすると先程やって来た道を戻り始めた。
時折くぐもった呻き声がする中、青年は車を走らせ続けた。ハンドルを握る手に額の汗が滴り落ちる。日が暮れつつあり、辺りに夜の帳が下りようとしていた。
青年の目的地は朝昼を過ごしたゴルフ場である。彼はコースを回った際にかつて小さな池だった穴を目にしていた。一緒に回ったキャディーによれば明日から埋め立てる予定とのことだった。その時は聞き流していたものの、今になって感謝と共に思い出した。そこにこのハイチ人を埋めなければいけない。
永遠に近く感じられる時間が過ぎ去り、到着した頃には日は大きく傾き消え入る寸前だった。ナイター設備の無いゴルフ場は既に閉まっており客や店員の姿は見えない。彼はゴルフ場の外周に沿って車を徐行させ、忍び込めそうな場所を探すことにした。丁度、目的のホールの横手に身を隠せる林があり手前で車を停める。全身の筋肉を総動員して、後部座席からビニールシートで簀巻きにしたハイチ人を引き摺りだす。体が上げる悲鳴を無視しながら、ずるずると目的の池の跡まで引っ張って行った。何とか辿り着いた頃には体中が汗まみれになっていた。
達成感に身を震わせた拍子に青年は簀巻きを取り落としてしまった。ごろん、とハイチ人の頭が転がり出る。驚いた事に、あれ程の重症を負って尚ハイチ人は生きていた。
ふと二人の視線が交差した。
青年は見た、その目の中に憎悪の炎を。その口が虚無を吐き出すように何かを呟くのを。
恐慌に陥った青年は穴に向かってハイチ人を蹴り込んだ。淵の近くには埋め立て用の土砂が大量に積まれておりシャベルが数本挿してある。その内の一本を握るとがむしゃらに土を穴に投げ入れる。ビニールシートが段々と見えなくなっていった。それでも執拗に土をかけ続ける。自分の過ちを埋めるために。自分の記憶を埋めるために。
だが、幾ら土を放っても呪詛の言葉は青年の耳から離れることはなかった。それは魂に刻まれた傷跡なのだと、彼は後になって思うことになる。
もう腕が上がらないというところで青年は手を止めた。元の場所にシャベルを戻すと、最後の気力を振り絞り車を運転する。宿に着き部屋に入った時には力なくベッドの上に倒れこんだ。
よほど疲労していたらしく、翌日の昼過ぎに彼は目を覚ました。まだ節々は痛んだが体調は良好だ。そして時々襲う筋肉痛が、昨日の事故が悪夢でなく現実なのだと証明していた。
昨夜から汚れたままの体を洗いに浴室に入る。バスタブに水を張って、そこに体を浸たす。その時、冷水により冴える頭に記憶が一気にフラッシュバックした。彼は頭も水中に浸すと胎児のように丸くなる。まるで羊水に漂うように。
そして悲鳴を上げた。
どれ程の時間が過ぎたのか、あるいは数瞬の事だったのかもしれない。とにかく彼は平静を取り戻した。バスタブから出ると、改めて体の隅々まで洗い流し全ての罪すら落とした心持ちになる。タオルで体を拭いながら鏡を覗きこんだ。
その顔はかなり日に焼けていた。
事務所に怒られると思いながら服を着込む。身支度を整えると再度ゴルフ場に向かった。
着くと、ホールを回るふりをしながら、ショベルカーが土砂を次々に穴に投げ込み、最後に作業員が平坦にならすところを黙って見守り続けた。いざ現場に戻ると緊張するかと思ったが、別段どうということも無かった。
声がやんだのだ、彼はそう解釈した。
後は街に出ると自動車修理工場を探し昨日付いた傷を簡単に直させた。その間はぼんやりとぶらつき、彼に気付いて嬌声を上げる観光客達を適当にあしらっていると一日が過ぎた。
寝る前に鏡を見たら今朝より顔色が濃くなっている気がした。
休暇最終日。
空港に向かう前に埋め立て現場に確認に寄る。彼にはこれが最後の訪問になる予感があった。慎重を期してゆっくりと歩を進める。自分の足下にあのハイチ人が埋まっていると思うと、ぞくりとしたが踏み留まった。そして土中に対し睨み付ける。
彼は思う、死ねばそれまでだと。
尻ポケットから煙草を一本取り出すと、ライターを探す。上着を探ると探し物の他に四角片が触った。煙草に火を点けるとくわえ、空いた手でそれを引っ張り出す。それは、入れたままになっていたハイチ人の身分証だった。ライターを点火すると近づけていく。身分証は少しずつ焦げ始め、やがて全体に燃え広がり灰になって落ちた。
彼はその場を立ち去ると、レンタカーを返却場まで運転していった。バックミラーに写る自分の顔が酷く暗い、いや、黒いのが気にかかった。
空港に入ると空調が動いておらず気持ちが悪い。彼は一刻も早く出発したかったのだが、出国カウンターでは許可が下りるのにやけに時間が掛かったように感じられた。何度も顔を見返されたので、己の罪を見透かされた気がして不安を覚える。やっと機内に案内された頃にはどっと疲れが押し寄せた。眼下の雲海を眺めながら眠りに就く。夢は現れず暗闇だけが目蓋の裏に広がっていく。どこまでも暗く、暗く。
帰国後、事務所に立ち寄ることにした。扉を開け中に入ると部屋中の目が彼に集まる。まるで奇異な異邦人を見るかのように。奥から出てきた社長が唖然とした顔をしていた。
青年は訳が分からず、その視線の意味を社長に尋ねた。すると答えが返される。
『その顔はまるで黒人じゃないか』
パニックを起こした青年は洗面所に駆け込んだ。確かに鏡の中から見返してくる顔には、あのハイチ人の面影があった。黒光りし憎悪に燃える目をしたあの顔が。
あの男の名は何といったのだろうか。幾ら自問したところで彼の記憶にはなかった。一体、誰が埋めたのだろう、誰が埋められたのだろう。数珠繋ぎの思考が彼の頭を回り続ける。
遠くから響く絶叫が彼自身の口から洩れていると気付いた時、頭の片隅で誰かが笑うのが聞こえた。
後のS・マツザキである。
[完]
トム:これは「痩せゆく男」ですか?
クミ:はい、それは「痩せゆく男」です。