10‐ エドワード・スタリオン
『ね、アイリー。エスプレッソって言葉の意味を知っている?』
話題が変わった。
『高圧蒸気で淹れたコーヒーの名前だろ。確か特急っていう意味の』
リッカが舞台女優の様な大袈裟なポーズで呆れかえって笑えますという仕草をしてみせた。
『はあ。アイリーは日本人の血を引くイノリが“粗茶ですが”って言いながら日本茶を出して来たら“粗末で低品質のクソマズイ茶だ、お前にはこれが似合いだ、ざまあみろボケ”って言われたと思うのね?』
『む?エスプレッソの話だろ?』
『呼び名には生まれた文化に由来する別の意味があるって話よ』
ああ。リッカは話題を変える気が全くない。
『エスプレッソっていうのは他の全部を中断してあなたを最優先するっていう意味を持つ言葉だよ。言葉通りのエスプレッソって言った時のイノリの表情を見ていたでしょう?』
アイリーの両手にその手を包んでくれたイノリの掌の感触がよみがえる。
自分の耳が熱を帯びるほどに赤くなるのを自覚した。
『アホだわ。本当の本当に、本当に本当のアホだわ』
見下げ果て、呆れ果てた声でリッカがそういった。
『覚醒の見込みが出てきたら、本当に覚醒したら、アイリーはどうする? っていう質問でイノリが本当に聞きたかった事がわかる?』
『感謝は必要ないし仕事も続けるって答えただろ』
『今の気持ちはどこに行くのかって訊いているんだよ? イノリとアイリーの関係はどうなってしまうのか、イノリはそれを不安に思っているんだよ?』
『何の変化もなかっただろ。今までも、これからもだよ』
『育て方を間違えたわー』
リッカがアイリーをじっとりと睨みつけながら言った。
『醜いアヒルの子を育てたら醜いアヒルに育った感じだわー』
それほどまでにですか?とアイリーが自分に問い返す。リッカを質す事はしない。無言のまま廊下を歩み続ける。
前方のエレベーターが開き、中からこちらへと歩いてくる人影が出てきた。真顔になったリッカがアイリーに耳打ちをする。
『前から歩いてくるのがエドワード・スタリオン特別捜査官だよ。急なアポイントを無理強いしてきた。かなり緊急性の高い依頼だと思う』
『ああ』
前方から歩いてきたのはグラビアモデル用に特注されたのかと思える程に整った顔立ちの白人タイプのヒューマノイドだった。
見た目の年齢は20歳前後。小さな額に細い金色の前髪が掛かっている。白い肌。輝く金色の睫毛。鮮やかな青い瞳。
顔の造形も美しく整った典型的なヨーロピアンルーツの白人。
混血化が進んで久しい現代においては稀少種とも言える、古代民族の血を色濃く引き継いだ顔立ちをしている。
これが生きている人間であれば間違いなく絶世の美形、という形容詞を与えられていただろう。
エドワードという名から、そしてリッカがこのヒューマノイドを指して彼と言ったからアイリーは男性モデルだろうと判断したが顔立ちは優し気な男性にも勝気な女性にも見える。
ネクタイをはずしたジレスタイルスーツに光沢のない革のライダースジャケットを羽織り、グレーのショートブーツで足元を固めた装いをしているのも一見して男性モデルである様な印象を与える。
『…整った顔をしている』
美形を目指したヒューマノイドがどれ程端正な顔立ちになるかは論を待たない。 ……この男がこれからイノリと二人きりで会うのか。
『だから何?』
独り言だよ。返事するなよ。と思いながらアイリーは黙ってリッカを睨んだ。
リッカは白く細い小指の小さな爪先で存在しない鼻の孔をカリカリと掻いている。
呆れ果てていますが、何か? というジェスチャーだろう。
差し向かいに歩いてきたエドワードはアイリーとすれ違うまであと数歩というところで不意に立ち止まった。
会釈でもしてくればアイリーも返していただろう。
だがエドワードは何事もなかったかの様に目線を前方へと戻し再び廊下を歩み始めた。アイリーもそのまま歩み続け、二人はすれ違った。
アイリーとエドワードの邂逅はこの様に何事も起きないままで終わった。
『連邦捜査局がイノリを訪ねてきたのはエレメンタリストが絡んだテロ事件の捜査協力依頼だよ』
アイリーの疑問にリッカが答えた。
エレメンタリストが関与した殺人事件?有り得ない。とアイリーは頭の中で反芻する。
エレメンタリストについてアイリーは知識をほとんど持ち合わせていない。
自分の生活に全く関わってこないという理由で興味を持っていないからだ。
ただ特徴的な幾つかの大枠ぐらいは知っている。
人間を母胎として生まれる異種生物。その数は世代を通しておよそ800個体に固定されている。
人類の医学では出生を予期することもコントロールする事も出来ない。
地域や民族を問わずに突然変異的に生まれてくる存在。外見は人間と変わらない。
現代科学で再現できない現象を実現する能力を持つ。能力は5つに大別されるが科学的分類ではなく本人たちの経験則によるものらしい。
古代において預言者、魔術師、呪術師、魔法使い、聖者、行者、陰陽師など世界各地それぞれの文化圏で異なった呼び名が充てられていたが同一種だと推測されている。
現代ではエレメンタリストの監督管理はハッシュバベル第三資源管理局が統括している。そして全エレメンタリストには2つの特権が世界から付与されている。
一つが生涯にわたる富裕階級としての生活保障。もう一つがあらゆる刑法からの免罪。殺人さえ免罪となる。
『エレメンタリストの犯罪は損害額を算定した上で全額を第三資源管理局が支払う事で人類と合意が成り立っている。警察が本腰をいれて捜査する理由はないだろう?』
免罪となる理由は単純だ。
エレメンタリストが自身の能力を使った時、人類の科学力では犯罪を立証する事が出来ず、また物理的に本人を拘束する事も出来ない。立件できず拘束も出来ない相手に刑罰は意味を為さない。
エレメンタリストによる犯罪というのが実際のところ殆ど発生していないというのも社会が免罪を黙認する大きな理由となっている。
インフラが整った環境で文化的な生活を満喫する為の、他の人間を圧倒する個人の力。 というのはたいして必要でないからだ。
生活が保証されているのなら殊更に犯罪に手を染める理由がなくなる。
だがアイリーは別の事に気づく。起こり得ない捜査よりも緊急の疑問だ。
『リッカ、どうやってその情報を手に入れた?義姉さんでさえまだ用件を聞いていないと言っていたのに』
あはー。と言ってリッカが満面の笑みをアイリーに見せる。
『あは、じゃないよリッカ。ハッキングとかしていないだろうな?』
リッカは大きな笑顔をつくったままだ。小さな白い歯列がきれいに並んでいるのが見える。健康そのものの子供の様にきれいな歯だ。
笑顔はそのまま、額の部分がすっと青ざめて陶器質の肌の内側からゆっくりと血管が浮き上がってくるのが見えた。




