01‐ アイリーとの接触
ハッシュバベル本部ビルに隣接する公園に背の高い男が立っている。クラシカルに仕立てられたオーダーメイドのスーツを着ている。スーツに趣味を持つ者ならば生地はフランス製のビンテージ、仕立てもフランスの職人が守る伝統技術で作られた物だと気づくだろう。合衆国では所有する者も少ない。完成までに時間のかかる仕立て服を遠く離れたヨーロッパで作る理由を合衆国のビジネスの前線にいる者が持っていない為だ。
男の顔つきは混血化が進んで久しい一般的な合衆国人のものだった。浅く日焼けした様な肌の色も含めて特定民族の特徴というものは失われている。時刻は午後7時をまわった頃だろう。ハッシュバベルでも一般職に就く者は退勤した後の時間帯だった。
男が佇む場所は公園内にある監視カメラのどれからも死角となっている偶然が生んだ一角。知る者も少ないが第三資源管理局に用事のあるエレメンタリストがハッシュバベル本部ビルに転移する時に使う定番の場所だった。第三資源管理局本部には対エレメンタリストの防御システムがありフロアへの直接転移は不可能となっている。
「……風が淀んでいる。この空気の悪さは馴染むことがない」
男が小さな声で呟いた。彼の名はネイルソン。アンファンテリブルのラウラと共にメキシコの少数民族保護区を戦闘ヒューマノイドに襲わせた男だった。彼本来の顔は変装で隠されている。ネイルソンが公園内を見回し、ベンチに腰掛ける若い男の姿を見いだした。
夜の公園のベンチに一人腰掛け、両膝に肘を乗せ頭を垂れながら激しい疲弊に堪えている様子の男…… アイリー・スウィートオウスだった。かつてここでアイリーと治安介入部のエレメンタリスト・カイマナイナが運命的な出会いをしたことをネイルソンは知らない。アイリーがここにいる事さえネイルソンにとっては予想もしていない出来事だった。
一瞬の逡巡を見せた後にネイルソンはアイリーへと歩み寄った。その足音に気づいたアイリーが顔を上げる。ネイルソンの顔を見たアイリーの表情に動きはない。ただ、疲弊に耐えている。
「……こんばんは。突然失礼ですが…… アイリー・スウィートオウスさんですか?」
親し気な口調と初対面の礼節を守りながらネイルソンが慎重に声を掛けた。アイリーの目に不審の色はない。疲弊を抑え込み、彼もまた儀礼的な笑顔を浮かべてネイルソンに対して誰何した。ネイルソンが親愛の笑顔をアイリーに向けて答える。
「メディアで貴方の顔をお見かけした事があるだけの者です。失礼ですが、お身体の具合が悪いのでは?」
今度こそアイリーが警戒を解いた笑顔を見せた。
「お気遣いありがとうございます。調査業務を行った後なので休憩をとっているだけです。お見苦しい姿をお見せしてしまいましたが大丈夫です」
特別調査官が行い、疲弊を見せる調査業務ならば終末期再生調査しかない。一般人でも知っている有名な特別任務だ。有名人となっているアイリーがまだ危険な再生調査を行っている事にネイルソンは驚きを覚えた。
「お休みされているところを私の方こそ失礼しました。お会いできて光栄です。記念に握手をしていただいてもよろしいですか?」
握手を求める事は有名人と出会う機会を得た一般人が当たり前に示す敬意の表現だった。だがアイリーは申し訳なさそうに首を横に振った。
「申し訳ありません。私個人が負っている防犯上の理由から身体接触を禁じられている事情があります。ご厚意に応えられぬ非礼をお詫びします」
ネイルソンが掌にひそかに発動させたアクティビティを解除して微笑んだ。アイリーが守った礼儀に尊敬の言葉を口にして別れを告げる。今、アイリーと接触して事態を新しく展開させるつもりはない。ネイルソンはアイリーに背を向けてハッシュバベル本部入口へと歩みだした。
アイリーが短い時間ネイルソンを目で見送り、再び疲弊の沼に沈んでいくのを一度だけ振り返って確認するとネイルソンはそのまま歩みを進めた。
“あれがアイリー・ザ・ハリストス? 会えたのは幸運だった。だが映像でみた姿とはまるで別人だ。人としての器を語る以前に彼の心の在りようが見る者に全く伝わってこない。安全が確保された集団の中で目立たぬ事に汲々とする孤立した学生の様にしか見えない”
ネイルソンはハッシュバベルの本部エントランスの中を歩む。総合カウンターでアポイントがある事を告げゲストカードを受け取る。鏡面に仕上げられた大理石の床。行き交う人々は丁寧に手入れをされたスーツと革靴、アクセサリーの様に薄く小さく作られた高価な革鞄、月に2度以上は専門職の手直しが必要になるであろう整った髪型に血色の良い肌理の細かい肌をした者ばかりだ。
“生命が危険に晒される暴力も貧困もない街。日々の満足が生き延びる事ではなく自分の欲求がどれだけ満たされているかによって測られる街。何と豊かで不快な空間だ”
ネイルソンが周囲を拒む様に目線を床に落とした。エントランス奥にあるエレベーターホールへと歩みながら小さく笑い声を漏らす。耳に差し込んでいる通信機器から小さな声が聞こえてきた。
「君が笑い声を漏らすとは珍しい。アイリーに遭遇した事が原因かい?」
ラウラの声だった。ネイルソンが身につけているタイピンにはカメラが内臓されていてラウラは離れた場所からネイルソンと同じ情景を見ている。
「この街の豊かさに苛立ちと怒りを感じたんだよ。アイリーが見せたひ弱さにも怒りを覚えた。一目で見抜けるほどに、彼は自身の人生に信念も自信も持ち合わせていない。それでハリストスが務まるのか? まさか短期間の激突と勝利を以ってハリストスとしての物語は終わり、後は平穏な暮らしを得られるとでも思いこんでいるのか? 永遠不滅のアンチクライストに怯え、見捨てた民からの怨嗟と報復を浴び続け、その上で復讐者を許し続けなければいけない自分の一生というものを想像していないのか?」
「その感想がどうして笑いに結び付くんだ?」
ネイルソンが再び笑った。ラウラに答える声はすれ違う者でも聞き取れないほどに小さい。
「他人の豊かさ、脆弱さに羨望の怒りを覚えるなんて久しぶりだったから…… つい、自分に可笑しさを感じてしまった」
「回春を得た老人の様な事を……」
「うら若い娘がなんて表現をするんだ、ラウラ」
通信機器の向こうでラウラが笑った。
「私をうら若い娘と認識しているのか。恋の相手として私を見てくれるなら本望だ。アイリーが近くにいたのは僥倖。君の疑念に私が答えを探ってみよう」
会話に気を取られていたネイルソンは、この時異形の存在をすれ違った事に注意を振り向けなかった。豊か過ぎる街にはどんな存在がいても不自然ではない。その思い込みがあったからだろう。アンファンテリブルの子供兵達を近くで見過ぎていた事も影響していた。
ネイルソンとすれ違った後、立ち止まって振り返りエレベーターホールへと消えてゆく彼の後ろ姿を見送ったのは少女とも呼べない年ごろの姿をしたフィギュアロイドだった。




