06‐ 洗脳
アイリーは大きな笑みを浮かべて優しくクラリッサの頭を撫でた。
「うぉぉ?」
クラリッサがへんな声をあげる。アイリーの行動がまったく予想していなかったものだったからだ。人間への発砲はアイリーが最も忌避するところだ。何よりアイリーがこの場にいるのは市民を救出するためだ。事情がどう変わったとしても、その市民に銃を向けるという判断をアイリーは断固拒絶するだろう。クラリッサはそう予想していた。
「ありがとう、クラリッサ。あなたの声でレストランコートの事件を改めて思い出したよ」
続けてアイリーは思考回線でミサキを呼び出した。エレメンタリストのミサキは思考回線を装備できない為、音声に変換された上で耳につけたインカムで会話する形となる。
『ミサキさん、市内の侵攻軍残存勢力の分布状況を教えてくれ』
「掃討アンドロイドは全部、太平洋に物置代わりに浮かべている廃空母の上に転移させちまった。燃料切れ起こしたらプログラム書き換えて再起動させて俺達の戦力にしちまおう。 ……と、思って整備マニュアルどこかに売ってないか物色中だ」
『分布状況を……』
「市内に侵攻軍はもういないよ、大将」
『さすがだな。状況が大きく変わった。抵抗勢力は守護者連邦の国民らしい。俺達にも銃を向けてきている。街に残る人間全員を麻痺させてくれ。死傷者なく状況を整理したい』
過去の悲劇に仮説を持ち込んでも結果は変わらない。だがもし仮に同じ悲劇が今、目の前で起きたらどんな対応ができるか。侵蝕部隊、雷撃のエレメンタリスト、腐敗のエレメンタリスト。心強い味方を得る度にアイリーが繰り返し考え続けていたことだった。
とっさの思いつきではない。原因が分からないまま一般市民が自分に敵意を向けてきたらどう対応するか。アイリーは何度もその可能性を検討し続けていたのだ。
「おお! とっさによく思いつけたな、大将。 ……麻痺は完了した。だがアフリカでのこの気候だ。数時間で全員が脱水症状を起こす可能性がある。忙しい対応になるぜ?」
了解した。と答えてアイリーはドロシアにその対処を丸投げした。救助の具体的ハウツーについてはドロシアとエドワードがもつ経験こそがアイリーにとっての最善策となる。
『気温31度の晴天の屋外に数万人を昏倒させたんですか!? 自力で日陰に移動する事もできない!? 太陽の動きにあわせて危険地帯が移動しますよ!?』
ドロシアの悲鳴が聞こえてくる。言われてみれば…… とアイリーは自分の迂闊な判断に動揺した。だがミサキの笑い声がドロシアとの通信の中に割り込んでくる。
「日照はともかく、気温が25度前後になる程度の霧を発生させとけばいいだろ? 必要なら小雨程度の水も撒いておこう。風邪をひく者が出るかも知れないがそれは大目に見てくれ」
そんな事も出来るのか…… とアイリーは改めてミサキの能力に驚きを覚える。一個人が天候を左右する能力を持つなど想像したこともない。
「俺の能力を評価してくれるのは嬉しい限りだがアイリーさん…… 最優先に解決が必要な難問の順番が入れ替わったぞ。踏まえて状況を判断してくれ」
東ブリアの解放はアイリー達の圧勝という形で決着した。結果をみればアイリーは天幕内のソファから一歩も動かずに侵攻軍を壊滅させた形になる。
それはつまり、首都侵攻の開始条件が整ったという事だ。
そしてもう一つ。とミサキがアイリーへと伝えてきた。
「最悪の可能性を考えておく必要がある。アイリーさん…… 守護者連邦の一般市民が異国の街で軍事力相手に怯まない蛮勇を見せつけた。あり得ない話だ。守護者連邦がこの騒ぎに沈黙を守っている理由も全く分からなかった。だがこの二つの話は最悪の可能性で連結させる事ができる」
聞かせてくれ、とアイリーがミサキに話の続きを促す。ミサキの言葉に戸惑いや言い淀みは感じられなかった。最悪に備えるという事に慣れているからだろう。
「ネイルソンの能力は未知のままだが…… 最悪を考えるならば彼は数万人という規模の人間を洗脳する能力を持つ可能性がある。人間を思い通りに操るのは難しい。数人程度ならともかく数万人というのは埒外ともいえる話だ。仮にその能力が守護者連邦国民全員に自殺を強制できるレベルだとしたらどうするか。アイリーさん、あんたはそれを考えておくべきだ」
『ひとりふたり尋問してみようよ、アイリー。洗脳にも種類があるんだから。状況を理解しないで不安だけ抱えていると対策を思いつく時間にロスがでる』
リッカがアイリーの目の前に現れてそう言った。洗脳のエレメンタリスト、という言葉そのものに思考が停止しかけたアイリーが平常心を取り戻す。
『洗脳にも種類がある、という内訳を教えてくれ。俺は洗脳について予備知識を持っていない』
アイリーの問いかけにリッカは得意げな表情を浮かべた。いったんアイリーに背を向けて細い背中と小さな尻をアイリーの目の前に晒しながら彼の膝の上に腰を下ろす。
『アンジェラとクラリッサ、ジャマだよねえ。ソコはわたしの定位置なのに』
『洗脳の内訳という話をしてくれ』
アイリーが重ねて問いかける。リッカがアイリーの膝の上で振り返りながら細い手を顔の高さまで上げてみせた。小さな拳をつくっている。人差し指を伸ばした。
『判断アルゴリズムに介入して特定行動を最優先させるのが一つ。本人に自由意思は喪失していないと錯覚させながら、常に特定行動を選択する様に仕向ける。これは暗示のシステムを踏襲すればエレメント・アクティビティに頼らなくても実現できると思う』
中指を伸ばした。2つ目の可能性だ。
『特定行動以外の判断を阻害する。行動は先鋭的になるけれど一般常識とかも阻害されるから周囲には異常行動をとっている様に見える。だから見つかりやすいし拘束も容易になると思う』
薬指を伸ばす。
『個性を消失させて個人を操り人形にする。でも数万人規模で個人を操るとしたら、要求される情報処理能力はAI群の力でも借りなければ実現不可能。ネイルソン一人で実現できることじゃあないと思う』
『ニナが最初に俺を襲った時、感染した市民は俺を目指す行動をとった。あれは洗脳だったのか?』
リッカが一瞬沈黙した。
『ニナの能力は寄生菌による行動制御に分類されるらしいよ。周囲を汚染させるためにその場に留まる程度の指示しか出せない。簡単な言葉を復唱させる事はできるけれど複雑な判断を伴う行動は指示出来ないらしい。ジューリアは例外。ニナ自身が意識を同調させて行動を操ったと言っている。一回に一人が限度で複数人に同時憑依は無理だって』
アイリーの脳裏にジューリアの笑顔が浮かびあがった。日常的にアイリーに注目していたという理由だけで犠牲者として選ばれてしまった女性。アイリーが原因で命を落とした最初の女性だ。
今のアイリーはジューリアを殺したエレメンタリストを自分の脳内に同居させている。
強い自責と嫌悪の念がアイリーの心に湧き上がる。リッカの叱声がアイリーの思考の沈下を留めた。同時にドロシアからの通信が入る。緊迫した声だった。
『アイリーさん!! 首都侵攻が始まりました!! 都市間を結ぶ幹線道路が爆撃で破壊されました。都市封鎖です!!』




