00- 前ハリストス
権力者の執務室というものを語る時に対極的な分類方法がある。その部屋には窓があるか、無いかだ。窓のある執務室は殆どが高層階に設置され、権力の及ぶ範囲を広く見下ろす事ができる作りになっている。
権力欲の視覚化ではない。分岐点はその地に平和が維持されているか否か……。 武力を伴う抗争が続いている中で見晴らしの良い高い場所に自分の居場所を設ける様な平和ボケした権力者はいない。
四方の壁と天井をクロス貼りの実用的な設えとしているこの執務室にも窓は一つもなかった。執務室には巨大なプレジデントデスクが設置され、奥にある椅子には年若い男性が身体を沈めている。理知的な眼差しが印象深い、青く照り返す様な美しい黒色の肌をした青年だった。
デスクの前に置かれた応接セットに座っているのは古典的な東バルト人、東ヨーロッパ民族の特徴を色濃く残した少女だ。柳の葉の様な切れ長の瞳に高い鼻梁、化粧を施さなくとも鮮やかに紅い唇が見る者の目を惹きつける、淡く濃淡がある栗色とも亜麻色ともつかぬ髪は丁寧に手入れされている。
少女が口を開いた。
「東フィリピン海洋自治国の都市、セントタラゴナ壊滅事件の主犯者はエレメンタリストだった。このエレメンタリストを封じたのは治安介入部ではなく合衆国に国籍を持つ一般人だという。驚くじゃないか。ハッシュバベルはこの人間をハリストスと公認したそうだ。感想を聞かせてくれないか? ネイルソン?」
まだ10代前半にしか見えない少女だが口調は成熟した大人のもの。語彙も言葉の使い方も長く実社会で生きて来た事を窺わせるものだった。ネイルソン、と呼ばれた青年が問い返した。
「……遠い国の話だ。ラウラ。僕にどんな感想を求めているんだ?」
「67年前、中央アジアに出現した最後のアンチクライストを封じたのは君だ。前・ハリストスである君に何の話もないままにハッシュバベルは新しいハリストスを公認した。その非礼な仕打ちに対する感想だよ」
ネイルソンが薄く微笑んだ。
「……感想など無いよ、ラウラ。見ての通り、僕の人生は失敗と敗北を繰り返したまま終焉を迎えようとしている。僕にとって今日を生きる喜びとは過去を思い出さずに過ごす事だ」
ネイルソンの表情に寂しさや後悔の影は浮かんでいない。同情を引くための言葉ではなかったからだ。彼は失敗しか残せなかった自分自身を既に消化しきっている。年若い、20代にも見える見た目からかけ離れた諦観の持ち主と言えた。
ラウラ、と呼ばれた少女が微笑んだ。美しい顔だちの少女がもらす微笑は少女が享受している幸福をそのまま現している様に見える。
「人生に失敗した者ほど自分が生きた爪痕を世界に残したがるものだ。君が今背負っているもの…… 祖国の未来と世界人類の未来。どちらも君の死を以って気軽にその背から下せるものでもあるまい。新しく湧いて出たハリストスの目の前に世界の地獄と人類の滅亡をつきつけてやろうと思わないか?」
「……イクサゴンの入れ知恵だな? ラウラ? 僕に虐殺のアンチクライストとして名を遺せと言うのか?」
「君が残す爪痕がどんな名で呼ばれるかは君が死んだ後の話になる。君に悔いのない人生を送って欲しい。永遠を生きる私の願いだ」
少女の声には真摯さが溢れていた。その言葉は本心そのものだからだ。ネイルソンは目を閉じて改めて椅子に深くその背を預けた。少女の言葉に答える事なく、少女も返答を促すことなく、沈黙が執務室に重く漂った。




