悪いゴブリンじゃないよ!
アリスこと私は初めて気持ちよく朝を迎えました。
今まで絶望まみれの人生だったけどついに天国にたどり着いたのかと錯覚してしまうほどに。
でもどうやら心臓は鼓動を打っているし身体中に痛みはある。産んだ時の腹の傷も不格好ながら接着していて生命の神秘とは恐ろしいものです。
この心地よさの原因は気温にあり、今までは過酷な砂漠で昼は暑く夜は寒いーー生物にとって過酷な環境であったのは確かでしょう。
しかしここは涼しく冷気に満ちていました。
明るくはないけどそれは寝起きの私にとって大した問題ではありません。
バキバキと身体から鳴る音を無視して周囲を見渡す。
苔むした岩の壁に覆われており地面は泥だらけ。
とはいえ泥の上に寝ていたわけではなく、私の下だけに草がたくさん敷かれてありました。
どうりで深く眠れたわけです。
さてーーとりあえず現状の整理。
まずゴブリンを妊娠したことがバレて商人から砂漠に捨てられたことは確定事項。そのままゴブリンを産んだことも認めたくないけど事実です。
驚くべきことにそのゴブリンが私を献身的に介護して、さらにこの洞窟まで運んだというのです。
私が生と死の境をさまよっている時に、自分の水まで支援に回してくれたことをこの目で確認しています。
さらには寝床に草を敷くとはまるで紳士ではありませんか。
ゴブリンですけど。
汚く臭く人間を犯して繁殖する世界一の嫌われ種族であるはずなのにーーしかも壊れた荷車の中から必要な部品をまとめて簡素な荷車を組み立てる頭脳は常軌を逸しています。
魔物と呼ばれる種族は文字通りの獣。
人類に仇なす害獣のことを指し、生みの親であろうとここまで親切にするような生態ではないはず。
実際、産んだゴブリンに一家丸ごと殺されて、収入の減った村から売られて奴隷堕ちした方を何人も見てます。
どうやら今は件のゴブリンがいないようで、出かけたのでしょうか?
洞窟の外に出ようとしたタイミングで例のゴブリンと鉢合わせになりました。
「グギィガ」
踏み潰されたカエルのような声を出して驚いています。
木を絡ませたカゴーー卵、くるみ、桃が入れられて、かなり美味しそう。
市販品と違い編み目に規則性のない、枝分かれの多い葉を不器用に絡ませただけのカゴだけどやはりゴブリンの知能ではなくーーなんなら生後三日の人の赤子でもこれだけの知性はありません。
「グギャ」
枯れた喉を鳴らすとカゴを渡してきました。
「食べても良いの?」
「ジャガアジ」
そうでした。
言葉が通じるわけがありません。
しかし、私がくるみを手に取ると嬉しそうに飛び跳ねたので食べちゃいます。
美味しーーおや?またどこかへ行ってしまいました。
かなり慌ててる。
私が起きたことで発生したイベントがあるのでしょうか。
今まで食べたクルミは中に虫がいたりと良い思い出がないですが、このクルミは格別です。
甘くて塩味もあります。
「……え?」
この塩は何でしょう?
あのゴブリンは味付けまで出来ると?
気遣いの塊です。人間だったら、さぞモテたはず。
嫌悪感はまだあるけど、ここまで良くされたら警戒心も薄れていくというもの。
自分は何のために生きているのか。
奴隷として生のほとんどを費やし、美食なんて経験したこともない私だけど、こんな稀少で賢いゴブリンを産んだだけでこの人類史に価値を残せたような気さえします。
私には優秀な遺伝子でもあるのか?
いや、ここまで落ちぶれた人生を送っている時点で優秀なことはないか。
そうなるとますます気になります。
あの生物とせめて意思疎通が出来れば良いのですが。
「ぎゃぎゃっぎゃっ」
帰ってきた。
何をしてきたのです?
バーンと誇らしげに木の棒を見せてきます。
「えぇえええええええええええ!?????」
今度こそ驚きました。
人生で一番驚きました。
木の先端に火種があります。
火ですよ?人類文明の原点。まともな大人でもサバイバル中で火を起こせる人がどれだけいるのでしょう。
あるいはーー魔法?
ゴブリンとはいえ生物である以上は魔力はあるし、
いやいやいや。詠唱は?魔法陣は?
最低ランクの魔物ーーさらに生まれて間もない幼体に出来るはずがない。
種火に息を吹きかけています。
次第に煙は多くなり、根本が赤く光出す。
入り口に溜めてあった乾いた薪で大きくしていく。
……何で溜めてるの??
いや、もう驚くまい。
ひぃぃいいいい。
絶賛ゴブリンに転生中のボクは猛然と走っていた。
背後から迫る大鷲が怒っている。
まあ、そりゃそうだ。
なんせ卵をかっぱらってきたのだから。
鷲と言ってもやはりボクの知る鳥の王者ではない。
信仰の対象であり国旗にすら描かれるという偉大な鷲では断じてない。
ーーもっと大きいのだ。
地球にいたワシは。翼を広げた姿でさえ二メートルと言われているが、今ボクを追っているワシは十メートルは下らないし、装甲のような鱗も付いている。以前ボクを吹き飛ばした鹿ですらあのワシには敵うまい。
当然、卵はでかく一個持ってくるだけで精一杯だった。
なんとか腕で抱えられるサイズの卵は食料として充分の栄養価と量を備えているだろう。
ガァーと怒りながら、近づいてきた。
頭上に鳥の巣があることを発見したボクは、生活拠点の洞窟を見つけた後すぐに、卵をかっぱらいに行ったのである。
鳥は夜になると巣に戻るという話は良く聞く。
親鳥がいない今しかないと思ったのだ。
そもそも生まれて以降、一度たりとも食事を食べていないし飲み水もほとんど少女に譲ってたので空腹が限界だったしそのせいで判断力鈍っていたのだろう。
運良く卵は回収出来たのだが三百メートルは離れたのに親鳥はその驚異的な視力で僕を発見したのだ。
流石に三百メートルも離れたら安心だろうと高を括っていただけに恐怖も倍増だ。この世界の動物はどれも頑強で、どうせならボクも強い生物に転生したかった。
泣き言を言っても仕方がない。
どうしたものか。
何も思いつかない。
あんな化け物からどうすれば逃げ切れるのか。出来るものなら代わってやる。
ドゴォォォォォンッッッッ!!!!
突然大鷲が何かに食われた。
あれだけうるさく騒いでいたのだから他の動物に見つかることはあったが、どれも大鷹に恐れて逃げるばかりでーーましてや捕食しようなんて生物はいなかった。
固そうな鱗をバキバキ噛み潰すそいつは龍だった。
龍と言っても二パターン浮かぶと思う。
一つは蛇状の細長いタイプ。ドラゴン●ールでいう神龍。
二つ目は二足歩行するタイプ。ポケモ●でいうカイリュー。
この場合はカイリュー。空から飛来したソイツは大鷲の頭に強烈な右フックを叩き込み昏倒させたのだ。
そして今食事中。先程はカイリューなどと形容したが、あんな愛らしくない。顔はワニのようにゴツゴツだしその食事シーンはダイナミックだ。死体の中を漁るようにーー臓物を喰らっている。顔中についた血がよりグロテスク。
ともあれ想定外のラッキーで逃げ切った。
洞窟で寝かしている少女はまだ起きない。
一応草を敷いたけど寝心地は大丈夫なのだろうか。
ーーさて。この卵をどうするか。
さすがに生で食べるのは……。
いや、まあ生で食べるんだけどね。火もないし。
そして割ろうとしてふと手が止まる。
どの位の強さで叩きつければいいのか?地球では料理もしてたけど流石にこのサイズは初めてだし殻の強度も不明。
というか、そもそも皿もないのに液状化した卵黄と卵白をどうやって食べるのか?
色々考えた結果、卵は別の用途に使うことにした。
幸い洞窟の入り口付近には、くるみの木がたくさん生えている。
それで我慢しよう。
どうやら少女が起きたらしい。
さっき作った手製のくるみをくれてやると美味しそうに頬張った。
塩辛くないか?
直前に見つけたトカゲのおしっこを蒸発させたものだが、まあ言わない方がいいか。
とりあえず狩ったトカゲの肉を焼いてやらないとな。
種火を取りに移動する。
昨日遭遇した電気を飛ばすネズミーー便宜上ビカチュウとでも名付けるとしてーーそいつの電撃を使って火を起こせないかと模索した結果、種火を作るまでは行けた。
残念ながら保管は出来なかったので、ネズミの巣を見つけるために放流。
しばらくして巣が拠点のすぐ裏にあることを突き止めたボクは定期的に巣にちょっかいをかけ放電させて、火関連の実験をしていたのだ。
……昨日は大変だったなぁ。
水源探しの時に、冷気を振りまくライオンに襲われたり、道具製作の時うっかり大蛇の巣に入ったり。
お陰で生活拠点と水源の確保。火の安定した生み出し方まで発見したのだから、まずまずの成果と言えよう。
昨日一日で判明したことといえばこの森があまりにも広大であること。
多様かつ物理法則から逸脱した生物の確認。
ここが地球どころか同一宇宙であるかも疑わしくなってきた。
いよいよ戻れなくなった。
地球にいた杉並大地は死んだ。その後ゴブリンとして転生したというのが、ボクの現状分析。
となると気になるのは美空の存在か。
あの崩落で確かにボクは死んだが、決死の覚悟でかばった美空までもが死んでいるとは限らない。
生きているなら構わないしそれが最良だ。
だがもし死んでいたとしたらーー同じ境遇で死亡理由や死亡時刻まで同じなのだから『こっちにくる条件は揃っている』と見るべきか?
もしそうなら探さないと。
間違いなく姿は変わっているし、人間ですらない可能性もあるが、探さないと。
地球出身ーー日本人であることの証明は日本語で出来る。
転生しているとしたらボクのように生まれてすぐ合理的な行動をしたり、幼児とは思えない行動をするはずだ。
あるいは別の動物だったとしてもその特異性を発揮するはずだーー例えば人間のような振る舞いをする化け物。
一つ一つにアンテナを立てないと。
とはいえ、まずはこの世界について知らないといけない。
『足』の確保は出来そうだけど。
言語面で不安が残る。
あの少女はどのレベルの教育を受けていたのか?
あとはこの身体で、この声帯で発音出来るのか?
見たところ少女とボクの身体には大きな差異が存在する。
肌色や骨格なんかもそうだ。
先程試したがこの口で日本語を話すのは厳しそう。
これが永遠なのか、生後まもないからなのか。
これから成長するとして何年生きれるのか。
とりあえずあの少女とコミュニケーションを取ることが最優先事項になるだろうな。