08‐ ドロシアとラウラ
床面と壁、天井との境界線が見当たらない白一色の世界は無限の広がりを見せている。背景が省略されている仮想世界の特徴だった。
巨大な画面が中空に浮かぶ。映し出されているのはアイリーだった。驚愕の表情が浮かび上がると同時に顔色から血の気が失われ粘土細工に等しい色あいに変化していく。
驚愕は一瞬で削ぎ落され、次に浮かび上がってきたのは絶望の表情。目線が逃げ道を探し始める。微かに唇が開かれる。助けを呼ぼうとしている。瞳孔が縮小する。現実を受け入れる事を拒否しはじめているからだ。
だが逃げ道は見つからず、叫び声をあげる事もできず、縮小した瞳孔は小刻みに揺れながら光を失ってゆくばかりだ。思考が停止しているから。何も判断できなくなっているからだ。
巨大な画面に大写しになっているアイリーの絶望の表情を見つめているのはドロシアだった。背もたれと肘置きがあり足も投げ出せるリクライニングチェアに身を沈めている姿勢をとっている。チェアが見えないのは外観の設定を省略しているからだ。
ここはドロシアが設けた仮想空間だった。アイリーを見つめるドロシアもまた普段決して浮かべる事のない表情を面に出している。
『最高…… 最高の表情です、アイリーさん。自負心と自己嫌悪がせめぎ合いアイリーさんの思考を空疎にしていっている……。 知性と尊厳が…… 腐れ落ちてゆく肉の様にアイリーさんから溶けて離れてゆく。人間性を喪失し知恵が欠落し人の構成要素が瓦解し、酸素による有機物分解機能を持つだけの物体に堕ちてゆく…… 人が物になる瞬間の美…… ふふ。ふふふ』
小さな含み笑いをもらしながらドロシアの口は歓喜のために大きく開かれている。幼い子供が見せる快感だけで構成された上機嫌な笑顔。眼は不自然なほど大きく見開かれ瞳孔の内側から淡い光が漏れ出している。
頬を上気させながら涙目になり浅い呼吸を繰り返し始める。爆笑をこらえているのだ。それほどの歓喜を自分の中に封じてその内圧さえも愉しんでいる。
『驚くべき悪趣味を持っていたんだな』
背後からそう声をかけれられてドロシアは上機嫌な笑顔のまま声の主へと顔を振り向けた。
北欧の古代民族にルーツを持つ美しい顔立ちの少女が苦笑を浮かべながらドロシアを見つめている。
ワイン色を基調とした厚手の生地にストライプが入るクラシカルなジャンパースカートに同色の上着を合わせた装いは18世紀欧州に流行したスタイルを基調としている風に見えた。
『……グスタヴィアン・スタイルですか? とてもよく似合っています。ようこそ。貴女を歓迎します。ラウラさん』
『私の筐体を破壊せずに引き渡すから今すぐにカイマナイナを回収に差し向けろ…… 君にそう囁かれたときは自分の耳を疑ったよ。ドロシア特別捜査官。私と君は敵対している間柄、戦闘は続行中だと解釈していたが?』
クラリッサが半人半蟲姿のラウラの筐体をハックしラウラの遠隔操作を遮断する直前にドロシアが囁いたのは筐体の回収方法だった。
『私達部隊の任務はアイリーさんの護衛。部隊の存在目的は合衆国内秩序の維持です。戦闘の主体として部隊とアンファンテリブルが敵対関係にある訳ではありません』
『……君は言葉通りに私の筐体にあれ以上の損害を与えずに返してきた。その真意に興味があったから君の誘いに応じてこの場へとやってきた。 ……何が目的だ?』
空中に浮かんでいた画面が消えた。ドロシアの表情も平時のものと変わる。慎みがあり思慮深く、情愛に溢れた美しい顔立ちだ。
『ラウラさんの半人半蟲姿の筐体は問題点を解決する事で圧倒的攻撃力を得る事が可能です。私達部隊が装備と情報と資金を援助します。取引を提案します、ラウラさん』
『大きなお世話だ』
ドロシアが立ち上がりラウラの正面に立った。ゆるやかなニットセーターと裾の広いパンツスカート、編み上げブーツ姿はいつも通りだ。いつもと違うのは両手。革製に見える無骨なガントレットグローブをはめている。
ドロシアが笑顔を見せた。アイリーが絶望する様を見て狂喜した時と同じ嗜虐の悦びに思考を預けている笑顔だった。
『貴女は軍事の先端企業の最新鋭を知らない。仮想空間内で貴女のフル装備時のデータを実装して下さい。現実を教えて差し上げます』
返事もせず表情も変えずにラウラが両腕を前に突き出した。両手の先には2丁の自動拳銃が握られている。仮想空間内での模擬戦をラウラは受け入れたのだ。
銃口がドロシアの急所へと照準を定めるより先にドロシアはラウラの右側へと体を滑り込ませた。親指と人差し指、中指の3本で銃を握るラウラの親指を捉える。ラウラの手首の外側に自分の手首を沿わせて強く握り込む。
手の甲側、逆方向に指をとられたラウラの親指が関節から折られた。次いで肘を支点に前腕が捩じり折られる。
痛みを知らぬラウラはもう一方の手にした銃をドロシアへと向ける。ドロシアが空いた方の手でラウラの手を掴みラウラ自身の首を巻き込む様にあらぬ方へと銃口を逸らしてしまう。
『半径3メートル以内の距離で私に銃は通用しません、ラウラさん。損傷データを書き換えて無傷の状態に戻してください』
飛びのいたラウラの両手が瞬時に元に戻る。仮想空間内ならではの出来事だが実戦であったなら。ラウラの表情に怒りが浮かんだ。復旧した両手には大ぶりのナイフが握られている。
近接戦ならば長身のドロシアは腕の長さを活かしきれず小柄なラウラは懐に入り込んで自由に攻撃を与える事ができる。それがセオリーであるはずだった。
右手のナイフを最短距離で突き出す。その腕を掴まれて左に流された。ドロシアの体がラウラの右横へと回り込む。ドロシアの肘がラウラの肩を背中から押し込んできた。右腕は取られたままだ。肩関節が破砕され体幹を維持する事もできずにラウラは足元に押し倒される。
右腕の機能を捨てたラウラが体を小さくまるめて前転を試みた。距離をとってさらに低い位置からの突撃を狙ったのだ。
勢いをつけたラウラの頭、眼の窪みにドロシアの親指が突き立てられた。そのまま側頭部を握り込んで顎を上に晒すように頸部を破壊する。身体全体で前転態勢に入っていたラウラの首が胴から千切られた。
『まるで相手にならない。マーシャルアーツか?』
自棄自虐の笑いを込めてラウラが問いかけた。
『我流の暗殺術です。打撃技や蹴り技は不要なので追及せず指先でえぐる事と潰す事に特化させています』
『えげつないな』
ドロシアがラウラの首を倒れている体の上に戻す。外観データを書き換え無傷の姿に戻ったラウラが苦笑を浮かべながら立ち上がった。
『先端企業の機密がタダで手に入るとは思っていない。取引条件を聞かせてもらおうか』
ドロシアがラウラの問いに答える。取引条件を聞いたラウラの顔に驚きが浮かんだ。少しの時間を沈思に費やした後に笑顔を浮かべた。
『なるほど…… なるほど。私を強化する事が君たちの作戦上必然となってくる訳か。悪くない条件だ。 ……アイリーは承知しているのか?』
『アイリーさんは連邦捜査局の人ではありません。部隊の全貌を知る必要はありません』
『良い答えだ』
ラウラが右手を差し出す。ドロシアがその手を固く握り返した。




