06‐ 交渉
扉の向こう側は応接室となっていた。寄木張りの床。無垢材で作られた腰高壁。曇りガラスの内側に炎が揺らめく間接照明。見回しても壁にはコンセントも設置されていない。日常生活の中に電気が導入される前の時代に作られた古城の一室。その当時をそのままに残している応接室だった。
ネイルソンの口元に微笑が浮かぶ。賃貸物件の事務所によく見るPタイルの床と無地の壁紙に囲まれただけの自分の執務室が思い出される。財力の違いだけではない。一つ場所で同じ暮らしを営み続けた歴史を持っているか否かの違いがこの差を生むのだ。
60年以上前にも幾度かこの部屋を訪れた事がある。その当時の調度品が今もここにある。手入れには職人の技術も必要となる。同じものを使い続ける方がコストのかかる時代に半世紀以上、100年を越えたものさえも現役で使い続けている事は俄かに湧いて出た経済力以上の力の存在をネイルソンに示していた。
その豊かさがネイルソンの心を深く傷つけた。この部屋の主と自分との間にある、取り返しのつかない格差。ネイルソンが心から求め続けてついに手に入らなかった。叶わなかった。間に合わなかった。この部屋に満ちているのは“安定した日々”だった。
背後で扉が閉じられた。彼をここに招き入れたエイミーは挨拶を交わす事もなく扉の向こうへと戻って行ってしまっている。彼の目の前にはこの部屋の主が悠然と座っていた。
18世紀頃に完成を見たアビ・ア・ラ・フランセーズと呼ばれるウェストコートの上に丈長いコートを着合わせた服。時代物の仮装ではない。24世紀の現代の意匠を細部に取り入れている。そのスタイルを生み出した文化圏の中だからこそ到達できた発展形、現代における最終形態とも言える完成されたフォルムを持つ姿だった。頭部は顔を隠すためにハットを被り、その外周は黒い布が肩先まで垂らされていて顔を見る事は出来ない。
第三資源管理局局長、イクサゴンだった。室内に足を踏み入れ、彼を見いだしたネイルソンだが互いに挨拶の言葉を交わす事もなく黙ったまま見つめあう時間が流れる。長い沈黙の後に言葉を発したのはイクサゴンの方だった。
「……よくぞ、僕を訪ねてくれた」
イクサゴンの声音には再会の喜びも来訪への感謝も込められている。その心の動きを言葉に変えることもせずイクサゴンは再び沈黙した。ようやく応えたネイルソンの声音は固かった。
「君に会いに来たのではない。第三資源管理局局長という肩書に会いに来たのだ」
「……歓迎するよ。用件を聞こう」
イクサゴンが椅子を勧めるとネイルソンは拒まずに大きなソファに腰を下ろした。深く腰掛けながらも部屋の主に顔をそむけて笑顔を薄く浮かべるのは心の激痛が仕草に現れてしまっているからだ。怒りや怨みではない。ネイルソンが痛みを覚えているのは自分自身に対する惨めさだった。何に由来しているものなのか。
「戦争を始めようと思っている」
「……戦争というのは反撃の意思と力を持つ者同士が衝突する状態を指す言葉だよ、ネイルソン。エレメンタリストの君が誰と戦争を?」
ネイルソンの表情から何も読み取っていないのか、イクサゴンが平坦な口調で尋ねた。
「軍事力を使った侵略戦争だ。局長には終戦時の調停を頼みたい」
「戦争を始める前に終わらせ方の相談に来たのかい?」
「当然だ。終わりを見込んで始めなければ戦争は採算が見込めず経済行為になり得ない。国際世論の理解が得られる理由を用意し、同情されるだけの被害を受け、便乗するものが出ない様な圧倒的逆転を示した直後に終戦させる。それが戦争という経済行為だ」
ネイルソンの言葉に悲壮漂う気負いはない。手慣れたプロジェクトを焼き直して大枠のみ説明をする様な淡々とした口調だった。彼の説明を聞いたイクサゴンは沈黙し続けている。長い時間を待ってようやくイクサゴンが口を開いた。
「……僕は話の続きを待っているんだが?」
「……戦局が不利を迎えた後の圧倒的逆転の際、私は自分の力を使う。相手国の民の8割までは殺すつもりでいる。過去にアンチクライストを追い詰め封じた力を現代の新しいハリストスの目前に示そう。それが局長へ調停の手間を依頼する事への対価だ」
イクサゴンがゆっくりと頷いた。驚いた様子を見せないのはその提案さえ想定していたものだったからか。
「当然に、君はアンチクライストではない。狂気に冒された人類虐殺のエレメンタリストという汚名しか後世に残せない。承知の上なんだね?」
ネイルソンが初めてイクサゴンに顔を向け笑顔を見せた。理知深い目元に諦めと自嘲が浮かぶ。
「新しいハリストスを探し始めたのは貴方達第三資源管理局だ。次のアンチクライストを生み出す“原罪”の覚醒が近いのだろう? 新しいハリストスにも会ったよ。今の彼では“原罪”はおろか次のアンチクライストにさえ立ち向かう力はない」
「分かっている。……君がその力を彼に授けてくれるのか」
「人類の滅亡を回避させるのは正義ではない。単純な力だ。エレメンタリストとして生を受けはしたが私には運も無く、努力の方向を見極める知恵も足りず、持て余す力だけが与えられた。汚名しか残せぬのは自業自得だ」
初めてイクサゴンが身じろぎをした。当惑と怒りがネイルソンへの問いかけに混じる。
「一体何が君をそこまで卑下させるのだ、ネイルソン? 君はエレメンタリストとして生まれながら祖国で国家元首となり独立国家の地位を守り続けている。エレメンタリストとしても間違いなく世界最強の一人に数えられる力を持つ。君を低く評価しているのは世界中で君一人だと僕は思う」
慰めではない本心からの問いかけにネイルソンは緩やかに首を横に振った。
「何を手に入れたかではない。何を手に入れられなかったか? ……私の生涯は失敗と敗北で終わる。私の事はいいんだ。私の問いに答えて欲しい。何故、アイリー・スウィートオウスは新しいハリストスとして選ばれたのだ?」
次回からアイリー大活躍の話に戻ります。本業多忙のため更新は数日おきになりますがお付き合い頂ければ幸いです。




