06‐ 帰還兵症候群
壁にぶち撒けられたネイルソンの血痕が室内へ向けて墨の様な色彩を噴き出す。中から現れたのはカイマナイナに抱きとめられた恰好のネイルソンだった。
「残された体の最大部分で再生するのはその方が効率が良いという理由でしかない。アイリーは僕の視線に気付いていた様だな。聡い青年だ」
「どう? アイリーと直接話をしてみて? 見どころのある坊やだと思えた?」
カイマナイナがネイルソンを抱きとめたままそう尋ねた。再生するネイルソンの体を影の中に隠しつづけたのは、そもそもアンジェラとドロシアを過重力のアクティビティで圧壊させたのはカイマナイナだった。
ネイルソンはカイマナイナの問いに答えずにラウラへと顔を向けた。
「致命傷は痛みを感じない。前情報は本当だったよ、ラウラ」
「良いニュースね」
ラウラの背から銀色の触手が伸びたのは一瞬。鞭を撃つ様な軌跡でネイルソンの首を跳ね飛ばしたのは同じ瞬間だった。ネイルソンの体が再び大きく揺らぐ。
「心配しないで、カイマナイナ。帰還兵症候群対策よ」
バランスを失ったネイルソンの体を抱きとめたカイマナイナにラウラが平然とそう言った。その言葉が終わる前にネイルソンの頭部は再生を終えている。切断された時に飛び散った血飛沫と床に転がる頭部が切断の証拠となっている。
座ったままのラウラの背からさらに触手が伸び、槍と化してネイルソンの心臓を貫いた。最初に放たれた触手は再び鞭の軌跡を描いてネイルソンの顔面を縦にそぎ落とす。
「……人を殺した経験、人に殺されかけた経験は重篤なPTSDを引き起こす。恐怖体験は同じ状況に陥った時に思考と行動の停止を招く。回避するためには人を殺した直後にダミーやヒューマノイドを相手に同じ殺害方法を何度も再現する。殺されかけた瞬間を可能な手段で繰り返し再現する。 ……特別なことは何も起きなかったと脳に認識させる必要があるのよ」
「アイリー・ザ・ハリストスはエイミーに背中から剣で串刺しにされても平然としていたわ。死に慣れていたのね」
ラウラの説明にカイマナイナはそう答えた。その顔にはネイルソンの返り血が斑模様に飛び散っているがものの数秒で肌に吸い込まれる様に消えてゆく。カイマナイナの服についた血も同様だった。一方のネイルソンの服は自らの血に塗れたままになっている。
ラウラがようやく、大きな笑顔を見せた。見た者の心に平安を与える様な輝く笑顔だ。
「こんな機会でもなければネイルソンを殺す事なんて出来なかったから、決戦を前に丁度よかったわ。ネイルソンも私に殺された記憶ならば恐怖を伴う事もないでしょう?」
「自分のデスマスクが2つも足元にあるのは不気味だがね」
跳ね飛ばされた頭部と削ぎ落された顔面を見ながらネイルソンがそう言った。言い終わる頃にはネイルソンの衣服についていた血は砂の様な粒子となって足元へと落ちている。どんな構造の変化があったのだろうか。
「貴方の血を直接吸収できた。とても美味しいわ、ネイルソン。あの体と頭、顔も私に任せてもらっていいわよね?」
カイマナイナが屋台の前で好物をねだる様な口調でネイルソンにそう問いかけた。曖昧な返事をするネイルソンの目の前でかつては彼であった体と頭部、そして削ぎ落された顔面が黒い色彩に包まれて霧散する。
「しばらくの間、美味しいものを何も食べたくないと思えるほど素敵な余韻だわ。可愛いネイルソン。あなたをそのまま食べられるなんて…… ああ、とても幸せだわ」
口中の残り香を愉しむ様な表情でカイマナイナがそうつぶやいた。ネイルソンを背後から抱きしめ、愛おしげに両手でその体をまさぐる。その様子を見守るラウラの顔に特段の感情は現れていない。ラウラの視線に気付いたカイマナイナがネイルソンに尋ねた。
「ラウラの触手は初めて見るわ。金属にしか見えないし節がある様子もない。どんな装備なの?」
ラウラが微笑んだまま触手の1本をカイマナイナへと放った。身体能力で反応できる速度ではないがカイマナイナに物理攻撃は通用しない。触手はカイマナイナの体に触れる直前で弾かれ、カイマナイナの体の周辺の空間に大きな光の亀裂が走った。
光の亀裂を目にしたカイマナイナが驚きの表情を浮かべる。ラウラが笑い声を立てた。
「私のとっておきよ。私が発する電気信号にネイルソンが結晶化のアクティビティで作り出した合金結晶が形状を変えて反応する。信号と形状をリンクさせること、自在に操れる様になるまでに10年を費やしたわ」
「空間転移による防御が無効化されたわ。私のオリジナルの防壁がなければ先端は私に届いていた」
カイマナイナの声には驚きが込められている。
「ネイルソンが作り出した金属よ。彼以上の能力がなければ相克する事が出来ない。私から見て雷撃のエレメンタリストと腐敗のエレメンタリストは一般人と変わらないわ」
「アイリー…… 大ピンチねえ」
義理で漏らしたとしか思えない感想にネイルソンが小さく笑った。自分の体を抱きとめているカイマナイナの手に自分の手を重ねる。
「では、カイマナイナ。戦場へと飛び出した勇敢なハリストスに深い絶望を」
任せて。と囁き返したカイマナイナの体が黒い色彩に覆われた。彼女の体が気配ごと部屋から喪失したのは次の瞬間だった。




