01‐ 怨霊
お食事時の暇つぶしには不適切な表現が含まれています。あらかじめご了承下さい。
見上げても見上げても視界が追いつかない。後頭部が肩にのるほどに顔を上に向けてようやく白く巨大な仮面が目に入った。それほどに巨大な姿だった。
目視でサイズを把握できる。事故原因調査官として積んだ経験がアイリーを愕然とさせた。
『全高は50メートルというところか』
『パリの凱旋門と同じ大きさだね、アイリー。行った事ないから丁度良かったよね。凱旋門もこれくらいの大きさなんだねえ』
怨霊の姿をとったネイルソンが咆哮を上げる。閉鎖された地下空洞で錆ついた巨大な鉄扉がこじ開けられた様な音。鯨のサイズまで巨大化したライオンが細いトンネルに首を入れて狩りを宣言する怒号を発した声。アイリーにはその音量が重量を持つ白い飛沫となって自分に打ち付けられてきた様に感じた。
全身が恐怖に粟立つ。大音量に呼吸が止まる。クラリッサ達の支えがなければ膝を折って地面に座り込んでしまっていただろう。対峙しただけでここまでの恐怖を感じたのは初めての経験だった。
『騒々しいわね』
『五月蠅ぇ』
『やかましい限りですね、アイリーさん』
侵蝕部隊の3人は恐怖を感じていない様だった。それだけでアイリーの気持ちに大きな支えが出来る。アイリーはネイルソンの胴体部分へと視線を向けた。
中継映像で見た時には炭粉を噴く黒い塊にしか見えなかった。実際は違う。数メートルの長さを持つ黒い毛がもつれあいながら全身を覆っている。原油にも似た粘り気のある光沢を放っている。反射する光にも臭気が伴っている。発酵した唾液の臭気。頭痛が起きそうな密度だ。
絡みもつれあう長い毛の合間から覗くものを見てアイリーがもう一度恐怖に硬直する。圧倒的質量でアイリーの視界すべてを覆い尽くしている穢れた長い毛の合間から見えたのは数十数百を数える人間の口だった。
唇は消失している。酸化し焦げ茶色に変色した歯肉がむき出しになり堆積した歯垢と無数の傷と亀裂と酸蝕で歯は腐敗した粘板岩の様になっている。眼球に痛みを覚えるほどの刺激臭を吐き出しながら無数の口がそれぞれに叫び声をあげている。
アイリーの四肢が激しく痙攣した。自分の意志に反して体が緊急避難を選択したのだ。足が地を蹴り両腕が防御を求めて暴れ始める。だがアイリーの体はクラリッサ達に抱き留められ自由に動かせる状態ではなかった。磔にされているに等しい。
リッカがアイリーの目の前に立った。僅かに横顔が見える。好奇心と興奮でリッカの頬は紅潮していた。
『すごい数の口が勝手に喚いているよ!? アイリー!? あの口の一つ一つに肺があるのかな? 肺を膨らませなきゃ声でないから肋骨と横隔膜も? 体の中ぎっちり肺まみれ状態!? 無駄すぎる体してない!?』
アイリーの心は恐怖で我を忘れかけている。だがリッカの思考はアイリーが本来考えつくもの、辿りつくものに沿って展開している。
“ネイルソンの咆哮、無数の口と喚声をアイリーは化け物が生み出した異様の産物と捉えないのね。実際にそこに存在し、何らかの働きをしている以上は科学的知見で本質を観測できると確信しているのね”
アイリーに伝える事はしなかったがアンジェラはリッカとアイリーの思考展開を驚きをもって見つめていた。イノリならば…… 咆哮は意味を伝える規則性を持っているのではないか。ネイルソンはどうして自分の体に無数の口と長い体毛を装備させているのか。その意図から観測を始めるはずだ。
“本当に…… アイリーとイノリの分析はアプローチの仕方が違うのね”
敵にとって最低の悪手は自分達の前に姿を現す事だ。アイリーはそう断言していた。その言葉をアンジェラは思い出していた。
アイリーの視界の中でリッカが振り向いた。その顔に緊張と恐怖が表われている。
『アイリー!? その声はどこから聞こえているの!?』
リッカの問いかけをアイリーは理解できただろうか。アイリーの頭の中に一つの声が響き渡った。通信網を媒体としていない声だからだろう。アンジェラ達には聞こえない声だった。
『……この姿に恐怖したか? アイリー・ザ・ハリストス? 怯えさせてしまった事をすまなく思っている。今、その心から恐怖を消し去ってあげよう。私の声を聴け。恐怖は消失する。恐怖を呼び起こす闘争心も、失敗を恐れる使命感も、痛みを忌避する生存本能も、今の君には必要ない。消失せよ。私の声だけを頼りに、心に安寧を取り戻せ』
それは穏やかなネイルソンの声だった。恐怖に痙攣していたアイリーの体が弛緩する。
アイリーとネイルソンの間に歩みを進めたのはエイミーとシャオホンだった。二人ともアイリーの変化には気付いていない。そもそもアイリーに興味を持っていない様に見える。
「……臭い」
エイミーが不機嫌を隠さずにそうつぶやいた。その口元には好戦的な微笑が浮かんでいる。
「あんな汚い歯を物質化させたって事はだよ。歯磨きも出来てねえ奴の口の中をネイルソンは実際に見た事があるって事なんだよね。オエっ」
シャオホンが胃のあたりを手で押さえながら顔をしかめた。斜め後ろを振り向いて鋭い声をあげる。
「ミサキ!! 影が薄すぎる!! ボケっと見てんじゃないよ!! お前が最初にネイルソンをぶん殴ってこい!!」
怒鳴られてミサキがシャオホンに並び立った。不満そうな表情をしている。影が薄いって、ヒドい。と抗議もしているがシャオホンに睨まれて首をすくめる。
「俺が相手してもいいのか?」
「安心しろ!! お前とネイルソンでは格が違う。お前では絶対に勝てない。前ハリストスのメンバーだったヤツの実力を肌で感じてこい!! 負けたら休憩とっていいぞ。許す!!」
「ははは。見くびられたもんだな。傭兵として現役で戦場に立ち続けてるのは俺の」
「口答えか?」
シャオホンの問いにミサキの顔色が一瞬で土気色に変わった。厳しい眼差しで遥か上方にあるネイルソンの頭部を睨む。小さく口にした呪詛はネイルソンに宛てたものではなかった。
「くたばっちまえ。くそばばあ」
全高50メートルに及ぶネイルソンの全身を取り囲む様に空間に無数の穴が現れた。雷鳴を漏らす穴。青い光を漏らす穴。薄緑色の光を明滅させている穴。地上から見上げると穴は球体にも見えた。ミサキが両腕を大きく広げる。
「悪く思うなよ、ネイルソン」
雷光が走った。




