10‐ ネイルソンの狙い
薬湯で満たされたジェットバスの中でオリビアは豪奢な部屋をあてがわれた理由を考えていた。
広く深いバスタブはウレタン素材で作られており脚を伸ばして横たえたオリビアの体を柔らかく受け止めている。水着を着用せず全裸でバスタブに浸かり体を伸ばしている事が気恥ずかしく感じられた。それほど広い浴槽だった。
村の現状を考えようとすると頭の中が痺れた様な感覚で満たされる。自分ひとりが生き延びた意味、これから立ち向かわなければならない現実について考えようとしても言葉が何も浮かんでこない。死後の世界を、あるいは異星の情景を写実的に説明しろと言われたに等しい、途方に暮れる感覚だけが頭に広がる。
確信できるのは自分には何の価値もないという事実だけだった。同胞達の死に報いる力はもちろん、村を襲った悲劇の全容を把握する能力もない。自分ひとりがこれから生きていく力さえない。ひとりで村に帰ったところで生活を維持できる術もない。最も近い他部族の村までは80キロの距離がある。
知らない街で生きていくために頼れる様な資格も実務能力もない。保護地区の中で生きてきたのだ。身元保証人の当てすらない。
そんな無価値な自分に、なぜ豪奢な居室が与えられているのか。見た事もない大きなベッド。肌にしみこむ様な良い香りのする薬湯。何の任務もなくただ寛ぐようにと与えられた時間。
アイリーの顔を思い浮かべる。他に思いつく答えが得られないままオリビアは自問自答を繰り返す。
体を要求されるのだろうか。私を抱くためにこの部屋を当てがったのだろうか。
嫌悪感はなかった。それが理由ならこの待遇に説明がつく。説明がつくという事に安堵する。アイリーに対して自分がどんな感情を抱いているのかも分からない。オリビアの心と体は、まだ命の危険から解放されていないと感じている。自分を守った男が自分の体を求めてくるという状況はオリビアが感じている不安を解消できる想像だった。
アイリーが見せた人柄の中に傲岸さや粗暴さが微塵もない事がオリビアの心を麻痺させたのかも知れない。自分の性別を賞品とみなす自尊心の歪みにもアイリーが備える良識への不遜にも考えが至る事はなかった。本来のオリビアは性を交渉材料とする事を強く忌避する考え方をする女性だった。今は、本来の自分を見失うほどの危機感に飲み込まれている。
アイリーが自分を求めてくるのならば。その時間が早く訪れればいい。安心したい。安心したい。その渇望だけがオリビアの考えを埋め尽くしていた。
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ウバンギ共和国が隣国と戦争を始めたという報告にアイリーは頭を抱え込んでいる。もとより、国同士の戦争に介入するつもりはない。だがネイルソンがペク族の殲滅に関与している事をアイリーは確信していた。
ふたつの出来事は直接の関連があるのだろうか。偶発的な、ネイルソンも予想していなかった突発的な出来事なのだろうか。アンファンテリブルの部隊が共和国を襲撃するというのは何を意味しているのか。
アイリーにとって真相よりも重要な事はエレメンタリストによる次の虐殺は中断されるのかどうかという事だった。
「西方マディナ守護者連邦への迎撃にネイルソンが出てくる可能性はあると思うか?」
アイリーの問いかけにミサキが難しい表情を見せた。
「可能性は…… 低い。大統領の能力を俺は知らない。だが前回のハリストス戦に参戦していたというのならその能力を人間相手に使うのは完全なオーバーキルだ。エレメント・アクティビティの軍事利用は禁忌中の禁忌だ。どの国でも国軍が採用する事はない」
戦争終結後、相手国の怨みと憎しみはエレメンタリスト個人に向くからだ。とミサキは説明した。その憎しみに耐えきれなくなったエレメンタリストが祖国に反旗を翻す事例も存在していた。
「意志と個人の尊厳を持つ核兵器、と言えば想像しやすいんじゃないか? 一度使ったら使った方にも報復されるリスクがつきまとう。その時に反撃できる手段は存在しない。それにエレメンタリストが戦争に加担した場合、第三資源管理局の治安介入部が制圧に投入される」
治安介入部と個人でやりあう覚悟のあるエレメンタリストなど存在しない。それ程破格の存在なのだ。とミサキは言った。
かつてテロ組織に加担していた青い衣のエレメンタリストがカイマナイナとエイミーが治安介入部の所属だと名乗っただけでその場で膝を屈して全面降伏を宣言した姿をアイリーは思い出した。
「戦争に関しては君が専門家だ。俺達の状況を関連させた意見を聞きたい」
アイリーの問いかけにミサキはしばらく沈黙を守った。
「俺が知り得た情報だけで判断するなら…… ウバンギ共和国というのは国を名乗っているだけの難民キャンプと大差ない。アンファンテリブルの強襲部隊に対抗する力はない。守護者連邦は世界に自分達の正当性を訴え出る。世論を見極めた瞬間がウバンギの首都陥落の瞬間になるだろう」
「ネイルソンはどう出ると思う?」
「戦争の決着は…… どちらが強かったかではない。どちらの勝ちを世界が歓迎するか、だ。周辺国、そして世界全体を味方につけた方が被害の大きさに関係なくその後の国の安全を保証される事になる」
アイリーの隣でミサキの話を聞いていたリッカの双眸が淡い光を放った。
『ネイルソンは今年86歳になる。エレメンタリストの強制的な寿命120歳まであと36年。アンファンテリブルはウバンギを壊滅寸前まで攻撃し続ける。守護者連邦は合衆国を中心とした陣営に組みしていない中東陣営からの支援を受けている国。ネイルソンはウバンギで一定の被害を受けた後に自分の力で守護者連邦を壊滅させる。世界はウバンギの勝利の方を歓迎する。ネイルソンは守護者連邦を奪取した後、自分のアクティビティを防衛力に36年という期間を確保する。地下資源を手に入れた共和国の戦後復興期と経済成長を見守るにはギリギリ間に合う期間』
『意志と尊厳を持つ核兵器が国家元首となった国だからこそ可能な作戦……か』
『カイマナイナがネイルソン側についた。治安介入部の投入もないと思う。アイリー、これはネイルソンが仕組んだ戦争だよ。実際に行われるのは守護者連邦の国民に対するエレメンタリストによる一方的な虐殺。アイリー…… どうする?』
アイリーの記憶が67年前にネイルソン自身が語った言葉を呼び起こした。
“……僕が授かった力は他人のために使わなければならない。父さんと母さんにそう教わって生きてきた。他人っていうのは行った事もない国の、言葉も通じない人も含まれるんだろうか。僕の事を知らない人のために、僕は生まれて初めて他人を傷つけるために自分の力を使う”
『アンファンテリブルに出資している国はネイルソンが守護者連邦を奪取する事を肯定すると思う。それを邪魔立てする事はその国に隠れている実力者達の意向に逆らう事になる。世界を敵に回す…… っていう事にも発展するかも。アイリー…… どうする?』
リッカがアイリーを直視してそう尋ねた。




