12‐ アイリーの覚醒
アイリーの眼前ではまだクラリッサとミサキによる一方的な攻撃が続いていた。ニナには対抗する術がない様に見えた。これが最後の戦いとなるのだろう。その予感がある。
だがアイリーにはまだ答えを見つけられずにいる最大の疑問があった。ニナは最終的に何を達成しようとしていたのだろう?
虐殺を予告し、実行した。アイリーをハリストスと呼び、一方的な干渉を繰り返してきた。それは彼女がアンチクライストと呼ばれる為に必要な条件なのだろうという推理の上でアイリー達はニナを追い続けた。
ニナは追い詰められ、今まさに敗北の中でその動きを止めようとしている。だが与えられた時間の中では絶対の不死を誇るエレメンタリストをこの場で制圧できたとしても将来の安泰を得た事にはならない。
ミサキとクラリッサはニナに絶望を与える事で再起の意志を挫こうとしている。それはアイリーにも理解できる。ニナは…… 絶望するだろうか?
『アイリー? ニナが最終的に目指していたものが何なのかが大事だよ。絶望してる場合じゃねえっていう目的があったら必ず復活して同じ事を繰り返す』
実際に起きた出来事の中から原因を見出す能力を持つアイリーは記憶を手繰る。アイリー自身が未だに違和感を拭えずにいる矛盾。
『セントバータン災害医療病院で俺がプロファイリングしたニナは、最初のアンチクライスト、叫喚鮫と呼ばれた女に比べて理性と感情のバランスが取れすぎていた』
『シャオホンは67年前アンチクライストを制圧する為に、戦闘能力に特化したエレメンタリストの部隊が投入されたと言っていた。ニナは… ミサキとエドワードのチームに圧倒されている』
『ニナは夫を死なせた罪を償いたいという願いが叶わずに60年を生き、その願いを叶える為に虐殺行為を始めた、というのがイノリの推理だった……。 夫の死と関係のない罪で裁かれる事がニナにとっての救済となるのか?』
アイリーの心に次々と、一度は置き去りにしてきた疑問が蘇ってくる。リッカがアイリーに問いかける。
『アイリー? わたしが気になる事を聞いて? カイマナイナもテレサもシャオホンも、アンチクライストについて一度も嘘をついていない。カイマナイナとシャオホンは表情解析で確認したし、テレサが見せた映像に加工した形跡はなかった……。 でも話は微妙に食い違っている……。 ミサキはアンチクライストという存在を知らないと言っていた』
『……シャオホンはニナの味方側についてエイミーと交戦中だ』
アイリーがリッカの顔を見た。リッカはアイリーに初めて見せる極限の緊張を表情に浮かべている。スペックの限界近くまでを推理と検証に費やしているからだろう。
不意に、そして一瞬だけ、アイリーは場違いな印象をリッカに抱いた。
“目元と頬のあたりが、ほんの少しだけエイミーに似ているなあ”
『うるせーよ、同じ顔に変更しようか? なに? わたしの顔に飽きがきたの? 自分の片恋が実って世の中の他の女性みんな同じ顔に見えてきたの? バカなの? ミサキ並みのバカなの?』
リッカの顔に不機嫌の表情が湧く。
“ああ、似てないわ。ぜんっぜん似てない”
ほんの一瞬、思考が横道に逸れた事でアイリーの中に破片として散らばっていた疑問と違和感が新しい連鎖を紡ぎ始めた。
『誰も嘘をついていない、という事は真実を語っているという事と同じ意味にはならない。沈黙する事で明かされなかった情報がある…… それが俺たちに誤解を与えた?』
リッカが表情をあらためてアイリーを見つめた。
『アイリー…… アンチクライストが現在に繋がる作戦名だというのなら、カイマナイナとテレサ、シャオホンは今現在も全員つながっている。それから…… ニナだけは一度もアンチクライストについて語っていない』
『人類は過去に3回、アンチクライストの出現を経験している。次世代の出現に全く備えずに過ごし、新しいアンチクライストが現れたらその時のハリストスに全てを丸投げする。 ……そんな話があるだろうか?』
アイリーの視界の中に起きた緑色の発光がアイリーの注意をひいた。リッカがアイリーの目の前から退いてニナの方を見る。
そこには見た事もないフルプレートの異形の者が立っていた。ミサキの姿はない。クラリッサは下半身だけを残して地に倒れている。
リッカがアンジェラが視ていた映像を受け取った。アイリーも瞬時にこれを記憶の中に組み入れる。リッカとアイリーの目に全く同じ色の表情が浮かんだ。納得の色だった。
『次のアンチクライストが新しいハリストスをのんびり育ててくれる存在とは限らない。そんな当たり前を見逃していたのが誤解の根本原因だったか』
『アイリー? それを冷静に判断できるアイリーは最高だとわたしは思うよ。アイリーはわたしの誇りそのものだよ!』
リッカの興奮しきった声にアイリーは目を伏せる。二人は矛盾の解決に成功したのだ。あとは答え合わせだけ。だがその前に、最後に一つの大きな課題が残っている。それはアイリー自身の覚悟だ。
『……この流れは、幸いにも仕事に誇りを持つ事が出来た俺の生き方に合致するよ、リッカ。でも俺の選択は、その未来には、確実な死が待っている。リッカはそれをどう思う?』
リッカが僅かに眉をまんなかに寄せる。困ったときに見せる顔だ。
『いつかは死ぬじゃん? それにすぐ死ぬ話にもなってないし?』
『例えばその…… お爺ちゃんになって…… 孫に囲まれて…… とか』
『孫の前にまだ子供がいないじゃん?』
堪えきれない様子でリッカが笑い出した。アイリーの想像が突飛なものに見えたのだろう。
『わたしの大事なアイリー? わたしが望んでいるのは人生の最後の最後の瞬間にアイリーとハイタッチしながら二人で大笑いすることだよ? それまではどんな人生でもいいし、その長さもどうでもいい。……最後にわたしとアイリーふたりきりで大笑いして、最高だったね!ってハグして眠る人生だよ?』
アイリーの心に深い安心が満ちてくる。
『ああ…… それなら、がんばれば叶いそうだ。俺は幸せ者だな、リッカ』
『もっと感謝しても構わないよ?』
巨大なエメラルドの結晶が中心から光を放っている様な鎧姿の異形の者がアイリーを凝視しているのが見えた。
アイリーは背後に立つカイマナイナを振り返る。その表情を見たカイマナイナもまた驚きの声をあげた。ニナが変貌を遂げた時にもあげなかった声をあげた。
「まるで別人に見えるわ、アイリー・スウィートオウス。本来の栄光に包まれるルキフェルの様だわ」
有名な絵画の題名をカイマナイナが口にした。リッカが検索し“似てない”と言う。リッカの言葉を聞き取れないカイマナイナがさらに小さくつぶやいた。
「……この場からあの子を遠ざけて正解だったわ。あの子はこの顔を知っていたのね」




