02‐ 鶏鳴の試練
瀟洒なしつらえのリビングルームに移動して横長のソファに座りながらイノリはアイリーが見ているものと同じ映像を見ていた。
アンジェラとクラリッサがイノリの両脇に座っている。手の指を一度開き、祈りの形に指を絡め合いながらアンジェラとクラリッサはイノリの手を握っている。イノリの肌に小さな粟が立ち上がっている。
イノリも年に幾度かは終末期再生調査を実施し難解な事故原因の解明に取り組んでいる。今、ジブリールが受けている痛みをイノリは実際に体験している。その体験が彼女の体に震えを起こしている。
「彼女とは無関係の私が彼女に痛みを与えている……。 酷い話ね」
「今、まったく同じことを言いながらアイリーも頭を抱え込んでいるわ。貴女たちは本当によく似ているわね」
「その実行犯がここにいるあたしなんだけどねえ」
アンジェラとクラリッサの返答にイノリは小声でごめんなさい、と詫びた。イノリの手が小刻みに震え続けているのを二人の手が強い力で握り返している。イノリの両頬は涙で濡れている。泣き顔をつくり声を震わせ感情を発散させる事を意志の力で拒みながら、抑えがたく湧き上がる涙だけはどうする事もできない。
アンジェラが柔らかな布でイノリの頬に伝う涙を押さえた。イノリが泣いているのはジブリールの痛みを自分の身に置換えて恐怖しているからではない。自分の知る痛みをジブリールの姿に重ね合わせてジブリールを案じているからだ。アンジェラもクラリッサもその事に気付いている。
「……泣かなくてもいいのよ、イノリ?」
「私がジブリールに苦痛を与えているのよ? なのに彼女を気の毒に思って涙が止まらない。この涙は偽善者が流す自分を正当化するための偽の涙よ。私の性根がよく現れているわ」
息を漏らす音をたててクラリッサが笑った。
「英雄嬢ちゃんをいたぶっているのはあたしだっての。なあ、テレサ? イノリはバカだろう?」
テーブルを挟んでイノリの正面の席に座っているテレサが問いかけられて微笑んだ。
「誉めている様にしか聞こえないわよ? クラリッサ?」
「誉めているんだよ。あたしはイノリが好きなんだ」
テレサがイノリを見つめる。
「正直、貴女がネイルソンの描いた復興プランにまで助言をするとは思わなかったわ。それも誰も思いつかない様なプランを。何故そこまで深く立ち入ろうとしたの?」
そう問いかけたがイノリの真意を理解できないテレサではない。イノリ自身に語らせる事で心に冷静さを取り戻させようという配慮からだった。イノリが答える。
「浅ましい勝手な理由です。テレサ。復興が頓挫したら犠牲となった人達は無駄死にとなってしまう。アイリーはその事を自分の罪と感じて一生悔い続けるでしょう。 せめてあの戦争は無駄ではなかったという未来をアイリーに見せたかったんです」
アンジェラが小さく首を振りながら溜息をついた。
「夫のモヤモヤを晴らすために二つの国が再興する布石を打てる。別に浅ましくはないわ。富豪と庶民とではお金の使い方が根本から違うのと同じ。溢れる才能を持つ者は非才な者には理解できない才能の使い方をするものよ。それは持つ者が恥じる事柄にはならないわ」
「私は経済の回復策について学んだ事がない。実際に再興を担うのはその国に生きる人たちよ。それにジブリールが信用に足る人物だというドロシアの分析があったから思いつけた話よ」
……それに、まだ夫じゃないわ。と小さな声で抗議する。アンジェラがもう一度呆れかえった溜息をついた。
イノリは既に“世界の存続よりもアイリーが生きながらえる事を優先して考える”と宣言している。その宣言がプラス方向にも働くのだとは想像したことがなかったのだ。イノリの発案を支えたのは被災した国を支援したいという想いでも世界の繁栄を確かなものにしたいという理想でもなく、アイリーが自分を責める材料を減らしたいという欲だった。
「非才な者…… 例えば英雄嬢ちゃんが知ったらぶん殴りたくなる様な才能の使い方だよな」
クラリッサの笑いを含ませた声音は平和なものだった。とても同じ瞬間にそのジブリールに瀕死の加虐を与えている最中とは思えない。
テレサが頷いた。
「イノリの予想は的確でした。ジブリールを中心とした新政府が無事に再興を果たしたとしても世界の主要国が彼らを尊重するとは限らない。成り上がりの新参者には連鎖の末席だけ与えていいように使いまわし、後は無視しておけばいい。例えスウェーデン王国貴族の支援があったとしても、むしろ余計な成長はしない方がいい。当然の扱いでしょうね。」
アンジェラがアイリーに告げた“非力な者のリスク”の事だった。続けて語るテレサの声音に称賛の思いが込められ始める。
「その扱いを見越した貴女のプランには驚かされたわ、イノリ。 世界にジブリールを認めさせるためには相応しい権威を与えれば良い……。 ジブリールは貴女達の脅しに怯え、最後まで信じなければいけないネイルソンを見限った。ネイルソンは二度と祖国の政治に関わらない事をアイリーに誓った。戦後に真実を知り、ネイルソンを失った事を知ったジブリールは自分の過ちと向き合う事になる。そのトラウマを乗り越えた時、ジブリールは鶏鳴の試練を乗り越えた英雄と呼ばれる様になる」
この戦争が誰によって仕掛けられたものかを後世の歴史家が知る事は難しいだろう。市民の虐殺を前提とした国家再興という真実は徹底して秘匿されるからだ。だが同じ時代を生きる世界の重要人物達はこの経緯を知っている。
「ヨハネによる福音書の13章。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう…… ね。信仰の弱さそれ自体は罪ではない。弱さを認めながら前を向き続ける意志こそが重要。貴女の進言通り、ジブリールが再興の道を歩み始め一定の実績を出したタイミングで私が法王に彼女の加護を祈ってくれる様に働きかけましょう」
テレサの言葉にイノリは深々と頭を下げた。アンジェラがその震える細い肩を抱きしめ、クラリッサが艶やかな黒髪を優しく撫でる。
「バチカンが加護の祈りを与えたアラブ人を軽く扱える国は……真っ赤なあの国と真っ赤なあの国以外になくなるわね。世界史に残るパラダイムシフトよ? イノリ? それがアイリーのがっかりを見たくないため? ふふ。ふふふふ」
堪えきれずにアンジェラが笑いだしてしまった。つられたのかテレサも笑い声をもらす。
「真っ赤な国が信奉しているのはマネーよ。バチカンを頼るまでもない、私が掌でコロコロできるわ」
そう言ってテレサは幼い少女の小さな掌を拡げて見せた。かつて数世紀にわたって世界を緊張させ続けた強大国に対する絶対の自信の表れだった。
「テレサが私の護衛に名乗りを上げて下さった。その事がヒントになりました。後見人は強大であるほど効果が高い。言ってみれば簡単な事だけれど……」
「ネイルソンが全面降伏する訳よね。イノリ? なぜ誇らしそうな笑顔を見せないの?」
「……ジブリールを部外者の私がひどく傷つけるという事実は揺るぎません。 ……アイリーは私を酷い事を考えつく悪魔だと思わないか…… それが不安なんです。テレサ……」
「馬鹿ね」
「ごめんなさい」
「誉めているのよ、バカ」
「お? 珍しく意見が一致したね? テレサ?」
そう言ってクラリッサが笑った。ハッシュバベルの中枢を担う高次AIに対する遠慮の壁を最初に下げ始めたのはクラリッサだった。
クラリッサの非礼を鷹揚に受け流しながらテレサが真顔にもどった。画面の中ではネイルソンがミサキの雷撃とシャオホンの火焔を受けてその巨体を霧散させている。
「最後に残ったのが、カイマナイナとアイリーの対峙ね。アイリーは無事に還ってこれるかしら?」




