03‐ 黒い聖母
泡立つ赤色の中で銀色が斑に浮き沈みする怪鳥の体が白く発光した。滑空していた空間に炎の尾が長く残る。地表で見上げるアイリーに向けて急降下を始めた。
体の色が変わったのは温度が変化した為だろう。アイリーは数知れぬ死亡事故経験の中でその理由を直感した。鳥の形を成しているものが溶岩から溶鉄へと変化したのだ。目視での推測だが温度は1100度前後から2000度近くにまで上昇した事になる。
もはや巨鳥の急降下ではない。頭上10数メートルという極至近距離から大量の溶鉄をぶちまけられたに等しい攻撃だった。
アンジェラの爆撃ドローンやクラリッサの銃撃で対応できるものではない。ミサキの雷撃も効果は薄いだろう。カイマナイナの強制吸収は発動した影に触れさせなければならず、空中からの脅威に迎撃できるものではない。
アイリーの全身が総毛だった。急激な感覚向上が起こる。そこで時間が止まった。
『思考との同調成功。アイリー? わたしの声が聞こえるでしょ?』
リッカの声がアイリーの頭の中に響く。首を動かす事もできずにアイリーは言葉で応答した。
『時間が止まっている様に見える』
『走馬灯現象のど真ん中だからだよ。アイリーの思考速度は極限まで高速化している。わたしがその思考速度に同調している。練習通りの成果が出ているよ、アイリー!』
『このタイミングで俺に対して攻撃を仕掛けてくるとは思わなかった。俺に危害を与える事は第三資源管理局のプロジェクトを妨害する事を意味する。そう判断されるデメリットを考えていないのか?』
『アバルキナが攻撃の指示を出した様子はなかった。誰かが勝手に攻撃を始めたんだと思う。これで集まってきた56名のエレメンタリストの全体像が分かるよね、アイリー。 ……彼らの内の何人かはアイリーがハリストスだと知らない。あるいはハリストスという存在自体を知らない。アバルキナは絶対的なリーダーではない。統制がとれていない』
『この場にネイルソンと共に現れた俺を何だと判断したんだ?』
『出しゃばりのギャラリーじゃない?』
そうなのか。とアイリーは思った。感情は追いついてこない。アイリーの高速思考は自分自身の感情さえ追いつけない速度となっている。
『能力を発動したエレメンタリストが特定できました、アイリーさん。戦闘訓練が足りていないですね。能力発動に際して大仰な仕草を伴ってポーズを取った間抜けが一人だけいました。身元の照会も完了しています』
ドロシアがアイリーの思考に割り込んできた。高次元AIの彼女達もアイリーの思考速度に同調介入する事が可能だ。
『データを送ってくれ、ドロシア。クラリッサ、反撃を頼む。アンジェラ、ネイルソンの反応はどうだ?』
『ベイビーの真後ろに“黒い聖母”発現の予兆が現れているわ。発現完了まで0.65秒というところね。ネイルソンも“練習通り”の反応を示している。ベイビーの安全は確保されたままよ。安心して』
アンジェラの言葉にアイリーが上を見上げる。いつの間に出現したのだろう、身長5メートルに及ぶ人影がアイリーの背後に立ち身を挺して守る様に背を丸めてながらアイリーの顔を覗き込んでいた。
瀟洒なレースを幾枚も重ねて作った大きなボンネットを頭から被り地に接して拡がる長いマントを羽織った黒い肌の聖母。不思議そうに目を見開き口元に微かな笑みを浮かべてアイリーを見つめているがその瞳に感情の動きは一切ない。人の形をとってはいても自我を持たぬ偶像だからだ。
巨大な黒い聖母がレースのカーテンを手の甲で押し開ける様に腕を伸ばし横へと振った。その細い手首と手の甲が白く発光する怪鳥の嚆矢に触れる。
噴きあがる熱エネルギーと急下降で得た運動エネルギーごと、炎の怪鳥が透明なガラスの彫像と変わり果てたのは次の瞬間だった。悲鳴も衝突音も破裂音もない。黒い聖母の滑らかに潤う肌に触れただけで炎は形を保ったままクリスタルガラスとなり、地に落ちて砕け散った。
黒い聖母は俯いた姿勢でアイリーを見下ろしたままでいる。前方にいるアバルキナ達に顔を隠したまま、攻撃の成功を確信したのだろう。黒い聖母は出現時と同じ様に一瞬でその姿を消した。
アイリーの視界の隅、エレメンタリスト達が幾重にも取り囲んでいる円陣の奥で倒れ込む者の姿が見えた。まだ年若い男だった。首筋を真横から銃で撃たれている。斃れたところに繰り返し銃弾が撃ち込まれる。
被弾に継ぐ被弾で再生を阻害され続けているエレメンタリストが苦痛の悲鳴を上げる。どこからの、誰による銃撃なのか。アイリーの傍らに立つクラリッサは銃を構えていない。そもそも人垣に阻まれてクラリッサから地に付している男への弾道は確保されていない。
ドローンから送られてくる鳥瞰映像を視界の中に展開させてアイリーは素早くネイルソン達の様子も確認する。
ネイルソンはアイリーの指示通りに闘志を漲らせた強い表情でアバルキナを凝視している。カイマナイナは視線を地面に落し全身の力を抜いて気配を消す様に何もせず立ち尽くしている。ミサキはアンジェラ達のさらに背後に立ち腕組みをしながら高みの見物を愉しむ表情で全体を見回している。
『全ては訓練通りだ』
アイリーは小さく吐息をもらした。自分の緊張をほぐす為の深呼吸だ。
エレメンタリストは常勝無敗の攻撃力を持っている様に見えるが実戦では付け込まれる隙が多く存在する。それが侵攻作戦から生還したアイリーが得た感想だった。
特にアイリーという防御力のない人間をエレメンタリストの攻撃から守りながら戦うという状況ではその隙を容易く見抜かれる。ニナ、ミサキ、ネイルソン、カイマナイナ、4人がそれぞれにアイリーを防御しては攻撃の総力が落ちる。能力同士が相克しあい本来の力を発揮できない事もある。
ネイルソンとカイマナイナの二人の間柄は特別として連携をとって戦況を切り開くほどの共闘経験も信頼関係もまだ出来ていない。ならばいっそ…… アイリーを頭脳として4人のエレメンタリストと4人の侵蝕部隊を一つの戦闘群体として機能させたらどうだろうか。
そう提案したのがリッカだった。東フィリピン海洋自治国で過ごした二週間の間、日に8時間という時間を割いてアイリーは考えつくあらゆる攻撃に耐え、その場で反撃する訓練に勤め続けた。その訓練の中には侵蝕部隊が裏切った場合、カイマナイナやネイルソンが寝返った場合の対応さえ視野に入れられた。
その成果が今、敵対する56名のエレメンタリストに包囲されているという状況の中でアイリーに冷静さを保たせている。
驚愕するアバルキナに向かいネイルソンが一歩を踏み出した。
「僕に対してどんな必勝の策を思いついて集まったのかは知らない。だが諦めて解散しろ、アバルキナ。この場でアイリー・ザ・ハリストスと一戦を交えようなどと考えるな。君達に勝ち目はない」
「勝ち目…… ふざけるなよ、虐殺者ネイルソン。逃げられない罪人はお前の方だ。57人ものエレメンタリストに包囲されてどう戦うつもりだ?」
アバルキナの声は微かに震えていた。怒りの為か、恐怖の為か。ネイルソンが含み笑いを漏らした。
「どれだけ数を集めようと雑魚は雑魚に過ぎない」
怒号が湧きおこった。




