08‐ 強襲
イノリの視線を正面に受け止めながらアイリーは絶句する。
「それが数十万人を殺す理由になるのか?」
アイリーの問いかけにイノリは首を横に振った。
「ノルベルト一人の死はもう遠い原因に過ぎないわ。ニナが歪んだのは償う事さえ諦め続けて生きてきた60年という歳月よ。その時間の長さが…… 彼女の中で命の価値を低く軽く貶める結果を招いた」
イノリとアイリーの話を聞きながらエドワードが目を伏せた事にアイリーは気づいた。アイリーにその真意は分からない。
エドワード・スタリオンもまた、4年半の眠りから目覚めた時に盟友・ライアンが存在しなくても安寧にまどろむ社会を目の当たりにして、強い憤りを覚えたのだ。自分が大切に思う者の存在が否定された社会の中で自分を保って生きるのは難しい。
まったく納得していないアイリーの顔をイノリはゆっくりと見つめた。表情だけではない。その肌、その髪、力強い筋肉の間を走る血管の艶めかしさまで愛おしく見つめる。
ニナの行動には最大の疑問が残されている。そしてイノリはその回答に辿りついてしまっている。その答えが、イノリをしてアイリーを飽きず見つめ続けるという行動に駆り立てている。イノリの心に後悔は微塵もなかった。
アイリーがイノリの視線に気づいた。イノリが微笑む。
「信じられるから…… 恐怖はコントロールできる。愛しているわ。アイリー」
イノリの唐突な言葉に顔を赤くしながらアイリーが指を絡めてつなぐイノリの掌を改めて強く握った。イノリの表情が変わる。
アイリーに向けた表情は冷笑だった。目の奥からアイリーを覗き込む人格が入れ替わっている。
「貴方が私に掛けてくれた情けへのお礼。ジャケットのお礼に、イノリが別れの言葉を口にする時間を待ってあげたわ、アイリー。感謝しなさい。そして生涯続く後悔の沼へと沈み込みなさい」
イノリの声質はそのまま、口調の早さと言葉のイントネーションが変わった。アイリーの顔に恐怖が浮かぶ。その表情にイノリの顔をした女は哄笑で応えた。
「疑問に思わなかったの? 自惚れの強い人……。 イノリの推理をずっと聞いていたわ……。 アイリー、貴方は大事な人を失う嘆きも、現実に逆らえぬ諦めの苦しさも知らない、小賢しいだけの不熟者の裁きや赦しに私が価値を見出すと思ったの?」
あは、あはは、あははははは。
「ばあか」
イノリの顔にアイリーに対する軽蔑の表情が浮かぶ。その表情を最後にして。
イノリの姿は掻き消えた。アイリーの手に微かな振動が伝わる。アイリーは自分の手に視線を落とす。
イノリの細い手首から先だけがアイリーの手の中に遺されていた。




