10‐ ブリトニーの助言
夜が明けた。アイリーは今、付き添う者もいないまま密林の中に造成された小さな村の只中にいる。イークスタブの診療所がある村からは最も離れた場所にある、昨夜全滅した村だった。傍らの家から小さくラジオの音が漏れ聞こえてくる。
思考回線を介して公共放送を受信することももちろん可能だが頭の中で音楽やトークが流れたままになると何も手につかなくなるタイプの人は今もスピーカーの使用を好む。アイリーが音の漏れ聞こえる家の玄関に手を掛けた。鍵を設置している家は少ない。同族で構成されている古い集落だからだろう。
リビングのソファには密林での着用に特化した作業用ジャケットが雑に畳まれて置いてある。今日使う予定だったのか、毎日使うための定位置なのか、正方形に畳まれたタオルが何枚か重ねられている。ラジオの音声はリビングの奥、寝室の方から聞こえている。
40代の男性と少し年下に見える女性は夫婦だろうか。大きなサイズのベッドに二人で並んで横たわっている。着衣の乱れはない。日々の労働に疲れた体を穏やかな会話で癒しながら夫婦ふたりの時間を過ごしていたのだろう。今は眠っている様にしか見えない。
アイリーは電源が入ったままのラジオを消して寝室を出た。廊下を挟んだ正面にある寝室もドアは開いたままになっている。まだ10歳にもなっていないだろう小さな子供が微笑を浮かべたまま眠ったように目を閉じている。心地よい夢を見ていたのだろうか。
息を殺す様に静かにアイリーは家の外へと出て玄関のドアを閉めてから手にしていた花束から花を一輪抜き取ってポーチの上へと置いた。村のそこここに咲き乱れる茎の長い花をアイリーが自分で摘み集めたのだ。
微かに口元を引き結んだアイリーの表情に強い感情は浮かんできていない。呼吸の乱れもない。指先や足元が震えているという事もない。ただ、双眸から涙だけが流れ続けている。頬を伝わりきった後の涙は途切れることなく雫となって足跡の様にアイリーの歩みを地面に記録し続けている。
『……全部の家を廻り終えたよ。アイリー』
アイリーに寄り添う様に立つリッカがそう告げた。アイリーが黙ってうなづく。アイリーの体が一瞬、緑色の光に包まれた。光は地に落ち、円環の型を取りながら閃く早さで直径を拡げていった。
『……ニナの腐敗のアクティビティが村の遺体を全て綺麗な白骨にしたよ。どの人も腐敗で家を汚したり獣に食べられたりすることなく埋葬の順番を待つ事ができるよ』
リッカの声音には労りの感情だけが満ちている。8000人の死者を短時間で埋葬する事は難しい。ミサキが用意できる遺体処理部隊を投入したとしても全滅した村の墓地をどこに定めれば良いのか。疫病発生のリスク、土壌汚染のリスク、そして犠牲者達の尊厳に手向けるべき敬意。
腐敗のエレメンタリスト、ニナに遺体の白骨化を依願したのはアイリーだった。証拠保全についての問題はなかった。村の被害を確定させるためにどんな証拠をどこまで保全しておくべきか。事故原因調査室はその決定権を持つ組織だったからだ。
全ての村を今日中にまわりきるつもりのアイリーだった。鎮静剤を投与されているオリビアには最低でもさらに18時間の睡眠が必要とエドワードが診断している。クラリッサとアンジェラは迷彩を発動している。
完全に無人の村の只中でアイリーは黙って涙を流し続けている。自責の念はまだ言葉を思いつかせるだけの収まりを見せていない。何も感じる事ができず、何も考える事ができず、ただ涙だけが溢れ続けている。そのアイリーに近づいてくる人影があった。
光学迷彩を解除し森林地帯用の野戦服を着たブリトニーだった。彼女がひとりでアイリーへと近づいてくるのはこれが初めての事だった。手近な家の庭先に置かれたベンチに腰をおろし、アイリーに隣に座る様に促してきた。
「……私達4人はそれぞれが違う性格を備えて生まれてきています。私は特に孤独を好む性格をしています。誰かに干渉するつもりはないし干渉される事を嫌う性格です」
アイリーの様子を話題にすることもせずにブリトニーは独白の様な事を言い始めた。アイリーは黙って聞いている。
「余計なことに口出しするつもりはありません。だからこれはどうしても必要なことだと判断したからする話です」
「どんな意見でも聞くつもりだ。言ってくれ、ブリトニー」
「オリビアは状況を把握した後、貴方に性交を求めてくると思います。その時には体内への射精を伴った性交で応えて下さい」
ブリトニーの言葉をアイリーは理解する事ができなかった。意図がまるで想像できない。ブリトニーは真面目な話をしている、という事だけはアイリーにも理解できた。
「何故、今そんな話をする? オリビアにも犠牲になった人にも失礼な話だ」
「恐怖を快楽で紛らわせるとか、貴方との男女関係で自分の立場の保全を図るという意味ではありません。自分が生きてきた事を実証する人も場所も全てが失われたと知った時にアイデンティティの崩壊を防ぐのは、自分の事を護る力を持つ者に自分自身を求められる事です。貪欲に自分を求めてくれる存在が自己の崩壊を繋ぎとめるんです」
「飛躍した話だ。オリビアは誇り高い女性だ。そんな」
「貴方は同族が一瞬で全滅し自分ひとりが生き残ったという経験をしたことがありません。私達は幾たびもその悲劇に立ち会っています」
それでもアイリーは首を横に振った。ゆっくりと湧き上がってきた感情は怒りだった。
「言いたくはないが俺に対しても失礼な話だとは思わないか、ブリトニー? 仮に男女が逆であっても俺に同じ助言をするのか? 出会って間もない男に抱かれろと?」
ブリトニーが薄く笑った。
「男性はこの悲劇に向かい合う強さをそもそも持ち合わせていません。廃人の様相を呈し薬物治療を施さない限り回復しません…… 蛇足ながらイノリも理解を示すと思います」
「……自分のスタイルを曲げてまで俺に助言をくれた事に感謝する。考えておくよ、ブリトニー」
もはや話を切り上げようとしはじめたアイリーにブリトニーがさらに言い募った。
「この虐殺にアイリーさんの落ち度はありません。予測できなかった事に対して間に合わなかったという責任も発生しません。ですがアイリーがオリビアの要求を拒んだ場合、オリビアは自死を選ぶと思います。拘束して自殺行動を回避させることも可能ですが精神崩壊は避けられないでしょう。……それはアイリーさんの落ち度になると思います」
『リッカ。意見を聞かせてくれ』
アイリーの問いかけは救助要請に近かった。リッカが心から不思議そうな表情を浮かべる。
『勃つの?』
『そういう話じゃないだろう?』
既に役目は終えたとでも言うようにブリトニーがベンチから立ち上がった。アイリーの反応には余り興味がない様にも見えた。
「日頃、人ひとりの命を救うためならどんな事でもするとアイリーが宣言しているから助言したまでです。持ち場に戻ります」
このやりとりを聞いているはずのアンジェラもクラリッサも沈黙したままだった。
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次章から徐々にドンパチ一色になっていきます。日曜日に更新できることを目指しております。




