10‐ イノリの男女的告白
着替えが見当たらなかったアイリーは入院着のまま室内の応接セットに座ってイノリの到着を待っていた。
「先ずはお互いの無事を喜びあいましょう。お疲れ様でしたアイリー」
アイリーの正面に座ってイノリが微笑んだ。声は静かに凪いでいる。だがその顔には汚いものを目の前に突きつけられた様な嫌悪が浮かび上がっている。
アイリーの顔がさらに土気色になった。イノリから目を逸らし俯いてしまう。
「……。 エレメンタリストが俺の病室に現れた時の映像を見ましたか?」
イノリが頷いた。アイリーの顔はもはや質の悪い粘土細工のような色合いだ。
4年ぶりに目を開いたライアンを前にして、彼を抱いたエレメンタリストにむかって“何で勝手に治した”と激昂する自分を見られた事が確定したからだ。
さらにエレメンタリストが指摘したアイリーの心情さえ聞かれていた事になる。
「……。 顔を上げて私の顔を見なさいアイリー」
アイリーが顔を上げる。
目の前に臭気を放つ汚物を突き付けられた様な険悪な表情のイノリがいる。
「合わせる…… 顔がないです。詫びる言葉も見つからない。自分に失望しています」
「私がアンチクライストの能力に感染していると分かったから? そして死の宣告を受けたから? ライアンの覚醒を目の当たりにしたあなたが絶望から声を荒げたのを見られたから?」
「……。 全てです……。 ああ…… 本当に俺は……」
「貴方に過失はないし私は一切に後悔を感じてなどいない。私が直面している問題は私のものよ。対処する権利も責任も私の手の中にある」
ならばその嫌悪の表情はなんなのだ。
イノリが沈黙した。アイリーはひたすらにイノリの発言を待っている。
「そうね……。 貴方が私にわだかまりを感じているのなら私にも伝えなければいけない事がある。私はライアンの襲撃を予測した時に貴方がすぐに行動を開始した事が何よりも心強かった」
イノリの顔から嫌悪が消えて表情そのものが抜け落ちた。
「夫が眠る病室に転移させられ、見知らぬ看護ヒューマノイドから銃口を向けられた時、私はあなたの姿を探した。あなたからの助けを一番に求めた」
深い溜息。イノリがもらしたものだ。
「……。 それが私のわだかまり。自己嫌悪で気が違いそうになるわ」
「言っている意味が分からない。全部当然の事だろう? なぜそれがわだかまりに?」
アイリーの質問にリッカが違う答えを出す。
『アイリーの感じているわだかまりもイノリからしてみればナニソレ?って事だよ』
『意味が分からない』
「伝わらないのね…いいわ。言うわよ。アイリー」
イノリがアイリーを直視した。その直前にイノリとイノリのナビゲーターの間でも何らかの会話があったのだろうとアイリーは推測した。
「状況は言葉通りの命がけの局面よ。私と貴方の間に互いに知られたくない秘密があった場合、その秘密の暴露を怖れて一瞬の判断が遅れたらお互いの命が危険にさらされる……。 そう予測されるから言うわよ。言うわよ?」
「…はい?」
イノリが再び汚物を見る表情になった。アイリーの心に痛みが走る。
イノリの声音が高くなった。口調が早口になった。普段の彼女に似つかわしくない姿だ。
「この…このトラブルが解決したら…… 私は貴方の希望を尋ねてそれに沿った行動をとるわ。私とあなた、ライアンがどんな状況であったとしても……。 貴方が室長の座を譲れというのならその通りに推薦するわ。私に調査室から去れというのなら去る」
アイリーの顔に困惑が浮かぶ。そんな希望を持つ訳がない。イノリは何が言いたいのか。
「貴方が私に死ねというのなら死ぬわ。怖いけど」
「待ってくれイノリ。俺がそんな事を望むわけが」
「あなたが!」
アイリーの言葉をイノリが大きな声で遮った。
「あなたが!! ……私にプロポーズをしたら!! ……私は心から喜んであなたに応えるわ」
「…は?」
「あああっ!! 分かってるわよ! そんな事、あなたがするはずない! でも分かってるのよ!! あなたが幾百も死の体験を繰り返すのは…… 誰のためなのか!! 私から言うわよ!! 私がライアンの妻でなかったら!! あなたはこんな無茶な調査回数をこなしたりしなかった!! 弟としてだけなら!! ここまではしなかった!! ……分からない訳ないでしょう!?」
アイリーの顔に虚を突かれた表情が浮かぶ。自分自身でも考えてみた事もない前提だった。
もし…… イノリがライアンの昏睡を嘆き悲しむ妻として存在していなかったら? 調査室には兄と弟の二人しかいなかったら?
……幾百回という調査には ……挑まなかった。
その新しい認識がアイリーを驚かせた。初めて、自分の行為はイノリの為であったのだと自分で理解してしまった。
イノリの早口の独白はさらにトーンを上げる。金切声にも近いほどだ。
「こんなに近くで毎日あなたを見ているのに!! 気づかない訳ないでしょう!? ……でも応えられないでしょ!?ふしだらでしょ!?あなたとライアンのご両親に何ていえばいいの!?」
もはや錯乱に近い早口でまくしたてながらイノリは両手で自分の顔を覆った。
「でもあなたが私のそばに居てくれると心強いのよ! あなたの不運に一緒に立ち向かえると知った時、あなたとなら、置いて行かれる事無く一緒に死ねるかも知れないと思った時、私は心がはずんだのよ! 最低でしょ!?」
「…最低じゃない。絶対に、その評価は違う」
アイリーの耳元でリッカが小さくうおおお、と呻く声が聞こえる。
アイリーの視界の隅でリッカは大きく手招きをしている。意図せずとも気が逸らされてアイリーはリッカの様子を見てしまう。
リッカはアイリーのメンタルパラメーターらしきものを凝視している。
らしきもの、というのはアイリー自身も初めて見る形、初めて見る光量を放つ図形だったからだ。
『アイリーのメンタルが全部の指標でポジティブ方向に人生最大値を更新中!』




