02‐ 感覚同調して朝ごはん
身支度を整えてからアイリーはリビングの扉をあけた。単身者用の住居はコンパクトで寝室はリビングに直結している。
掃除が行き届いているのはHKMの成果だが家具が少ないのはアイリーの趣味だ。
一つしか椅子のないテーブルにアイリーは腰を下ろした。誰もいないテーブルの正面に向かい「おはよう」と声を掛ける。
無人だったテーブル正面に椅子に座った少女が現れた。椅子ごと現れたのだ。
雪山の頂に朝日が差した様な明るい白い肌をもつ少女。肌の質感は人間よりも陶器の表面に近い。毛先を巻かずに耳とうなじを露出させているショートボブの美しい少女だ。
幼い子どもの様に切れ上がった薄い麻呂眉の下に大きな二重の瞼が見開かれている。
陶器の肌質のまま、少女がアイリーに笑いかけた。
『おはよー! アイリー! 体調確認するよ? 体温・血圧・脈拍…… クリア。大脳 一次体性 感覚野に同調…… 簡易判定ストレスチェック…… クリア。主観的体調不良の自覚確認…… クリア。起床時間も予定通り。うん。今日も絶好調だよね?』
『ああ。絶好調だ。ありがとう、リッカ』
アイリーの謝辞にリッカと呼ばれた少女が笑顔をみせた。
『もっと感謝しても構わないよ?』
目の前に突然現れた少女・リッカはもちろん幽霊の類ではない。
彼女の姿はアイリーの虹彩の裏に埋設されているレーザー投影機から網膜に直接投影されるAR、拡張現実影像だ。24世紀では人間の視覚では作られた影像か実像かの判別がつかない造影が実現している。
リッカが微かに顔をあげて匂いを嗅ぐ仕草をした。短いながらも形よくまっすぐに筋がとおった小さい鼻からスンスンと音まで聞こえてくる。
焼きたてのチョコワッフルの甘い香りが漂ってきた。アイリーの食欲が刺激される。HKMがアイリーの朝食を運んできた。
リッカが右手で何もない空間をなぞった。窓ガラスを拭く様な仕草だ。その掌の軌跡に合わせて幾つかのアイコンが宙に浮かんで固定される。
『味覚野との同調深層化』
リッカの宣言と同時にアイリーと同じメニューがリッカの前にも現れた。アイリーにだけ見える、これも拡張現実映像だ。
同じメニューだが細部が若干違う。アイリーは白のワンプレートだがリッカの前には丸いボーンチャイナのプレート。ワッフルもアイリーのものに比べて小振りなハート型に焼き上げられている。
リッカさんのは、小さいね。というアイリーの言葉にリッカが笑顔で答える。
『ま、ダイエット中だしね! ガマン、大事だよ?』
『なる……ほど』
アイリーがワッフルを小さく切り分けて口へと運ぶ。リッカもアイリーと同じタイミングでワッフルを口にした。
小麦のしっかりした味にバターの塩味と香り、チョコレートの濃厚な甘みが上乗せされた味わいが舌の上に広がる。
『おっ…美味しい…っ』
リッカが目を細めた。演技ではない。アイリーの脳が感じる味わいに同調しているのだ。
『アイリーは美味しく食べるのが上手だよね』
『そう?』
リッカが満面の笑みを浮かべながら頷く。
『成分解析じゃ美味しさって伝わってこないんだよ』
小さな一切れを口にしただけのはずなのに片頬をリスの様に膨らませ、もっしもっしという音まで立てながらリッカが説明する。
『アイリーが嗅覚から記憶を呼び覚まして感じる“これこれ”っていう期待値の向上や‟この味! これが食べたかった!”っていう満足感が、”味わい”っていう感覚を生むんだよ。アイリーはその感覚を生むのが上手。わたしも一緒に食事して幸せ』
その目には紛れもない満足感と幸福感が表れている。上機嫌な表情のままでリッカがアイリーへと話しかけた。
『じゃあ、今日も忙しいアイリーの予定を調整するよ?』