07‐ イノリ・カンバル
「ご苦労さまでした。アイリー」
扉の奥、パーテーションで目隠しされた部屋の奥から女性の声が聞こえてきた。
声に促されてアイリーは部屋の奥へと進む。部屋の一番奥に大きなプレジデントデスクが置かれてあり、その向こう側に女性が一人。これも大きなプレジデントチェアに細身の体を沈めていた。
アイリーの鼓動が早くなる。
ストレートの長い黒髪を持つ東洋人の女性だった。キューティクルが作る光の環が二重に出る程に丁寧に梳きあげられている。
年齢はアイリーよりやや年上くらいだろう。
僅かに両尻が下がった困り眉に釣り目がちな切れ長の瞳。正面からアイリーを見つめる深い藍色の瞳には厳しい性格に由来する強い力を感じさせる。
唇の口角は優しく上向きに閉じられていて僅かに微笑んでいる様にも見える。
頑なとも感じられる自立心と従順を好む依存心の強さ、論理に覆われた冷酷な攻撃性と感情を燃焼させる保護欲求の強さ、意志の強靭さと心根の脆弱さ。
両極にある一面がどちらも同じ一つの顔の中に混在しながら絶妙なバランスを保っている。
そんな雰囲気を持つ女性だった。
「報告を受け取りました。見事だったわ」
イノリ自身も年に数回は終末期再生調査を実施する特別調査官だ。
同じ痛みを知る者の労いの言葉は生還したアイリーの委縮したままの体を日光の様に寛解させ体温さえ取り戻させた。
「犠牲者が感じ取った振動を切っ掛けにノイズの中からワイヤーの擦過音を抽出し事故の予兆としてサンプリングを得る事が出来た。アイリー、貴方ならではの成果でした」
イノリが微笑んだ。
「故人がとった行動の理由は専門のカウンセラーを通して夫人に伝えられます。夫人が犠牲者の行動結果を自分自身の誇りとするためには長い時間と葛藤が必要となるでしょう。でも必ずその時は訪れます。貴方がもたらした救済です。アイリー」
ゆっくりとした口調だがそこに幼さや鈍重さは感じられない。彼女が持つ知性と心の落ち着きが滑舌と声音に現れている。
アイリーに労いの言葉をかけながら室長のイノリはプレジデントチェアから立ち上がった。
自分の机の袖においてある小さなマシンに近寄る。
口調が少し改まった。言葉が早くなり、声質も少し高くなる。
「す、少し待っていて……。 あなたの好物を淹れるわ。椅子は勧めないわよ? パワードスーツを着けたまま座るとフレームが身体に当たって痛いでしょう? 楽な姿勢をとっていてね?」
アイリーが僅かに顔を赤らめながら頷いた。やや膝を折り曲げながら腰高に屈む様な不思議な姿勢をとる。
事情を知らない者がみたら却って体の各部に負担がかかりそうな姿勢だが筋肉の量に合わせてもっとも体重を掛けやすい場所をパワードスーツが支える、本人にとっては最もくつろげる姿勢になる。
「……私とはもう比べる事もできないハイペースの調査ね、アイリー? ……あなたの実力を知っているから許可はだすけれど…… お願いだから、無理をしないでね?」
アイリーに目線を合わせる事もせずに、呟く様にイノリが言った。
イノリの手元にあるマシンから蒸気が噴き出す音がする。
エスプレッソの良い香りが漂ってくる。
イノリがマシンを正面にした姿勢のまま横目でアイリーを見た。
整った横顔はそのまま、切れ長の瞳の中で深い藍色の瞳孔だけが動いて自分を見つめている。その事に気づいたアイリーが微かに顔を伏せた。
『このチョロさな』
アイリーの中で承認欲求が急速に満たされている事を確認したリッカが嘆息した。
『分かって仕掛けてきているご褒美に釣られるチョロさな』
『…そういう言い方するなよ。問題ないだろ?』
思考の中でリッカの嘆息にアイリーが抗議する。リッカはまだ姿を見せずにいる。
『批判じゃないよアイリー。認めなよって話だよ。アイリーはイノリに特別視された時だけ承認欲求が決壊レベルで爆溢する』
『仕事の難しさをよく理解してくれている上司に認められる。当然の反応だろう?』
『ちんこが連動する理由を述べてみて』
『ちんこ関係ないです』
『ナビゲーター相手にナニ言ってんだか』
リッカが盛大な音量で溜息をついた。
「……今朝は驚いたわアイリー。セイントマザーAIのテレサが自分で依頼を持ち込むなんて聞いた事がない。国際医学会のメイン講演でしかその声を聞く事ができない存在よ」
リッカとアイリーの会話はイノリの言葉で不意に中断された。
イノリがデミタスカップを持ってアイリーに手渡してくる。
男性のマナーとしてイノリの手に触れない様に気を付けながらアイリーが小さなカップを受け取ろうとする。
すっとカップを脇においてイノリが両手でアイリーの遠慮がちな手を取り、柔らかな掌で包んだ。
アイリーの息が止まる。




