02‐ 肉を食う
アイリーが目覚めたのは4時間後だった。エドワードが現地に乗り込ませたドクターカーには救急救命用のカプセルベッドが装備されていた。アイリーはそのベッドに体を横たえるとすぐに深い眠りに落ち、そして自然に目を覚ました。周囲は夜になっていた。
イノリはハッシュバベルの自宅で待機していると昼前に連絡があった。イークスタブを消失させたエレメンタリストの再度の攻撃はないがまだハッシュバベルにも東フィリピン海洋自治国にも戻る事は出来ない。結局、メキシコの密林の中で1日を過ごしてしまった。
半身を起こしたアイリーの嗅覚が場違いな刺激を感じる。感覚向上は解除されているが間違い様のない匂いだ。
「肉?」
声に出してつぶやいたアイリーのすぐ横にリッカが現れる。実際にカプセルベッド内に並んで横たわる事は出来ないがリッカは実体を持たない拡張現実映像だ。
『そー!! アイリーにはトリプトファンの摂取が必要だと思ったんだよ!!』
トリプトファン…… リッカの情報支援を得るまでもなくアイリーでも名前を知っている有名なアミノ酸だ。幸せホルモンとも呼ばれるセロトニンの材料となる。食用肉に多く含まれている事も知られている。
ドクターカーの入口からアンジェラが顔を覗かせた。迷彩を解いている。あるいは迷彩を発動させたままの別筐体がどこかで待機しているのかもしれない。
「起きた? リッカのリクエストで2ポンドのビーフステーキを用意しておいたわよ?」
「……この村で?」
アイリーの腹が鳴る。朝から何も食べないまま夜を迎えていたことに気づいた。食欲を感じている事に自分でも驚きを覚える。
「空間の置き換え能力は便利よ。ドアを数枚くぐる感覚でハッシュバベルと行き来が出来る。持ち主の許可なく村にあるものを使う訳にはいかないからドロシアに肉とフライパンを買いにいかせたわ」
「ありがとう?」
「ドクターカーの輸液保管庫で低温調理してから、この私の目で焼き加減を見極める逸品よ。今から最適の焼き色をつけるから食べて驚きなさいね」
「……2ポンド?」
「若いんでしょ? それくらい食べられるわよ」
車の外にテーブルと椅子が用意されていた。村にあったものではない。救急救命車に備え付けられている折り畳み式のテーブルと椅子だった。アイリーが椅子に座るとアンジェラがアイリーの目の前に置き石の様に分厚く巨大なステーキを持ってきた。
テーブルの反対側にリッカが現れる。リッカの前にもステーキが置かれているが、これはリッカが自分で用意した拡張現実映像のステーキだった。味覚同調したリッカと二人で食事をするときの定番ともいえるシチュエーションだ。
空腹に突き動かされてアイリーが大きく肉をカットして口に運ぶ。リッカも同じタイミングで肉を一切れ頬張った。
『ほっ…… ほいひい!!』
陶器の肌質はそのまま、片頬をリスの様に膨らませながらリッカが声に出した。短いが形の良い眉を小さな額の上の方に持ち上げて両目を閉じる。目尻に長い睫毛が集まりアクセントをつける。
「うん。美味い」
噛みしめると胃袋が早く飲み込めとせっついてくる。飲み込むと口の中が次のひと口を求めてくる。ノンアルコールの赤ワインを間に入れながらアイリーは一度もフォークを手放すことなく900グラムの肉を食べ尽くしてしまった。
テーブルの向かい側ではリッカがボディラインも露わな腹部をぽっこりと膨らませながら満足そうに口をすぼめて息を吐いている。
「……リッカの見立てには驚かされるわ。私は最初、精神刺激薬の投与を検討したのよ。すぐにアイリーに判断して欲しい情報があったから。でもリッカから薬物投与よりも焼いたお肉でトリプトファンを摂取させるようにってアドバイスがあったの」
無言のまま肉をむさぼり食べるアイリーを黙って見つめていたアンジェラが食後のアイリーにそう笑いかけた。のけ反ってぽっこりとしたお腹をさすっているリッカが上機嫌な声で応える。
『アイリーは大きなお仕事を終わらせたら自分ご褒美でお肉を食べる習慣があるんだよ。だからお肉を食べると過去の成功体験が関連づけられて想起される。やる気が漲ってくるってヤツだよ!! 薬物で何だか分からないけどハイになったよ、っていうだけじゃ冷静さは取り戻せないからね!! 大仕事の前にはお肉!! 人間、ちょっと贅沢したレベルのお肉を食べれば大抵の困難は乗り越えられるんだよ!!』
「さっぱり理解できねえ。いや、効果があったのは認めるけどさ。リッカも一緒になって食ったのは何でだよ?」
アイリーの視界の中に通信窓が開き、クラリッサが苦笑いを見せてきた。
『食事は大事なひとと一緒に食べたほうが栄養になるんだよ!! アイリーはね、わたしが美味しいって言うと一人で食べるときより倍以上、食事を美味しく食べられるんだよ!!』
『倍っていう数値の根拠がわからねえ。ただ効果があるのは認める。人間って面白ぇな』
『クラリッサの知見がつまんないんだよ』
リッカの軽口に気を悪くした様子も見せずにクラリッサが笑う。リッカが上機嫌な口調のまま続ける。
『人間の連想連鎖は自分の体験に強く影響を受けるから、ピンチの時は今の状況に関係なくても過去の幸せだった記憶や何かを克服したり達成した時の興奮体験を連想させた方が発想の幅が拡がるんだよ。最短時間で最適解を優先させるAIがまだ到達していない領域だよね』
「……心遣いをありがとう。俺に聞かせたかった話というのを聞かせてくれ」
軽口の応酬に長々と付き合うつもりのないアイリーが声に出してそう言った。最初に答えたのはリッカだった。
『一国の元首を務めているエレメンタリストに該当があったよ、アイリー。でもアンファンテリブルとの接点も見えないしアンチクライストとも対極の立場にいる人物。アイリーの意見をききたい』
「教えてくれ」
アイリーの視界の中に資料映像が展開される。日の光を青く照り返す様な極端に濃いメラニン色素を持つ黒い肌の青年。ネイルソンの姿だった。リッカが集めた情報をアイリーへと伝える。
『ネイルソン・ロイシャーシャ。世界で最も貧しい国、ウバンギ共和国の大統領。ハッシュバベル第一資源管理局の国際平和構築支援事務局長で60年前のアンチクライスト戦にハリストスとして参戦もした地界のエレメンタリスト』
『経歴と現在の状況も確認しています。まるで…… 60年前に現れたアイリーさんの様な人です』
アイリーの視界に通信窓が開き、現れたドロシアがそう伝えてきた。




