06- バランシアゼ家
『ニナが60年前に発表した論文に、どうしても気になるところがあったんだよ』
セーフハウスのダイニングでリッカはアイリーに改めてそう告げた。その違和感自体は先夜、エドワード達と情報交換をしていた場でもリッカは口にしていた。
『俺は森林形成科学に深い理解力を持っていない』
『わたしもないよ? 何が書いてあるのかは理解できるけど、それがどれだけ素晴らしいとか有益だとかは判断できない。わたしが気になったのは文章構成に現れる個性だよ』
人が自分の考えを伝える時に作る文章には固有のものと断言できるほどの個性が出る。その発想、展開方法、一文の構成、文字数の長さ、同義語と類語の中で多用する単語の選び方、句読点の打ち方…… 構文認証は21世紀には合衆国中央情報局でサイバーテロリストの特定という目的のもとに実用化を果たしたシステムだった。
『ニナが主筆した論文は60年間で15本。多くない。でもどれも高い独自性と有益性が評価されている。当然だけど共著者も多い。1本あたり平均して50人近い共著者がいる』
1本の論文に50人もの共著者がいるという事にアイリーは驚きを覚えた。自分が大学を卒業した時に提出した論文は一人で書いたものだ。リッカが発表している論文も基本的には単独著作だ。
論文で共著者が多いのは学会では当然の流れらしい。直近の人類が直面している問題は、どの分野であれ共同研究でなければ追い付けないほど問題の範囲が広く、深くなっている。
『共著者が多い論文の文章構成なんて不自然が起きて当然だろ?』
『うっせ黙れ。最後まで聞け』
リッカの目の周辺に濃い影が現れた。怒ってないけど機嫌悪くなるよ?というサインだ。リッカとの付き合いが長いアイリーは即座に頷いてみせて恭順を示す。
『共著者が他で書いた論文も全部、分析にかけたよ。ニナの研究はテーマが明確で分業が徹底されているから分析しやすかった。名義売りもなかったし』
共著者に名前を載せるから研究費を頂戴、という事も当たり前にあるのだとリッカは併せて説明した。
『60年前に発表したその論文にだけ存在していて、以降の論文に全く参加していない執筆者が一人いる。誰かが分からない。共著者に名前を載せていない研究所スタッフが、他の機会に発表している文書も可能な限り確認したのに、該当者いない』
リッカの言葉にアイリーは成る程、と思った。きっと存在したのに名前が出てこない執筆者がいたのだろう。リッカがその存在に拘る理由が分からなかった。
『アンジェラが言ってたコトあるんだよ……。 連続殺人者の殺人傾向を決定づける要因の一つに、最初に誰を、どんな風に殺害したかが重要になるって』
『……。 存在しない共著者は既に死亡していて、その死にニナが関わっている、とリッカは考えたのか?』
『可能性にはシロクロをつけておきたいじゃん?』
そうであったとしても60年前の話だ。ニナはその後も研究者として実績を残し続けている。その期間に犯罪組織との接点は見つかっていない。
会話に参加する様にドロシアとエドワードがダイニングに入ってきた。イノリは最初からアイリーの隣に座り、微かに腕と腕とを触れあわせて互いの安全を確認しあっている。クラリッサとアンジェラもダイニングへと入ってきた。応接セットの定員を越えているために壁近くに椅子を持ってきて各々に座る。
「アイリー? イノリ? 別に隠す仲でもないんだから、もっとベッタリくっついてていいんだぜ? ……って、もう手を繋いでんのか! 中学生かよ!!」
クラリッサが朗らかに笑う。イノリが顔を赤くして俯く。アイリーも顔を赤らめるがその手を解いたりはしなかった。
イノリの感染は解除されていないだろう、という予測は全員が共有している。アイリーが触れただけで感染が解除されるという事も希望に根差した可能性に過ぎない。だがアイリーがイノリの体に触れている状態でイノリに何らかの発症が起こったらどうなるか。
アイリー自身に耐性があるとはいえ、感染者の発症それ自体は明確な他害目的の能力発動だ。アイリーによって能力の発動は阻害されるのではないか?
セーフハウスに詰めている全員の見解が一致した結果、アイリーとイノリは‟四六時中くっついているコト”という取り決めとなった。トイレの時だけはドアの外で待機らしい。クラリッサとアンジェラは反対したがドロシアが「アイリーさん達は訓練を受けた兵士ではないから、それは心理的ストレスになる」と反対してドアの外待機となった。
「ニナ・バランシアゼの経歴を調べましたがクリアの一言でした。研究分野が特殊なために学閥争いなどもなく個人の交友関係でトラブルがあった形跡もありません。 …… 特殊という意味で注目したのはニナが24歳の時にバランシアゼ家と親子縁組をして養女となった点でした。学術的な実績を持つ専門家一族という事はない一般家庭です。エレメンタリストのニナが一般家庭の財産に興味を持つ事も考えられません」
ドロシアの話はアイリーがクラリッサと共に東フィリピン海洋自治国へと出向いていた時の話だ。アイリーは答え合わせだけを聞いている形になるが、知るという経験を経ないで得た知識には疑問を挟むタイミングを得難いという欠点が残る。この場にいる全員がアイリーの見解を求めているという事情もあり、口頭説明の場となっていた。
「バランシアゼ夫妻に子供がいた記録もなく、ニナは唐突にバランシアゼ家に接近し、出会って極短期間で養女になったという経緯がありました」
当然、夫妻はもう亡くなっている。60年前の話だ。だがアイリーはその場でドロシアに尋ねた。
「夫妻の生前の生活資金決済履歴を確認しましたか? それから当時の写真。本人からのルートではなく、相貌検索を掛けた他人が所有するバランシアゼ家の写真です。夫婦の二人暮らしに突然ニナが接近するというのは不自然だ。ニナと同世代の同居者の存在を確認するべきだ」
『ほらね? わたしのアイリーは、こういうとこがアイリーなんだぜ?』
リッカの得意気な声が思考通信でドロシアに届いた。リッカの声が届かぬはずのイノリがアイリーの手を握る手に力を込めた。誇らしげな感情がアイリーに伝わった。




