森
生まれ変わって以来三度日が沈んだ。
ようやく砂漠を抜けて迷い込んだのは巨大な森林だ。
ありったけの水を運んだつもりだったが、少女がほとんど飲んでしまい、残量がなく、そろそろ砂漠を抜けなければ命に関わると危惧していたタイミングだけに安心した。
彼女も日差しの直射に長時間当てられたし、夜中の冷気に襲われて体調を崩しっぱなし。
意識が朦朧としており、飲み水だけで良くここまで耐えたと大地は感心した。
生物としての耐久性でいえば大地の身体もかなり頑強であった。
自分より大きい少女を乗せた荷台を一日中押し進め、睡眠時間は削り、飲み水はすべて少女に譲ったのにも関わらずまだ死んでいないのだ。
ここの気候は分からないが、外国で見るような大きく太い木が連なっている。
そして目の前には角の生えた四足歩行の動物がいた。鹿である。
ー-といっても大地が知る鹿に比べて二まわりは大きい。さらに、額には宝石が詰まっている。
荷車の車輪をつなぐ鉄の棒を外すと右手に構える。大地は鹿の背後から襲い掛かった。
ガサリと草を踏んだ音で感知したのか、あるいは何か特別な五感があるのか。
詳細は分からないが鹿は背後から忍び寄るゴブリンを後ろ足で蹴り飛ばした。
「グギャ」
ボロ雑巾のように転がる。
大木にぶつかりようやく止まったが、内臓がグチャグチャにかき回されて気分が悪い。
鹿は草食なのか追撃はせず去っていった。
思えば自分よりも三倍は大きい動物に武器一つで挑むのは無謀としか言えない。
どうやら肉にはまだありつけそうにない。
しかし水源と食べ物の確保が出来ないのでは詰みだ。
周りを見渡すが十メートルはゆうに超える太い木ばかりで季節の問題もあるのか、果実が実っているわけでもない。
見上げながら思案に耽る大地だが、頭上に鳥の巣を見つけた。雀くらいの掌サイズのヒナがピーピー鳴いている。
アリスは孤児であった。
村は戦争で焼け野原。
彼女を安値で買い叩いたのは奴隷商人。物心ついた頃には既に首輪が繋がれた生活ーー食事は腐ったパンと塩水。そんな生活をさせられていたものだから、頬は痩せこけて、顔色も悪い。
彼女は売れ残り続けた。
各地を転々と移動する最中ー-魔物の集団に襲われた。
オーク、リザードマン、スライム、人狼ーーそしてゴブリンが入り混じった荒くれもの集団。
傭兵団が護衛についていたが、どうにもならなかった。
普通種族をまたいでチームを組むことはない。さらに戦略性も備えており、人狼、リザードマンが前衛に組み付いて、その隙間を多数のゴブリンやスライムが通り抜けた。
スライムに喉を塞がれた後衛の魔術師は活躍することなく、その命を終えた。
治療役の聖人までもがやられた時点で前衛の騎士や槍士もジリ貧である。
そして、醜悪な魔物たちは奴隷を詰めた檻の中に入り込む。
最初に狙われたのは商人に期待されていた、身体に傷のない少女達。
ゴブリンに犯されている様をアリスは眺めることしかできない。
ここにいる全員が理解していた。逃げられない。己の首輪がこの檻に繋がれているのだから。
売れ筋と見込まれて、アリス達下級奴隷の分まで贅沢な食事を与えられた彼女たちも今では見る影がなく、転がっている。
スライムに身体ごと溶かされた者。ゴブリンに犯された者。リザードマンに眼球をえぐられた者。
ゴーゴーと砂漠を通り抜ける風は痛かった。
やがて、質の高い女を壊した彼らはいよいよアリス達に目を向けた。
痛い痛い痛い痛い痛い気持ち悪い痛い苦しい苦しい重い汚い汚らわしいーーもう死んでしまいたい。
どれだけの時が経ったのか。通りがかった別の奴隷商がこちらにやってきた。
その時にはもう魔物達は居なくなっており残ったのは無数の死体とアリスだけーーといっても、生命活動をしていた女は他にもいたが、身体の半分が溶けてたり、両目がえぐられてたりと、奴隷商にとって価値がなかった。
幸いアリスは犯されただけで目立った外傷はない。
アリスだけが拾われた。
犯されたかどうかなんて外からみたら案外分からないのだろう。
その奴隷商は以前までの奴隷商とは違いかなり大規模に運営しているようだった。
高度にシステム化された奴隷運用をしていたし、引き連れている奴隷の質、数ともに抜群。
檻も竜種にひかせていた。
一番の変化は何よりも食事。
一日二食。たまにぜいたく品としてネズミの肉が出される。
食生活が改善されたアリスだが、見た目はやせ細ったままだ。
ーー後になって思えば、食べた栄養は腹の中にいたゴブリンに持ってかれてたのだろう。
やがてやってきた定期健診。
腹の中の存在を商人にバレたアリスは砂漠のど真ん中で捨てられることとなる。
ーーどうせならさっきのオアシスで置いていけばいいものを。
これでは出産中に死ぬか出てきたゴブリンに殺されるかーーそんなことより先に干からびる。
捨てられてすぐ、お腹が一気に膨れ上がった。宿主が死に近づいているのを悟って自分だけでも助かろうと栄養を暴食しているのか。
ーーまったく親不孝な化け物だ。
腹の内側から蹴られる。
人間の夫婦は自身の赤子が腹の中で動いたら喜ぶと上級奴隷が言っていたが特に嬉しくない。
そこからさらに一日が経過した朝。腹の中の痛みに悲鳴を上げる。
内側から裂ける感覚。どろりとした粘液に包まれた緑の怪物が目の前に転がり出た。
子は親に似るというが、さすがにアリスはこんなに醜くない。
父親似だ。
尖った歯の隙間から涎がゴボゴボこぼれている。ふとそいつはキョロキョロ周囲を見回しーー視線があう。
首を絞めようとしているのだろうか?手を伸ばしてきた。歩くことすらできないし体力も底を尽きたが弱弱しい手で何とかはじく。
そいつは驚いたのか去っていった。
もう一歩だって動けない。
アリスの命はここまでだ。運が悪かった。それだけなのに。ーーそれともアリス一人生き残ったことは幸運なのだろうか、思考は迷路の中に迷い込み深く暗がりに落ちていく。
醜悪な匂いのせいで現実に引き戻された。
また、戻ってきた。
逃げないと逃げないとーー犯されて殺される。
悲鳴が自然と漏れていた。
だけど何もしてこない。
コツンと差し出されたのは水だ。
前に奴隷商が、カビが生えたと言って捨てていた樽ーーあのオアシスに行き汲んできたのか。
毒を食らわば皿まで。飲むしかない。
夢中になって飲んで、体中の渇きを潤す。
体力は依然として最低ラインだが何とか生きていける。そう思うと安心し眠気が襲ってきた。
ガラガラと揺られている。
目を開けるとそこは砂漠だった。今までとなんら変わらない。
最初砂漠を通ったのは馬と一緒だった。檻を十頭の馬で運ばれーー次は竜種だ。高潔な鱗と強靭な脚力でアリスを運んだのだ。
次は?ーー答えるまでもない、ゴブリンだ。
アリスは小柄だがそれよりも小さい。この荷車はあの奴隷商がひび割れたからとオアシスに捨てたものだったはず。
ゴブリンは簡単な命令を聞くくらいの知能しかない獣ーーアリスを一人で運べないからと道具を使う発想に至ることはない。
そもそも死にかけの人間を助けるゴブリンなんてこの世に存在しないはず。
一人のほうがこの砂漠を抜ける可能性は断然高い。
こいつは、はたして何者なのだろうか。
ーー何日経過してもこのゴブリンは自分の飲み水を分け与えてまでアリスを生かそうとした。