01‐ 疑惑
診療所の壁際に設置されていた小さな台所に立っていたアンジェラがマグカップにハーブ茶を淹れてきた。悄然と椅子に座るアイリーに手渡す。手で持っていても火傷をしない程度に温度は調整されている。
「私が誰かの為にお茶を淹れたなんて話をしても本局の誰も信用しないでしょうね」
「アンジェラの淹れた茶を飲んでも死ななかった奴がいるっていう話なら誰も信用しないわな」
「ああ。毒殺の時は別カウントよ」
アンジェラとクラリッサが軽口を叩きながらアイリーの両脇にそれぞれ椅子を持ち寄って腰をおろした。
黒一色のアイリーの姿を取ったエレメンタリストが立ち去ってから20分ほど経過している。オリビアはエドワードが治療車両で迎えに来て今は眠っている。アイリーは村の広場へ戻らず、そのまま診療所に留まったままでいる。
『エレメンタリストは会った事がある人物の目前に転移する能力を持っています。状況を把握し、対応策が得られるまでは合衆国にも東フィリピン海洋自治国にも戻るべきではありません。次の虐殺がアイリーさんのホームタウンとなる可能性があります』
ドロシアの提案はアイリーを恐怖させるに充分なものだった。自分自身に対する危害の話ではない。村を襲ったエレメンタリストは生き残った3か所の村をほぼ同時に全滅させた。その範囲は40キロ四方にもなる。首都に帰る事が出来る状況ではなくなってしまった。
実際に自分が現れた事が引き金となり全滅してしまった村の只中にいるのだ。状況がアイリーを打ちのめしている。
『敵は無傷のままだよアイリー。考える事を止めたら後手にまわるばっかりになる。わたしはあのニセアイリーの言葉にすごい違和感を感じている。わたしの話を聞いて、アイリー』
リッカがアイリーに囁いた。そのリッカは今、椅子に座り肘を両膝に乗せてうなだれているアイリーに肩車をされている様な姿勢で座っている。
『何故に? そのポーズで現れるんだ? リッカ?』
思考回線で会話しながら視覚も同調させているクラリッサがリッカに尋ねた。
『わたしの趣味だよ?』
アイリーは気にしている様子もない。それどころではないのだろう。リッカに話の続きを促す。
『うん。ニセアイリーはアンファンテリブルの攻撃に失望したって言ってたよね。雇い主が傭兵の仕事が半端だったからって自分で手を汚しにくるものかな? やり直してこい。って一言いえば済む話じゃないの?』
アイリーが顔を上げ、続けて上体を起こした。実体を持たないリッカは慌てる風もなく器用に体重移動の動作を見せながら上体を起こしたアイリーに肩車されたままでいる。今はアイリーの頭の上に自分の両腕を乗せて上からアイリーを覗き込む姿勢になっている。
『例えばミサキとドロシアはお互いに協調路線で連携を取り合うけれど、依頼があれば応じるけれど、そこに命令系統は存在しない。ハッシュバベルの第一から第三までと東フィリピン海洋自治国。ちょっと違う区切りになるけど治安介入部と連邦捜査局と事故原因調査室。全部アイリーとしか繋がっていない。ハリストスという組織はアイリーにハリストスという役割を全うさせるための独立した組織の支援群の名前でしかない』
リッカが頬杖をついた姿勢をとり憮然とした表情でいい放った。
『もしかして、アンチクライストも同じなんじゃない? 虐殺のエレメンタリストは確かに存在している。でもそいつをアンチクライストとして覚醒させるための支援者っていうのが別に複数いる。だからどこか1か所が悪手を打つと他の1か所がフォローのために自分から乗り出してくる』
『勘弁してくれ…… いよいよ俺一人の手には負えない話だ』
『現実を見ようよ、アイリー。手に負えなくてもお好きにどうぞって訳にはいかないんだから』
『お前たちの会話…… 軽いよなあ。いや、いい事だと思うけどさ』
クラリッサが呆れた声を出す。当然だろう。エレメンタリストによる大量虐殺事件が連続して発生し、その対応の矢面に立たされている。僅かな判断の違いにより今後の犠牲者の数がどれくらい増えてゆくのか、その予測すら立てる事が出来ない状況をアイリーは自分のナビゲーターAIの励ましだけで乗り切ろうとしている。
アイリーが大きく息を吐いた。疲弊しきっているが敗北の溜息ではない。
『リッカ。大きな方向転換を伴う仮説だ。その根拠を聞かせてくれ。前振りまでしてくれたんだ。俺にとって不利な話、俺がダメージを負う話なんだろ? いいよ。聞くよ』
『わたしにとって世界はアイリーが生きている事が絶対条件で、アイリーの一生の味方だからね』
それはアイリーの死後の世界には興味がない。という事だ。ナビゲーターAIの特性としてクラリッサ達はその事を充分に理解している。
『ニセアイリーは鼻の穴が大きかった。頬骨もアイリーに比べてちょっと高すぎた。髪も少し短かった。3センチくらい』
アイリーの顔に困惑の表情が浮かぶ。リッカの不満の意図が分からないからではない。似てない理由を探ろうとしているのだ。
『わたしはアイリーの視覚から世界を見ているからアイリーの顔はいつも正面から見てる。ニセアイリーの顔は低い位置から見たアイリーの顔をイメージしていると思う。ニセモノを生み出したエレメンタリストはアイリーを低い位置から見上げた記憶を強烈にイメージしている。髪が少し短いのは最後に会った時、あるいは初めて会った時のアイリーの髪の長さを記憶しているから』
『3か月前に会った…… 俺より背の低いエレメンタリスト…… シャオホンくらいしか思いつかないが……』
『うん。わたしも一瞬そう思った。でももっと低い位置。身長は120センチくらいが一番しっくりくる』
『7,8歳の子供じゃねえか。そんな子供のエレメンタリストに遭遇したのか? アイリー?』
クラリッサの問いにアイリーは首を横に振った。まったく記憶にない。すれ違っただけの子供ならいるかも知れないが、立ち止まって子供と会話を交わした記憶すらない。
『高さ35センチのベンチに身長167センチの人が腰かけたら座高が85センチくらい。ちょうど120センチの高さになる』
アイリーの心臓に強い痛みが走った。3か月前。アイリーがエレメンタリストと人生で初めて遭遇した時。確かにそのエレメンタリストはベンチに座っていた。傍らに大量のテイクアウト食品を積み上げていたのがアイリーとの会話のきっかけだった。
『もう一つ。アンジェラが検出した2つの芳香族化合物。街中で流通する商品に限定してその香りが強いものを上げるならアネトールは八角。2-アセチル-1-ピロリンはバスマティ米。この二つの香りが街を象徴するほど大量に消費される場所は…… 香港』
レストランコートでニナの襲撃を受けた時、助けに現れたエレメンタリストは部屋着のままで現れ、同じ時間には香港にいたと言っていた。
『カイマナイナが…… 村を襲ったエレメンタリストなのか?』




